tochipro

キャリア・短編小説・NIKKO・Fukushima

日光の観光名所【神橋】なぜ伝説は生まれた?を考察する

日光のシンボルとも言われる神橋(しんきょう)には、その成り立ちから現在に至るまで解明されていない謎が存在します。

日光東照宮をはじめとする世界遺産に含まれており、絶景スポットとしてフォーカスされることが多い神橋ですが、奈良時代から激動の歴史を歩んでいます。

 

今回の記事では、神橋の歴史だけでなく、不可解な3つの謎についても考察してみます。ぜひ最後までお付き合いください。

 

伝説のはじまり

神橋の歴史は、日光山の開祖である勝道上人(しょうどうしょうにん)の伝説から幕を開けます。

奈良時代の後期、勝道上人は、古くから神々が宿っていると言われた男体山を登頂することで、国と人々の平和を祈ろうと考えていました。

766年に大谷川までたどり着きましたが、激流を渡ることができずに困っていました。そこで勝道上人が祈りを捧げると、川の北側に神が現れました。

その神は、深沙大王(じんじゃだいおう)であると名乗ります。手にしていた2匹の蛇を放つと、川の両岸を結び、その背中に山菅(やますげ)が生えたので、それによって勝道上人が渡ることができた、という伝説です。

これ以来、橋は「山菅の蛇橋(じゃばし)」と呼ばれるようになりました。

この他にも、山菅橋、御橋(みはし)といった呼び方もあります。

勝道上人によって、現代に続く世界遺産「日光の社寺」の原型が出来上がりましたが、実際に男体山に登頂したり、数々の社寺を造る前のエピソードであることから、神橋は日光にとって特別な存在となっています。

 

神橋としての歩み

成り立ちは伝説に包まれた神橋ですが、記録としては室町時代の旅行記には残っており、神橋の存在は広く知られていたようです。

大きな転機となったのは、寛永13年(1636)です。徳川家光により、東照宮の大幅アップデートがされた際に、シンプルな跳ね橋構造から現在のように石の橋脚を取り入れた構造に進化して、全体が朱色となります。この時から、神橋と呼ばれるようになり、一般人の通行が禁止されます。

そのすぐ隣の下流側に、仮橋(かりばし)を架けることで、一般の人々は大谷川を渡ることができました。この仮橋がやがて、現在の国道119号の終点、日光橋となりました。

 

2本→3本→2本→3本と変わる景色

明治26年(1893)に、足尾銅山の粗銅を運ぶために馬車鉄道が敷かれます。それにあたり、大谷川を渡るためにさらに朝日橋と呼ばれる橋が架けられました。

これによって、神橋付近は上流から

・朱色に塗られた神橋

・白木の仮橋

・青く塗られた朝日橋

という3本の橋が並んだ、かなり珍しい景色だったようです。

明治35年(1902)には、足尾台風による洪水によって、これらの橋がすべて流されてしまう大惨事が起きます。

神橋の復旧工事は1904年から着工して、1907年に開通式が行われました。

仮橋は鉄骨造で再建されて、馬車鉄道も兼ねた日光橋となりました。

1910年には馬車鉄道が日光電車(日光電気軌道)と変わり、この路面電車は、足尾銅山の輸送手段や観光客の移動手段として大活躍します。

太平洋戦争終盤の1944年、神橋と日光橋の間に、日光電車がスムーズに曲がれるようなカーブのある橋が架かります。これによって、神橋周辺は再び橋が3本並んだ状態になります。

 

現在の姿

マイカー時代に突入していた1962年、交通量の激増を背景に日光橋は大幅に広がります。1968年には日光電車が廃止されて、残念ながら日光電車用の橋が取り壊されました。

1972年には、神橋と呼ばれるようになった1636年以来、336年振りに一般人通行の禁止が解かれることになり、現在のような景色になりました。

海外から来た観光客にもよく知られているようで、神橋を背景にしたり、神橋と遠くの山を一緒に撮影している光景を見かけます。夜になるとライトアップもされますので、静けさに浮かぶような神橋もおすすめです。

 

残る3つの謎

何度も足を運んでおり、見たり聞いたりしている神橋ですが、不可解な謎がいくつもあります。3つに絞ってみましたので、ぜひ一緒に考察してもらえるとうれしいです。

①そもそも誰が作った?

勝道上人が渡ったストーリーは、伝説として知られていますが、実際のところはどうだったのでしょう。

まったくの素人目線ではありますが、最初から何らかの渡れる橋があって、勝道上人のエピソードは後から重ねられたのではないでしょうか。

そう考える理由は次に紹介します。

②そもそも違う方法で渡れるのでは?

大谷川の激流を渡れなかった勝道上人ですが、流れが鎮まるのを待ったり、さらに上流に行けば渡りやすくなるはずです。男体山を目指す方向は上流なので、無理に渡る必要がありません。

この場所を渡った!というエピソードが重要なのかな?と考えられます。

③激流、2匹の蛇、山菅は何を指している?

勝道上人が大谷川を渡った際に登場した、2匹の蛇と山菅、これは何かを暗示しているのではないでしょうか。

奈良時代は、中国から仏教が伝えられて、古代から日本に根付いていた神々に対する信仰との新しい関係性がはじまりました。仏の悟りを得るために日光を訪れた勝道上人が、当時の日光で歓迎されたかどうかもわかりません。

 

私の勝手な想像ですが、1200年前に勝道上人が奇跡を起こす僧侶を演ずることによって、神教と仏教の両方を融合した思想を世に広めやすくしたのではないか、と考えます。

男体山登頂に成功してから、中禅寺湖のほとりに神宮寺を建てたり、神橋の付近では現在の輪王寺や二荒山神社の原型となる寺や神社を建てています。この膨大なエネルギーと説得力を得るために、神橋の伝説は生まれたのではないでしょうか。

 

それでも「なぜ蛇なのか?なぜ山菅なのか?」という疑問は残りますが、何にしても、勝道上人が大谷川を渡ったことよりも、奇跡を起こしたエピソードが必要だった、というのが私なりの解釈です。

 

 

ぜひ美しい神橋を訪れる際には、1200年前の謎にも思いを巡らせていただけるとうれしいです。

参考にしていただければ幸いです。