日光世界遺産に繋がるこの道を、かつては路面電車が走っていたことをご存じでしょうか。

明治時代の後期までは、この坂道を馬車や人力車で進むしかなかったのですが、日光軌道線、通称「日光電車」の登場によって、アクセスが非常にラクになりました。
最終的には、クルマ社会の到来によって廃止となってしまうのですが、日光電車の廃線跡を追いかけながら、観光地日光の歴史を振り返ってみたいと思います。
ぜひ最後までお付き合いください。
日光駅の開業
現在の東武日光駅(下写真)の付近から出発します。

さらに先の左側にはJR日光駅(当時は日本鉄道→国鉄)があります。ここが日光電車の始発駅となり、明治時代の半ばにはここから東京方面まで鉄道で繋がっていたわけです。

日光街道と呼ばれる国道119号を進み、日光東照宮を目指します。

江戸時代には、江戸の街から徳川家康が眠る聖地である日光まで、何日もかけて徒歩で移動していました。日光東照宮への参拝だけでなく、参勤交代など様々な目的で使われていたわけです。
明治時代に入ると車道が整備されはじめ、馬車、人力車、駕籠(カゴ)を使えるようになり、移動の選択肢が増えてきました。
明治18年(1885年)から、周辺環境が大きく動き出します。
宇都宮駅が開業したことで、大宮から宇都宮まで蒸気機関車で移動できるようになり、そのわずか5年後の明治23年(1890年)には、宇都宮から日光まで鉄道が開通しました。

これによって、東京から日光まで5時間以内で行くことができるようになり、日光東照宮であれば日帰りも可能なほど身近な存在になりました。
しかし、日光駅までのアクセスが改善されても、国際避暑地として人気が高まっていた中禅寺湖までは、人力車やカゴを駆使して行かなければなりませんでした。
アクセスの悪さが大きな不満となるのは当然で、日光駅から中禅寺湖まで、人力車で往復7時間、カゴで往復9時間という時代です。
日光電車が登場する前の日光は、中禅寺湖に行きたくても行きにくい、そういった交通事情でした。
足尾銅山の急拡大
日光世界遺産のシンボルである神橋、そしてクルマや徒歩で渡るための日光橋、現在はこの2本だけが大谷川を渡っています。

かつては日光電車専用の橋も架かっており、3本の橋が並んだ光景が見られました。

日光東照宮をはじめとした世界遺産エリアを抜けて、いよいよ中禅寺湖方面に向かいます。国道119号から120号に切り替わります。
このあたりは片側一車線にしては道路幅が広いのですが、まさにこの一部を日光電車が走っていたためです。

日光電車が登場した背景ですが、そこには足尾銅山も大きく関わっています。
江戸時代から有数の銅の産地として、足尾銅山は栄えてきましたが、そこから大量の銅を運ぶ作業は非常に大変でした。
栃木県と群馬県の境界線に近い足尾で、どんどん採掘がされるわけですが、それを運ぶには馬1頭がやっと通れるくらいの険しいルートを使う必要があります。
北上するにも南下するにも難所だらけです。
この状況を打破するために着目されたのが、日光駅まで延びてきた鉄道です。
足尾銅山から岩ノ鼻に向かって、道路を整備して、馬車鉄道を走らせることにしました。
こうして、足尾銅山の銅を岩ノ鼻まで馬車で運び、さらに馬車や牛車を使って日光駅まで運ぶ時代が訪れます。

そしてついに、銅の採掘によって財閥を築くほどの成長を遂げた古河一族によって、馬車鉄道が路面電車に生まれ変わります。
明治43年(1910)に、この銅を運ぶルートの一部、岩ノ鼻から日光駅まで路面電車となり、これが日光軌道線、通称「日光電車」となりました。
物資輸送から観光輸送へ
クルマに乗っているとほとんど見えないのですが、田母沢橋梁には日光電車が渡っていた橋梁跡(下写真)が残されています。構造的なことはわかりませんが、意外とスリムな骨組みだなっていう印象です。


もう少し先まで進んでみます。
荒沢川を渡るために、日光電車専用の橋(下写真)が架かっていました。

現在の橋から、ひっそりと隠れている様子を見ることができます。場所が場所なだけに、脱線転覆事故が起きた際には大惨事になったようです。
日光電車が登場した頃は、銅をはじめとした物資輸送が主な目的で、どちらかというと観光客はそれに便乗するような使い方でした。
やがて、足尾から桐生方面に向かう国鉄足尾線が開通し、日光電車は足尾銅山の銅を運ぶ役目を終えることになります。
その一方で中禅寺湖方面への物資輸送、そして観光客の増加もあり、大正2年(1913年)に日光電車は馬返(うまがえし)まで延伸しました。

これによって、中禅寺湖まで向かうルートが大幅に改善されます。日光電車の運賃は、人力車の半分程度だったようで一気に普及しました。
日光駅まで鉄道で来ることができ、日光駅から馬返まで日光電車を使って、いろは坂の手前までスムーズに移動することができるようになったわけです。

もうすぐ古河電工というあたりで、一度民家が並ぶ側道に入ります。
清滝駅は、右側に見える現在の古河電工の敷地内にあったので一度途切れます。
反対側(下写真)からまた再開します。

いろは坂の手前まで到着しました。
終着駅である馬返駅の手前では、現在の国道より少し大谷川の方に寄って走っていたようです。

このあたりに馬返駅があったと思われます。

国道から見る限り、形跡はまったく残っていません。
正面に険しい山、その向こう側に中禅寺湖があります。現在はいろは坂をクルマで登って、その中禅寺湖に行くことができます。
最後のいろは坂が最大の難所であり、日光電車があったとしても相変わらず中禅寺湖を目指すのは大変な旅でした。それでも、この地点まで路面電車で来られるだけでも大きな前進でした。
ちなみに馬返という地名は、当時は馬が立ち入れない領域であったことや、馬も登れないほどの急な坂だったことから馬返という地名になったようです。
こうして馬返までは日光電車が走り、そこから先は、人力車、カゴ、徒歩によって、急斜面を登って中禅寺湖に向かう時代が訪れました。
移動手段の変化
大正時代後半には、馬返から先の移動手段が増えました。
大正11年(1922)に中禅寺湖までの乗合馬車が登場、大正14年(1925)には乗合自動車、つまりバスが運行するようになりました。
昭和7年(1932)になると、日光鋼索鉄道線、通称「日光登山鉄道」が開業します。
これによって、馬返で日光電車を降りて、ダイレクトに日光登山鉄道に乗り換えることで、直線的に山を登ってしまう、という珍しい乗り物リレーが完成しました。

大きな転機になったのは、昭和29年(1954年)の、第一いろは坂有料道路の開通です。本格的なマイカー時代が訪れて、電車を使わなくてもクルマで一気に中禅寺湖まで行ける時代となりました。
こうして路面電車を使う観光客が激減、さらに日光市内の渋滞の原因になっていたこともあり、日光電車は廃止の動きに向かいます。
昭和43年(1968年)にラストランを迎えました。

この一連の流れを見ると、日光電車は、鉄道の登場からマイカーブーム到来までの、50数年を埋めていた存在だったとわかります。
当初は銅の輸送のためでしたが、やがて市民の足、観光の足となって、目的を変えながら愛された路面電車でした。正直なところ、ほとんど跡形も残っていないのが残念ではあります。
いかがでしたのでしょうか。
できる限りの情報を集めて、日光電車の廃線跡を追ってみました。
いつの日か、残された情報を集めて、AIを使って昔の風景を再現して、まるでその当時に撮影したかのような動画を提供することが、私の夢のひとつです。
廃線跡を追うのではなく、当時の景色のままリアルに走り抜ける動画を作れる日まで、コツコツ継続したいと思います。