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地元民が選ぶ!【日光】歴史が動いた瞬間5選!(観光編)

皆さんがイメージする日光って、どんな感じでしょうか?

修学旅行や社員旅行、世界遺産や鬼怒川温泉など、人それぞれだと思いますが、明治維新以降の150年で、特に「日光の歴史が動いた出来事」を5つに厳選して紹介したいと思います。

明治維新の前までは、修行をする者にとっては、一度は訪れたい聖地のような存在だった日光。日光東照宮に徳川家康が祀られたことで、最盛期を迎えました。

日光は明治維新によって、大きく衰退しましたが、外国人がインフルエンサーのように紹介してくれたおかげで、交通網が急激に発達しました。

昭和時代に入り、鬼怒川温泉が東京から半日で行ける温泉地として、大ブレイクしたことで、おおよそ今のような、温泉もあれば、自然もあれば、歴史的にも価値ありそう…という観光地日光の大枠が出来上がりました。

 

今回は観光編として、現在の日光に大きな影響を及ぼした5つの出来事を時代順に紹介します。

 

出来事① 金谷善一郎がヘボン博士を迎え入れる

元祖リゾートホテルと言われている金谷ホテル、その創業者である金谷善一郎とヘボン博士が出会ったことは、確実に日光の発展にアクセルをかけました。

外国人の日本国内移動が制限されていた明治3年(1870年)に、医師であり宣教師でもあったヘボン博士が、日光で宿泊先に困ってしまい、金谷善一郎が迎え入れました。

この経緯に関しては、様々な説がありますが、実はその直後の明治4年には外国人が宿泊できる「鈴木ホテル」が開業。明治21年には外国人をターゲットとした「日光ホテル」が開業しました。

金谷善一郎が、ヘボン博士のアドバイスを聞きながら「金谷ホテル」として改めて開業したのは、明治26年です。そこからの金谷ホテルは、長男眞一のポテンシャルが爆発して、自動車、鉄道、水力発電、鬼怒川への進出。各方面に新しいチャレンジをしたことで、日本におけるリゾートホテルの歴史に、大きなインパクトを与えました。

歴史に if はありませんが、ヘボン博士がもう少し日光に来るのが遅かったら、違うホテルに泊まっていた可能性が高いです。それでも日光が、同じように外国人向けのリゾートとして発展できたのか?と考えると、かなり難しかったのではないでしょうか。

 

出来事② 宇都宮から日光に鉄道が全通する

明治23年(1890年)に、宇都宮まで開通していた鉄道が日光にも繋がります。

江戸時代には、五街道のひとつとして日光街道は栄えていましたが、明治時代は、外国人観光客が日光に押し寄せてくれたおかげで、日光まで鉄道が繋がり発展しました。

それまでも、明治9年に明治天皇の行幸があったり、たくさんの国内外のVIPが日光を訪れており、さすがに人力車ではクレームも多かったのだろうと察します。

この鉄道開通によって、東京から日光までのアクセスが劇的に改善されて、本格的に「江戸時代に栄えていた聖地日光」から「東京から近い観光地日光」に生まれ変わったと言えます。

 

出来事③ 古河市兵衛が足尾銅山を再開発する

当時は日光市と合併する前でしたが、最盛期の足尾町は栃木県で2番目の人口を誇るくらい、賑やかな工業都市でした。

足尾銅山自体は、江戸時代に一度掘り尽くしてしまって、衰退していました。

その後の明治10年(1877年)に、古河市兵衛が経営に乗り出したことで、新しい鉱脈を発見。さらには削岩機など、当時最新の機械の導入が重なって、足尾銅山は大復活を遂げます。日本で採掘される銅の40%を占めるようになり、ここでも様々な産業が発展、一代で古河財閥を築き上げました。

現在も最前線にある、古河機械金属、古河電工、富士通、みずほ銀行、損保ジャパンなど、数々の会社に受け継がれています。

日光の歴史にとっては、雇用や町の発展だけでなく、この大量に産出される銅の輸送手段において大きな影響がありました。

当時は、日光駅まで鉄道が開通したばかり。この鉄道を最大限活用するために、日光電車(日光電気軌道)が開通しました。

これによって、いろは坂の手前までは馬車鉄道やロープウェイで銅を運んで、日光駅までは日光電車で運び、さらに国鉄を使って東京まで運ぶアクセスが出来上がりました。

開通当初は、銅を運ぶことが第一の目的でしたが、徐々に利用の中心は観光客へと移り変わっていき、中禅寺湖に向かうための移動手段となりました。やがて中禅寺湖は、海外から来た要人が競うように別荘を建てるような、大人気の避暑地となります。

不思議な関係ですが、足尾銅山の復活が中禅寺湖の発展に繋がり、太平洋戦争直前には中禅寺湖の人気がピークに達しました。

 

出来事④ 下滝発電所と黒部ダムの建設が決まる

明治時代の後半になると、東京の夜が明るく照らされるようになり、電気需要が急激に高まりました。水力発電のニーズが高まり、安定した水量とダムに適した地形の理由から、鬼怒川上流の調査が開始されます。

こうして、明治44年(1911年)に着工。当時の技術でたくさんの苦労のうえに、下滝発電所と黒部ダムが完成するわけですが、この2つの大きな工事によって鬼怒川温泉の歴史が大きく変わりました。

当時の鬼怒川温泉は、すでに金谷家などによって、温泉観光地として走り出していたわけですが、歴史も浅くまだまだ全国区の温泉観光地ではありませんでした。

黒部ダムの工事によって、まずは鬼怒川温泉付近の川の水量が激減して、水位が大きく下がりました。これによって、源泉が次々と見つかり、数多くの温泉ホテルが立ち並ぶ環境が整ってきました。

もうひとつは、工事が終わった後の馬車鉄道跡の活用です。用済みになった線路を撤去してしまう選択肢も、もちろんあったのですが、地元の有志が動いたことで線路を再活用、最終的には東武日光線と接続して東武鬼怒川線が誕生しました。

このように、東京の電気需要の高まりによって、鬼怒川上流がフォーカスされたわけですが、ダムが造られて源泉が発見されて、鉄道でも鬼怒川温泉に来られるようになったことは、タイミングも含めて奇跡的な結果でした。その後の高度成長期に訪れる、社員旅行ブームを迎え撃つ準備が完成したわけです。

 

出来事⑤ いろは坂有料道路が開通する

ここまでは、電車による交通網の発展が、観光地としての成長に繋がっていましたが、戦後にはモータリゼーション、マイカーの時代が訪れます。

道路の整備が進んでいき、いろは坂から中禅寺湖までスムーズにアクセスできる有料道路が開通します。有料道路としては日本では2例目(最初は三重県参宮有料道路)でした。

もちろん、日光線、日光電車、バスなどを駆使すればマイカーがなくても中禅寺湖まで行けたわけですが、乗り換えの煩雑さがあったり、むしろ日光電車が渋滞の原因になっているような状況でした。

いろは坂が開通したことで、多くの観光客がマイカーで中禅寺湖を訪れるようになりました。これによって、残念ながら日光電車が廃線になり、国鉄日光線と東武日光線で観光客を奪い合っていた日光戦争は、懐かしい思い出話になりました。

いろは坂が良かったのは、紅葉の季節をはじめ、景色の素晴らしさがあることで移動自体にも楽しさがあることでした。紅葉渋滞という別な問題は起きているものの、道路そのものが有名になり「秋になったら日光」という雰囲気をつくったことは、注目するべきポイントです。

 

まとめ

YouTubeを通じて日光を紹介している、私の独断で「日光の歴史が動いた出来事」5選を紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。

江戸時代に最盛期を迎えた日光が、徳川幕府のバックアップを失って廃れた後に、観光地日光と生まれ変わるにあたって、その影響の大きさで選んでみました。

 

 

次回は、社会・政治編を予定しています。

最後までお読みいただきありがとうございました。