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もうひとつの【黒部ダム】鬼怒川の発展に貢献した「もっと評価されてほしい観光スポット」

壮大な観光名所として知られる黒部ダム、皆さんが思い浮かべるのは富山県にある黒部ダムだと思いますが、栃木県日光市にはもうひとつ、先に完成していた黒部ダムがあります。

日光の歴史だけでなく、日本経済の発展を語るうえで欠かせない、こちらの黒部ダムを解説します。明治から昭和に続く歴史の流れも感じてもらえると思います。

ぜひ最後までお付き合いください。

(2023年11月現在の情報です)

 

アクセス

黒部ダムは、栃木県北部の鬼怒川温泉からさらに1時間くらい走った奥地にあります。奥地とは言っても、川治温泉と日光世界遺産エリアを結ぶルートにあり、2023年の春までは小中学校が建っていました。
現在では道路が舗装されて走りやすい状態ですが、黒部ダムの建設当時は人や馬がやっと通れるくらいの険しい道でした。

ダムは通常、都市部から離れた山間で、川を堰き止めて建設します。この黒部ダムも例外ではなく、明治後期の技術と根性で難工事を乗り切ったようです。

まずは、黒部ダムを造ることになった経緯を振り返ってみます。

 

建設のきっかけ

日本は明治20年代の日清戦争、30年代の日露戦争の勝利によって国際競争力が急速に強まってきました。人々の生活水準も上がり、電気に対する関心やニーズが高まっていきました。

当時の日本では、電力を生むには火力発電か水力発電しかなく、豊富な水量を持つ河川に水力発電所を建設する構想はあったようです。

経済の混乱や資金調達の失敗など、当初から様々な困難がありながら、明治43年(1910)に鬼怒川水力電気株式会社が設立されます。

計5回に及ぶ現地調査を行った結果、鬼怒川の上流は冬でも充分な水量を確保できることが判明して、ダムを建設する場所、発電所を建設する場所のどちらも問題がないということで

・水量を確保する黒部ダム

・発電所に流れる水量を調節する逆川ダム

・東京に送電する下滝発電所

が計画されて、明治44年(1911)ほぼ同時に着工することになります。

 

手作業中心の大工事

工事は、黒部ダムと逆川ダム、下滝発電所を建設するだけでなく、それぞれを地下を走る水道管で結ばなければなりません。

明治後期~大正時代にかけては、鉱山開発を目的とした機械が日本中で使われるようになりましたが、鉄道や自動車も普及していない時代です。当然、しっかりした道路も整備されていない状況でしたので、ダム建設に使う大量の資材をどのように運ぶのか?が大きな壁になりました。

 

本格的に工事をするまでに、資材を運ぶルートを作らなければならず

・日光の今市から大桑まで馬車鉄道を敷き

・大桑で分岐して小原まで馬車鉄道を延長

・小原から逆川ダムまで鉄索で結び

・さらに逆川ダムから田母沢まで延長

・大桑で分岐した馬車鉄道は、黒部ダム南側にも延ばし

・穴沢までは馬車鉄道

・さらに黒部ダムまで鉄索で結ぶ

このように、当時から栄えていた今市から黒部ダム建設地までの、鬼怒川経由で35km程度、ショートカットで30km程度を物流させるという、大掛かりなプロジェクトでした。

途中で鬼怒川を渡るために、明治43年(1910)現在も残るくろがね橋が作られました。

 

7800人に及ぶ作業員が現地に詰めて、尊い命も犠牲にしながら翌年の大正元年(1912)には、驚異的なスピードで黒部ダムが完成します。表面に切り石を人力で1つずつ並べて、発電専用のコンクリートダムとしては日本初のダムです。

下滝発電所も、この年に運用が開始されて、大正3年(1914)に完成します。当時の総出力43,500kwは、東洋一の発電量であり、日本全国の電力の13%を占めていました。

 

黒部ダムが与えた影響

下滝発電所が安定的に水力発電できるように、鬼怒川上流で役割を果たしていた黒部ダムですが、大正時代の関東大震災が起きても、鬼怒川から電気を送り続けて復興に貢献しました。

当時の水力発電は良くも悪くも、動き出したらずっと発電している仕組みなので、照明としての活用が中心でしたので、昼間の電気が余ってしまう問題が起きていました。

そこで鬼怒川水力電気株式会社は、鉄道目的に電気を使う活用方法を見出して、小田原急行鉄道を子会社として設立します。

このように黒部ダムと下滝発電所によって、関東一帯に電気を送ることで日本産業の発展にも繋がってきましたが、地元の鬼怒川においてもさらに2つの大きな影響を与えました。

 

①東武鬼怒川線の原型ができた

資材を運ぶためにせっかく作った馬車鉄道は、黒部ダムが完成したことで取り壊す予定でした。しかし、当時の村長であった星藤太が買い取ることで、藤原軌道が設立します。

・大正4年 下野軌道と名称が変わり、今市~下滝まで馬車鉄道が敷かれる

・大正6年 馬車鉄道が蒸気鉄道となる

・大正11年 蒸気鉄道から電気鉄道となる

この頃には、下野電気鉄道と呼ばれており、ここでも紆余曲折がありましたが、昭和4年(1929)に、今市で東武日光線と接続することになります。

当初は黒部ダムの建設目的で敷かれた馬車鉄道ですが、鉱山開発に活用されたり、廃線の危機もありましたが、100年経った今では、温泉観光地へのアクセスとして活用されています。

 

②鬼怒川温泉の源泉がたくさん発見された

黒部ダムから下滝発電所の区間に水道管を通したことで、鬼怒川を流れる水量は圧倒的に下がりました。

この結果、鬼怒川温泉ではさらに幾つもの源泉が発見されることになり、当時は大きな騒ぎになりました。すでに数件の温泉や旅館は営業していましたが、徐々に数が増えていき、昭和初期には収容人数1000人規模の観光ホテルが生まれていきます。

東武鬼怒川線の開業も相乗効果となり、戦前戦後にかけて鬼怒川温泉が大きく発展するきっかけとなりました。

 

現在の様子

下滝発電所は、昭和38年(1963)に大改修をして鬼怒川発電所となりました。

黒部ダムは昭和62年(1987)から平成元年にかけて、こちらも大規模な改良工事が行われて、現在の姿になりました。

黒部ダムが完成してからも、日光市内でたくさんのダムが作られて、発電所も増えたわけですが、その基礎となったのは黒部ダムの成功でした。

こうして大正時代から電気を送り続けたことで、鬼怒川エリアが発展するだけでなく、東京の夜を照らして鉄道の普及にも貢献したわけです。

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すでに馬車鉄道や鉄索の跡形もなくなりましたが、かつて資材を運んでいたルートをクルマで走ってみると、小休戸には当時の面影が残っています。黒部ダムの建設工事をピークとして、昭和初期までは小学校の分校が建てられるほど人が集まっていたようです。

東京から大きな近代化の波が一気に押し寄せて、街が急速に発展して、その後は波が引くようにあっさりと静かな農村に戻り、地元としては熱狂と混乱が入り混じった様相だったと思いますが、そういった100年前の光景を想像してみるのも面白いと思います。

ぜひ参考にしてみてください。