2025年は昭和元年から数えると、ちょうど100年の節目です。
現実的ではありませんが昭和時代が続いていたら、今頃は昭和100年だったわけですが、その激動の時代、昭和の幕開けから現在までの日光を10大トピックで振り返ってみます。
それぞれの時代において、日光の主役はあちこちのエリアに変化してきました。長いようで短い100年を振り返ってみたいと思います。
ぜひ最後までお付き合いください。
- ①大使館ラッシュで中禅寺湖は最盛期へ
- ②鬼怒川温泉に起爆剤ホテルが誕生
- ③観光地日光は乗り物天国へ
- ④百年戦争?「東照宮 VS 輪王寺」
- ⑤第二いろは坂開通でマイカー時代に応える
- ⑥一時代を築いた足尾銅山が閉山
- ➆日光太郎杉事件で東照宮が勝訴
- ⑧特急スペーシアとあさやホテル秀峰館
- ⑨日光の社寺が世界遺産登録
- ⑩相乗効果はあった?市町村合併
①大使館ラッシュで中禅寺湖は最盛期へ
その後60年以上も続く昭和時代は、大正時代の第一次世界大戦、関東大震災(下写真)を原因とする長い不況のなかで、大正からバトンタッチしました。
その傷跡が残っている状況で、昭和2年には金融恐慌が発生したりで、いきなり大波乱の幕開けだったわけです。
その頃の日光は、中禅寺湖が主役でした。
原動力は日光を訪れる外国からの要人でした。
湖面の標高1269mの中禅寺湖は、日本でもっとも高い場所にある湖といわれており、日光市街地を抜けて、さらに険しいいろは坂を登った先にあります。
中禅寺湖の景色は、ヨーロッパから来た外国人が故郷を思い出してしまうほど、異国情緒が溢れており、良い意味で日本らしくないリゾートでした。
大使館別荘がイギリス、フランスと次々に建てられ、昭和3年(1928年)になるとベルギーとイタリア(下写真)が揃いました。
日本中が大混乱だった頃に「夏の外交は日光に移る」と言われるほど、中禅寺湖は外国人にとって憧れの場として盛り上がっていました。100年近く経った現在でも、フランスとベルギーの大使館別荘は使われています。
②鬼怒川温泉に起爆剤ホテルが誕生
昭和6年(1931年)に、東武鉄道の社長、根津嘉一郎によって鬼怒川温泉ホテルが誕生しました。
この当時の鬼怒川温泉は、麻屋旅館、星野屋旅館、大滝館の3軒があるだけの寂しい湯治場でした。まだまだ知名度が低かった鬼怒川温泉において、すでに営業していた大滝館が、1000人規模の鬼怒川温泉ホテルに生まれ変わったわけです。
すでに大正時代には、木材輸送や鉱山開発によって鉄道が引かれており、昭和18年(1943年)にはその鉄道を東武鉄道が買収しています。
この根津嘉一郎の先見の明によって、鉄道+大型ホテル=温泉観光地、という成功方程式が完成しました。
ちなみに、根津嘉一郎が日光への進出を計画した際に、地元の反対勢力を説得したエピソードが個人的に好きなので紹介します。
「私が鉄道を引く以上は、2倍、3倍のお客を持ってきてみせます」
ここで「当社が」ではなく「私が」という主語を使うあたりが、あまりにカリスマ的で最高ですが、この鬼怒川温泉ホテルを皮切りに、鬼怒川温泉は徐々に発展していくことになります。
③観光地日光は乗り物天国へ
東照宮が観光地のように注目されたり、鬼怒川温泉が拡大する兆しが見えてきましたが、まだまだ戦前は中禅寺湖が日光の中心でした。
その象徴が、昭和7年(1932年)に開通した日光登山鉄道と、昭和8年(1933年)に営業開始した明智平ロープウェイです。
外国人観光客の勢いに押された日光は、国内でも最先端の技術をどんどん取り入れていました。すでに自動車や鉄道、路面電車が走っていたわけですが、いろは坂に向かう観光用の移動手段として日光登山鉄道(ケーブルカー)が導入されました。
その終着駅から展望台を、明智平ロープウェイが結ぶようになります。
一般の人々にはマイカーは手が届かない時代でしたが、中禅寺湖に行くためには、鉄道で日光駅まで行き、そこからいろは坂の麓までは日光電車と呼ばれた路面電車を使い、そこから日光登山鉄道でいろは坂を登り、ロープウェイで観光する、という必勝リレーが出来上がりました。
昭和18年(1943年)には、太平洋戦争の影響でロープウェイの営業は中断してしまいますが、昭和25年(1950年)に再開して、現在も営業をしています。
④百年戦争?「東照宮 VS 輪王寺」
江戸時代までは神仏習合によって、東照宮と輪王寺は同一のものであるという考え方でした。ざっくりと表現すると、神教と仏教の境界線がなく同じように扱われており、現在の東照宮、輪王寺、日光二荒山神社などをまとめて「日光山」または「輪王寺」と呼んでいました。
こうして日光山の一帯は、仏教、つまり寺の僧侶によって治められおり、その一方で、徳川家康が神として祀られた神社である東照宮は、江戸時代に最盛期を迎えたわけです。
その後、明治時代になって天皇や神教を重んじるようになる流れで、今度は神仏分離令が発せられます。
日光の二社一寺は、この神社や寺が同じエリアに密集していることに価値があるわけですが、その一方で、神社である東照宮と寺である輪王寺の間で、所有権の争いが起きてしまいます。
昭和30年に、輪王寺が五重塔や本地堂などを登記したことをきっかけに対立、その後裁判を経て、昭和52年(1977年)に最高裁が和解勧告を出すという、異例に事態になりました。
その後、昭和58年(1983年)になってやっと和解をしたことで、百年戦争に終止符が打たれています。
日光山発祥の地であり、日光山の主体であった輪王寺の視点で見てみると、明治維新後の神仏分離令によって日本中の寺が破壊されて、その危機を免れたと思ったら、神社である東照宮が観光地として大ブレイク。歴史的には浅い東照宮が、日光を代表する観光地となって現在に至っていますので、それぞれに思うところはあるのでしょう。
ちなみに、かつては二社一寺の共通拝観券があって、オトクにそしてスムーズに観光できたわけですが、平成25年(2013年)からはじまった東照宮陽明門の大改修を機に、また対立してしまいます。
工事期間の6年間のみ共通拝観券を停止しようと考える寺(輪王寺、日光二荒山神社)と、この際に永久的に廃止してしまいたい神社(東照宮)で意見が割れてしまいました。
振り返ってみれば些細なテーマではありますが、共通券はただのきっかけであって、以前から対立構造にあったことが伺えます。
「そんなもの、観光客の便利にしてあげなよ」
と外部からは言えるわけですが、そこには神も仏もなく、それぞれの正義があるのだと思います。個人的には共通券はなくても構わないので、タッチ&ゴーのような入口にすることで、入場券売り場の混雑が改善することが急務だと感じます。
⑤第二いろは坂開通でマイカー時代に応える
昭和25年(1950年)に勃発した朝鮮戦争によって、日本は好景気に沸いて一気に先進国への道を走りはじめました。国民みんながマイカーを持てるようになり、いろは坂の渋滞も大きな問題となりました。
これを解決するために、昭和40年(1965年)に第二いろは坂が開通します。有料道路としての開通は、国内で2番目の事例だったので、どれほど殺到していたのか察することができます。
第一いろは坂の原型は、大正時代には完成していたのですが、第二いろは坂の完成によって、第二が登り専用、第一が下り専用の有料道路となり、アクセスが大幅に改善されました。
このように本格的なマイカー時代が訪れて、わずか3年後の昭和43年(1968年)に日光電車が廃止、昭和45年(1970年)には日光登山鉄道も廃止となってしまいました。
⑥一時代を築いた足尾銅山が閉山
日本の近代化に大きく貢献した足尾銅山が、昭和48年(1973年)に閉山しました。
江戸時代には幕府直轄の銅山として栄え、明治時代になって古河市兵衛によって経営されるようになると、掘削機械の導入、輸送方法の進化、選鉱所や精錬所の整備など、数々の日本初の取り組みによって、国内を代表する銅山となりました。
古河財閥を築くほどの発展は、やがて昭和時代になると採掘量の激減、銅価格の低下などを背景に衰退していき、閉山へと追い込まれました。
この頃の日本は、輸出産業が絶好調で高度成長期を迎えていました。古河財閥はすでに、金属加工や電気技術、金融など様々な分野に進出しており、日本全体が第一次産業主体から第二次産業、第三次産業へと大きくシフトしていた時代です。
足尾銅山は公害認定も国内初だったので、その原因解明や対策には大きな壁がいくつもありました。傷んでしまった自然や丸々消えた村、渡良瀬川流域に広がった健康被害など、大きな課題も残しています。
➆日光太郎杉事件で東照宮が勝訴
昭和時代の中盤以降は、観光地日光の主役は東照宮へと移りはじめました。その頃に起きた日光太郎杉事件、東照宮と行政の裁判劇は昭和48年(1973年)に決着しました。
栃木県が道路拡幅を図って、神橋付近に立つ太郎杉を伐採しようとしたところ「一度伐採してしまうと、二度と元には戻せない」という理由で、東照宮が訴訟を起こし、建設省まで巻き込んだ大きな裁判になりました。
結果は宇都宮地裁、高裁ともに東照宮の勝訴、建設省が上告を断念という形で幕を閉じます。結果的に、世界遺産エリアは渋滞が起きやすく、クルマのわずか数センチ隣を観光客が歩く、という異様な光景が続いています。
私の感想ではありますが、この判決は東照宮の言い分が正しかった、という表面的な結論よりも「太郎杉を避ける方法の議論が不十分であり、他に方法があるのではないか」という判決の考え方が重要だと思っています。
あれから50年、議論はすっかり低空飛行になってしまったようですが、日光渋滞のポイントになっていることも事実ですので、後世にどのような形で世界遺産を残すのか、考えるタイミングではないでしょうか。
⑧特急スペーシアとあさやホテル秀峰館
昭和30年代、40年代になると鬼怒川温泉には、次々と大型ホテルが建つようになりました。どこの会社でも社員旅行が計画されて、数十人、数百人単位で鬼怒川温泉に泊まって大宴会、翌日はゴルフ、のような福利厚生が恒例行事となります。
これが1980年代後半のバブル期になると、日本中がどうかしちゃうくらいの好景気が訪れて、その勢いのままに昭和から平成時代に入ります。
社員旅行のために東京から豪華な特急で、非日常的な温泉ホテルに泊まる、その象徴として平成2年(1990年)に、特急スペーシアが運行開始、鬼怒川温泉を代表するあさやホテルには秀峰館(下写真)が完成しました。
銀行が積極的に観光ホテルに融資して、旅行代理店が東京から団体客を送り込む、という連携プレーが爆発しましたが、そんな好景気は1991年前後のバブル崩壊で急ブレーキがかかってしまい、とにかく大きいことが武器だった温泉ホテルだけが取り残されてしまいました。
⑨日光の社寺が世界遺産登録
日本の景気がまったく先行きが見えず、2000年代に入ると鬼怒川温泉の大型ホテルはどんどん閉館、倒産に追い込まれました。鬼怒川温泉はまだ藤原町だったのですが、その隣の日光市では明るいニュースが飛び込みました。
平成11年(1999年)に日光の社寺、二社一寺が世界遺産に登録されました。
神社と寺が混在しており、古代から続く山岳信仰と徳川家康が祀られた複雑な経緯は、独特な歴史を歩んでいます。
豪華絢爛な東照宮だけでなく、日光山発祥から歴史が続く輪王寺、そして日光二荒山神社(下写真)は華厳の滝、いろは坂、男体山までが境内に含まれており、伊勢神宮に次ぐ広さを誇っています。
二社一寺が世界遺産に登録されたことで、日光は観光地としての大きなわかりやすい武器を手に入れることができました。
⑩相乗効果はあった?市町村合併
自治体の財政強化や少子化などを背景に、平成の大合併が行われ、日本中の市町村が様々な形で合併していきました。日光も平成18年(2006年)に、世界遺産の日光市、商業の中心地今市市、鬼怒川温泉の藤原町、湯西川温泉の栗山村、足尾銅山の足尾町の5つの市町村が合併して、新しい日光市となりました。
これによって面積では、栃木県の1/4弱を占める大きな市となり、あちこちに観光資源が散らばった東京直結のリゾートエリアとなりました。
その一方で、栃木県内の地方税で比較してみると
1位 宇都宮市 930億
2位 小山市 290億
3位 栃木市 220億
4位 足利市 190億
5位 那須塩原市 190億
6位 佐野市 180億
7位 鹿沼市 140億
8位 真岡市 140億
9位 日光市 130億
(令和4年度普通会計決算 栃木県資料)
このように、財政はかなり厳しいことがわかります。
県外の方が見ると、知名度とのギャップに驚くのではないでしょうか。神社や寺は税制で大きく優遇されていたり、日光には大きな工場や会社の本社がほとんどありません。
日光もどんどん少子高齢化が進み、財政は厳しくなっていく一方です。
修学旅行や一部の観光地によって、日光はよく知られた観光地だと思いますが、日光自体が貧しくなってしまったら、将来は自治体として維持できなくなるのは目に見えています。
どんな打ち手があるでしょうか。
観光以外の産業育成、観光で突き抜ける、移住促進、官民連携、ベンチャー支援、研究都市化、打ち手はいろいろあると思います。キーワードは、合併前の各エリアの垣根を取り払った日光の一体化、相乗効果を起こすことだと考えます。
昭和100年という節目に、日光を10大トピックで振り返ってみました。
昭和という時代の前半は、金融恐慌の大混乱で幕が開けて、太平洋戦争によってボロボロになってからの復興の歩みでした。
そこから朝鮮特需、人口が増え続けて、高度成長期を経て、昭和中盤以降の日本には
「もっと生活がラクになるはず」
「働けば働くほど稼げるはず」
「日本は欧米に追いつけるはず」
といった、明るい空気に満ちていたのだろうと察します。
もちろん、その頃の日本には見習ってはならない部分も多々あったでしょうが、この言葉にならない未来に対する期待感はまた取り戻したいものです。
そんな気持ちを込めて、昭和100年記念の記事を作成しました。