地図をよく見ると、群馬県の桐生市は不思議な形をしています。
中央を切り取られたような不自然な境界線。なぜ桐生市はこのような、分断された形になったのでしょうか。

もちろんこれは行政の失敗や偶然ではなく、むしろそこには、桐生市が生き残るために下した現実的な判断がありました。その鍵を握っているのが、桐生の名を冠して現みどり市で運営している、ボートレース桐生です。
今回の記事では、桐生市の形の謎を振り返りながら、意外な日光市との関係性についても解説していきます。
渡良瀬川と不安定な土地

みどり市から太田市にかけての一帯は、渡良瀬川が山間部から平野部へと続く巨大な扇状地です。
その渡良瀬川、かつては現在のように一本の川ではありませんでした。
網の目のように分かれ、ひとたび大雨が降ると洪水となってしまうような不安定な土地でした。

現在残っている阿左美沼は、このような時代の名残です。
このように、歴史的地理的に使いにくい土地だった桐生市周辺は、足尾銅山の発展によって不安定さが加速してしまいます。
負の影響は下流へ

日光市の旧足尾町、ここは明治から昭和にかけて日本最大級の銅山があった場所です。
足尾銅山では大量の木が伐採され、さらに精錬による亜硫酸ガスが広がったことで、足尾一帯の山は無残に枯れてしまいました。
山が水を蓄えられなくなると、雨は一気に川へ流れ込みます。
土砂と鉱毒を含んだ大量の水が、渡良瀬川を通って下流へ流れ込む構造が続き、渡良瀬川は決壊と洪水を繰り返すようになりました。
被害を受けたのは下流の農村と街。

桐生市周辺も例外ではありませんでした。洪水が頻発したり、さらには鉱毒被害も受けるようになった農地では、大規模な治水事業、耕地整理が行われました。
農地には完全に向いているわけではない桐生市一帯では、水を前提とした土地利用の検討が進みます。
遊水機能を持たせ、農業用水を確保し、娯楽施設を生み出す。競艇場の誕生は、この不安定な土地を逆手に取った結果だったのです。
戦後復興と桐生市の選択

1950年代の日本は、まだ高度成長期を迎える前であり、深刻な財政難、地方の立て直し、闇賭博など、たくさんの問題を抱えていた状態でした。
その解決策として日本全体で議論されていたのが、公営賭博の導入です。
かつて桐生市は織物産業で一時代を築きましたが、時代の変化によって新たな収入源が必要でした。近隣に渡良瀬川という豊富な水源があり、安定した水面を確保できるこの一帯が、競艇場の建設予定地として大抜擢されました。
こうして1956年、内陸の桐生市にボートレース桐生(桐生競艇場)が誕生します。
阿左美沼の中央を埋め立ててスタンドを建設し、半分のエリアを活用して競艇場としました。当初の主催者は桐生市、場所は現在のみどり市阿左美地区です。

この競艇場誕生は、川に振り回されながら生きてきた桐生市が選んだ、現実的な財源確保の手段でした。
撤退と分断
やがて20世紀末に向けて、ボートレース桐生は経営不振に陥ります。
桐生市は2003年度限りでの閉鎖を打ち出します。ここでボートレース桐生の存続を引き受けたのが、阿左美水園競艇組合でした。
この判断により、平成の大合併では構想が分裂します。



・競艇場を存続させたい自治体
・撤退した桐生市を中心とする自治体
その結果、競艇場を存続させたい市町村は桐生市に組み込まれず、結果的に桐生市を分断させる形でみどり市が誕生しました。
足尾銅山は、明治維新後の日本の近代化に大きく貢献しました。
しかしその代償は、下流の町が引き受けました。
織物産業の衰退、産業構造の変化に追われた桐生市は、不安定な土地と向き合い、水を管理し、水を利用する道を選びました。
そしてさらに時代が変化して、その競艇場を手放す決断をします。
桐生市の分断は失敗の結果ではなく、川の歴史を背負った街が、時代ごとに選んできた、生存戦略の足跡だと言えるでしょう。
現在のボートレース桐生は、みどり市が主催しており、日本各地の競艇場とも連携しながら人気を集めているようです。ご興味ありましたら、一度足を運んでみてはいかがでしょうか。