明治時代に入り中禅寺湖は、外国人観光客にとって憧れの避暑地として急激に成長しました。
その中禅寺湖は険しい山の先にある難所でしたので、交通手段が次々に登場してきた歴史があります。特に、昭和に入ってすぐに登場した日光登山鉄道が観光動線を一変させました。

今となっては形跡がほとんど残っていない日光登山鉄道、いったいどのようなものだったのでしょうか。
ぜひ最後までお付き合いください。
いろは坂をどう登る?

中禅寺湖までのアクセスは、東京から150km以上、そして標高が1200m以上、それだけでも充分に大変な道のりでしたが、もうすぐ中禅寺湖という場所に最大の難所であるいろは坂が待っています。
当時は、いろは坂と呼んでいたわけではないようですが、まずはいろは坂の手前までの移動手段が発達していきました。
まずは明治23年(1890年)に、日光駅までの鉄道が開通します。

これによって、日光駅までは5時間程度で来られるようになりましたが、日光駅から中禅寺湖までは人力車、駕籠、徒歩によって移動するしかありませんでした。
そこから20年が過ぎ、日光駅からいろは坂のふもと付近まで、日光電車と呼ばれる路面電車が登場します。人力車組合は営業妨害として強く反対しましたが、結果的に観光客はさらに増えてWIN-WINの関係だったようです。

日光電車は足尾銅山の物資を運ぶことが主な目的であったため、当初は足尾方面から接続する岩ノ鼻駅から日光駅に向かう路面電車としてデビューしました。
さらに3年後の大正2年(1913年)には、中禅寺湖に向かうことを目的に延伸がなされ、いろは坂の入口、馬返駅まで路面電車で移動できるようになりました。
こうして憧れの地、中禅寺湖に向かうためには、馬返駅までは、路面電車でスムーズに移動して、そこからは相変わらず人力車、駕籠、徒歩という時代になりました。

大正時代ともなると、少しずつ中禅寺湖に向かう道が改善されてきて、乗合馬車や乗合自動車を使って中禅寺湖まで向かうことができるようになりました。しかしまだまだマイカーが普及する前でしたので、いろは坂を登るには苦労が絶えない時代でした。
ケーブルカーの登場
大正から昭和にかけて各国の大使館の別荘が建つなど、中禅寺湖が最盛期を迎えていきました。
その勢いに乗って、すでに日光電車を傘下に収めていた東武鉄道が大きく動きます。昭和7年(1932年)に日光鋼索鉄道線、通称日光登山鉄道が開業しました。

総延長1200m、途中には195mの大谷川橋梁があり、平均勾配が約20°、最大は26°、終点である明智平からの巻揚機によって運転されました。

まるでそのまま空に向かっていきそうな造りに見えますが、こんな大工事をやってのけるところにも昭和の勢いを感じます。
これによって、日光駅までは鉄道、そこから馬返駅までは日光電車、馬返駅から明智平駅までは日光登山鉄道、明智平駅から中禅寺湖まではトンネルを使ってバスで移動することができるようになりました。

中禅寺湖に向かうルートとは別に、翌年には明智平駅から展望台までロープウェイが開業しました。これによって、鉄道~路面電車~ケーブルカー~ロープウェイと次から次へと乗り継いで展望台に行き、上空から中禅寺湖や華厳の滝を眺める観光ルートが完成しました。
馬返駅

日光電車の終点であり、日光登山鉄道の始点であった馬返駅は、残念ながら形跡が残っておらず、今となってはどの方向に路線が伸びていたのかすらわからなくなってしまいました。
今からちょうど100年前、大正14年(1925年)の頃に、最初の自動車が31のカーブを曲がりながら、この坂を登ったようですがほとんどの観光客は徒歩で登っていました。
今となっては信じられませんが、その当時の馬返は登山口として賑わっていたようです。

現在は大きく蛇行を繰り返しながら、いろは坂を登っていますが、日光登山鉄道は直線的に明智平駅に向かっていましたので、まったく違った景色が見られたのだろうと思います。
明智平駅

日光登山鉄道の終点である明智平駅は、当時の石積部分が残っています。ここまでケーブルカーに乗ってきて、ここからさらにバスで中禅寺湖に向かったり、ロープウェイに乗り換えていました。

この交通手段の進化によって、中禅寺湖はさらに賑わうようになり、国際的な避暑地として最盛期を迎えました。
現在でもロープウェイは活躍しており、中禅寺湖や男体山、華厳の滝など日光が誇る絶景を一度に眺めることができます。

モータリゼーションの到来
こうして戦後までは日光電車と日光登山鉄道は、観光の足として活躍していたわけですが、昭和中期になると徐々にマイカーが台頭してきて、時代はまた大きく変わります。
マイカーが走れるように道路の整備も進み、昭和29年(1954年)に第一いろは坂が開通しました。さらに昭和40年(1965年)には、第二いろは坂が開通します。

いろは坂の登場によって起こった変化としては、大きく2つありました。
ひとつは、まったく乗り換えなしに中禅寺湖まで行けるようになったので、マイカーで日光を観光する人が急増したことです。第二いろは坂が完成した頃には、バスやマイカーによる移動が70%に達しており、移動手段の主役が完全に入れ替わりました。
そしてもうひとつは、日光電車が渋滞の原因になってしまい、完全に邪魔者扱いになってしまったことです。
日光市街地はもちろん、現在でも渋滞の最大ポイントである神橋付近を路面電車が行き交っていたわけですから、ドライバーから見る目はかなり冷たかったことが容易に想像できます。

こうして日光電車の廃止に向けた機運が高まっていき、昭和43年(1968年)に廃線となってしまいました。日光電車が消えてしまうと、馬返駅へのアクセスもバスくらいしかなくなってしまうので、2年後には日光登山鉄道も廃線となりました。
当時の事情はわかりませんが、日光電車の方が先に廃線になったのは、それだけ渋滞が深刻だったと想像します。
あるいは日光登山鉄道は、いろは坂とはまったく地上で交差しませんので、直接的に渋滞の原因になることはありません。どうにか残す議論もあったのかもしれません。
ケーブルカーを使った観光動線は日本全国にあったようですが、似たような運命をたどっているものも多いようです。時代の大きな流れで生まれて消えてしまったのは、本当にもったいないですが、日光登山鉄道は実際に乗って揺られて、全身で体験したかったので残念でなりません。
今の時代であったら、移動しながらゆっくり景色を眺めたり、移動しながら仕事や趣味に時間を使えることに大きな価値が生まれていると思います。

2025年現在、新たなロープウェイでいろは坂を登る構想など、いくつかの案があるようですが、日光の観光動線をどのようにアップグレードさせるのか、これからも注目したいと思います。