tochipro

キャリア・動画編集・NIKKO・Fukushima

日光【西沢金山】ゴールドラッシュに沸いた天空都市

かつて110年ほど前に最盛期を迎えた、西沢金山をご存じでしょうか。

日光の観光エリアからさらに奥まった場所で、金鉱を掘り当ててから、約20年のゴールドラッシュが起こり、1200人を超える集落が形成されました。

この場所(上写真)から、当時の集落を見下ろすことができたようですが、残念ながらその面影はほとんど残っていません。

当時の栗山村のなかでも、いち早く電気が開通して、近代化の最先端を走りつつあった西沢金山、いったいどのような金山だったのでしょうか。金山だった跡地だけでなく、人々が暮らしていた場所の現状を追ってみました。

 

山王林道を走る

西沢金山は、日光の中禅寺湖を抜けて、戦場ヶ原の奥から続く山王林道(奥鬼怒スーパー林道)を使って向かいます。

撮影は2024年10月に行いましたが、9月末まで道路工事のため通行止め、11月からも再び道路工事によって通行止めとなる予定です。

そんな険しい道の先に西沢金山が待っています。

後ほど触れますが、もし西沢金山が足尾銅山のように、たくさんの鉱脈が見つかって、東洋一と言われるほどの金の算出ができていたら、ひょっとしたらテーブルカー、馬車鉄道、道路の整備が進んで、現在の日光の地図は大きく変わっていたかもしれません。

マイカーで走っても、なかなかの距離なわけですが、当時は人力中心で運んでいたと思うと想像を絶する苦労があったと思います。

 

西沢金山跡を追う

西沢金山は、現在の山王林道を外れて、川沿いに進んだ場所にあります。さっそく向かってみましょう。いきなり車両通行止めの警告があるのですが、徒歩で進む分には問題ありません。

おそらくこの周辺(下写真)は、金が採掘されていた場所だと思われます。

途中で舗装された道路が、川から離れていくので、川沿いに草むらを歩くことになります。

かつての資料を見ると、このあたりに天然の温泉が湧いていたようで、当時は露天風呂のように使われていたようです。残念ながら、現在は崩落して跡形もなくなってしまいました。

ちょっとした自然の滝にたどり着きました。この滝の奥に見えるまだら模様の一部には、現在も鉱脈が含まれています。このあたりを見渡すと、ズリと呼ばれる、山を削った残骸も見られます。

せっかくなので、もう少し先まで行ってみましょう。先ほどの舗装道路と分かれた場所まで戻れば、スイスイ行けたのですが、このタイミングではまったくわからずに、急斜面をよじ登って上の道に合流しました。

実は、先人たちの動画がいくつもあるので、現地でその動画を見ながら歩けば大丈夫かな…と甘く考えていたのですが、山王林道に入って早々に圏外になってしまい、この日は何度も遠回りをすることになってしまいました。

その分、たくさんの景色を収めていますので、楽しんでもらえたらうれしいです。

 

江戸時代の言い伝えから話が盛り上がり、西沢金山での採掘が行われたのは、明治27年前後のことでした。同じ栃木県内の足尾銅山では、すでに明治14年に大きな鉱脈が見つかって、そこからは機械の導入、輸送方法の進化、照明や巻上などの動力に電気が使われるようになっていました。まさに国策として近代化の最前線を走っており、一代にして古河財閥を形成するようになります。

西沢金山に携わった人々も、この足尾銅山のような一攫千金の大ブレイクを夢見たのは間違いないでしょう。残念ながら、何度も水害に遭って一帯を流されてしまったり、鉱脈が切れてしまったり、安定した金の産出が難しかったようです。

このあたりで行き止まりの雰囲気になるので、山王林道まで引き返します。

 

こんな遠く離れた地で、1000人以上の集落が生まれて金山を掘ったことは、明治時代ならではのパワーを感じますし、それと同時に、足尾銅山にはなれなかった切なさも感じてしまいます。

 

集落を見守る神社

続いては、かろじて原型が残っていると聞いた、神社に向かってみます。

この神社に向かうルートを結構探したのですが、結局見つからずに、方角だけ見定めてショートカットすることにしました。

どう考えても、こんなに危ない坂(上写真)を登って神社に行くわけないのですが、しょうがないので、カメラをしまってよじ登ります。雨が降ったり止んだりで、イマイチな天気だったのですが、その代わりに虫がまったくいなくて、足元のスリップだけ除けば探索しやすい1日でした。

この場所(上写真)は10分後くらいの場所ですが、石垣のような土台部分があちこちに現れて一安心です。狛犬が置いてあったらしき場所から階段を進むと、神社の形跡がどうにか残っていました。

後から確認したのですが、狛犬は栗山東照宮に移っています。

 

様々な事情があるのでしょうが、ふらっと立ち寄った身としては、栗山村の一時代を築いた神社は維持してほしかったですし、神社に至る参道や狛犬も当時のまま残っていたら、かなり興味深い観光スポットになっていたのではないでしょうか。

神社からの下りは、やっぱり歩ける道が残っていて、当然上るときもここを通るのが正解でした。ただし、この参道も途中からは崩れてしまって、両手も使ってなんとか下りられる状態です。

おそらくかつては、石や木で階段のような仕組みがあったのだと思います。

 

集落があった場所は今...

最後に、西沢金山に関わる人々が働いて暮らしていた集落の跡地に向かいます。上写真が当時の実測地図、下写真が現在のマップです。

これも例に漏れず、どこから向かえば良いのかさっぱりわからなかったので、先ほどの神社から戻るルートの途中(下写真)から、河原の方に下りることにしました。

かなり足場が悪く、別日に出直すこともちょっとアタマをよぎったのですが、だいたいの方向は合っているはず...と思いながら、記憶を頼りに歩いている状態です。

後から振り返ると、ここを必死に歩いている時には、大きな勘違いをしていたのですが、集落があった場所は川の反対岸でした。遠回りも遠回りで、最初から何もなかった場所を「何もないなぁ…」とか探しながら歩いていたわけです。

 

下流の方では豪快な滝を流れる湯川も、これだけ上流だと難なく渡ることができます。

この川を渡った先が、やっと集落の跡地です。当然ながらわかっていれば、もっとスムーズに到着したでしょうが、スマホが使えないだけで相当大変でした。

 

今となっては形跡がわずかですが、西沢金山は、明治後半から大正初期にかけて、高品質の金が採れる金山として広く知られました。最盛期には、1300人前後の人々がここで働いて暮らしていたのは、ちょっと信じられないほど殺風景です。

西沢金山の歩みは次のような感じです。

江戸時代 1737年・1742年・1847年に試し掘りが行われましたが、このあたりは金銀の採掘が禁止された日光山の領地でした。鉛を掘ると言い訳して、採掘していた者もいたようですが、発覚してしまい厳しく処分されてしまいます。

それ以来、廃鉱同然の状態で明治維新を迎え、時代は大きく変わったわけです。

西沢で何かしらの鉱物が発見されたことは、あやふやな記憶になってしまい、約50年の時が過ぎました。

明治27年(1894年)頃に、川俣地区の人々が言い伝えを参考にして、村民17人で現地調査をしたところ、数多くの鉱物を発見。その後に調査に訪れた高橋源三郎が、西沢金山の可能性を見出して鉱業権を買収します。その高橋は、もともと日光で質屋を営んでいたそうです。

明治28年、有望な鉱脈を発見。その翌年の明治29年から30年にかけて、金と銀の大きな鉱脈が見つかり、この頃から西沢金山は全盛期を迎えます。

その後は、大きな水害で1275トンもの採掘物が流れてしまったり、探鉱エリアの争奪が起きたり、徐々に産出量が減ってきたりで、とにかくトラブル続きでした。

大きな節目になったのは、明治35年(1902年)の台風による大水害で、鉱山のほとんどの設備や住居が流されてしまいました。これによって西沢金山での活動は休止するしかなくなり、建て直しには膨大な時間と費用がかかることになりました。

明治37年(1904年)日露戦争が勃発した年に、個人の力ではどうにもできなくなり、高橋は鉱業権を譲って、翌年の明治38年に西沢金山探鉱株式会社が設立します。

明治43年(1910年)には、自社の精錬施設が完成して、鉱山としての完成形に近づいてきました。

大正4年から5年(1916年)にかけて、人口が最大となり、この一帯には1,284人が居住、病院、隔離病棟、学校、映画館まで備えた、ひとつの街が形成されていました。

その頃に、西沢金山株式会社に改称しましたが、徐々に鉱脈が枯渇していきます。

一気に転がり落ちるように、大正10年頃には休鉱状態となってしまいました。

一方その頃、足尾銅山では馬車鉄道が大量の銅を運んでおり、日本で採掘される銅の40%を占めるトップクラスの鉱山として、日本の近代化に大きな影響を与えていました。足尾町の人口は県内2位の38,000人。桁違いの成功を収めていました。

西沢金山で働く人々は、どのように感じていたのでしょうか。わずか20数年で鉱山のピークを迎え、そこから5年足らずで休鉱となってしまい、一夜の花火のようなゴールドラッシュが幕を閉じました。

昭和7年に西沢金山は、日本鉱業株式会社(現在のENEOSグループ)に譲渡され、一度再開したこともありましたが、昭和47年(1972年)には鉱業権を放棄して、完全に廃鉱となりました。

今回は初めて西沢金山跡に足を運びましたが、日光の歴史を語るうえではかなり貴重なエピソードなので、遺構を後世にしっかり伝えた方が良いのではないか、そう強く感じました。

 

 

また次回、訪れることがありましたら、当時を知る方にガイドをお願いしたいと思います。最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。