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渋滞解消を狙う【LRT】と渋滞で消えた【日光電車】宇都宮ライトレール開業記念

2023年8月26日、宇都宮の次世代型路面電車LRT(宇都宮ライトレール)がデビューしました。1987年の構想から30年以上を経て、ついに走り出したわけですが、栃木県にはもうひとつの路面電車があったことをご存知でしょうか?

宇都宮のすぐ隣、日光市内にも路面電車が走り、55年前に廃止となった歴史があります。

今回の記事では、このLRTを紹介するだけでなく、日光市内にも走っていた路面電車の登場から活躍、その後廃止となったストーリーがありますので、それぞれの開業の背景や目的を比べながらまとめてみたいと思います。

デビューしたてのLRT、100年以上前にデビューした日光の路面電車、通称「日光電車」の歴史を解説します。

 

LRT導入の背景

栃木県宇都宮市は、南北を結ぶ国道4号線、東北本線、東北新幹線、そして市内を1周する宇都宮環状線が整備されていますが、東西を繋ぐ大動脈がありませんでした。

そのため、宇都宮の東側に位置する大きな工業地帯である、清原工業団地や芳賀工業団地に向かうマイカーが大渋滞を起こす問題が慢性化していました。

いくつかの方法が検討されましたが、2001年に次世代型路面電車を工業団地に向けて走らせる方針が固まります。

LRTの推進・反対が争点となった宇都宮市長選では大接戦を繰り広げたり、ルートの確定、用地買収など様々な経緯を経て、2018年に着工しました。

 

LRTのゴールイメージ

元々は深刻な渋滞対策、宇都宮東部(テクノポリスと呼ばれるエリア)の開発、東西を結ぶ大動脈を構築する、といった目的だったLRTも、徐々に目的が変化していきます。

人口減少や少子高齢化が加速する将来に向けて

・マイカーに頼らない交通手段の整備

・生活拠点を集中させるコンパクトシティ化

がクローズアップされてきました。

実際のところLRTの路線図を見ると、沿線のマンションに住んでいる方が工業団地に向かうには、好都合な通勤手段にはなりますが、今まさに渋滞に巻き込まれている方は、宇都宮市内各地に散らばっています。すでにマイカーを持っていることを考えると、あまり渋滞解決には劇的な貢献はしないのではないか...と個人的には感じています。

 

LRTだけの採算を考えたら、将来予定している西側延伸が開業してしまえば、高校生や中学生の通勤手段となり、確実に乗降数は確保することができるので、収入面では安定化するでしょう。また西側延伸を行った際には、現在の在来線やバスなどの他の交通手段とのアクセス改善も期待したいところです。

実際に乗ってみると、静かで安定している新しいバス、というイメージです。

通勤手段にするのか、高齢化社会のモデルシティを目指すのか、観光目的にするのか、目的がちょっとぼやけてきていますが、おそらく全国の自治体は、宇都宮LRTを壮大な実験として見ているでしょうから、ぜひ成功してもらいたいものです。

 

日光電車の歴史

日光電車の正式名称は日光電気軌道という、あまりピンとこないネーミングですが、その歴史は日光の交通網の歴史そのものです。江戸時代までさかのぼってみましょう。

 

鉄道の登場

江戸時代は、道路が整備されていないこともあり、基本的には今の東京から日光に向かうには、徒歩で何日もかけて移動していました。それでも参勤交代の大名や朝廷から派遣された例幣使(朝廷から派遣された代拝するための使者)が、数多く日光には訪れていました。

明治時代に入ると、車道が整備されはじめて、馬車、人力車、駕籠(カゴ)を使った移動ができるようになってきました。諸外国から避暑地として日光を訪れる観光客や要人も増えてきて、日光に向かうための交通手段が望まれていました。

明治18年(1885)から、周辺環境が大きく動き出します。

宇都宮駅まで鉄道が開業したことで、東京から宇都宮までスムーズに移動できるようになり、わずか5年後の明治23年(1890)には、宇都宮から日光まで鉄道が開業しました。これによって、東京から日光まで5時間以内で行くことができるようになり、日光東照宮であれば日帰りも可能なほど身近な存在になりました。

しかし、国際避暑地として栄えつつあった中禅寺湖までは相変わらず、人力車、カゴ、徒歩で行かなければならず、中禅寺湖の人気は高まる一方で、アクセスの悪さは課題でした。日光駅から中禅寺湖まで、人力車で往復7時間、カゴで往復9時間という時代です。

 

足尾銅山の発展

この後、日光電車が登場するわけですが、その背景には足尾銅山が大きく関わっています。

江戸時代から有数の銅の産地として、足尾銅山は栄えてきましたが、そこから運ぶ手段は大変でした。

栃木県と群馬県の境界線に近い足尾で、どんどん採掘がされるわけですが、それを運ぶには馬1頭がやっと通れるくらいの険しいルートを使わなければなりませんでした。北上するにも南下するにも、難所も多くて往来が厳しい状況でした。

この状況を打破するために着目したのが、日光駅まで延伸した日光線です。

足尾銅山から日光にある岩ノ鼻に向かって、道路の大改修、馬車鉄道を走らせることにしました。

足尾銅山で採掘された銅を、馬車鉄道と牛車鉄道で日光駅まで運ぶ時代です。

明治43年(1910)このルートの一部、岩ノ鼻から日光駅までが路面電車と切り替わり、これが日光電気軌道、通称「日光電車」となりました。

 

日光電車の活躍

日光電車が登場した頃は、銅をはじめとした物資輸送が主な目的で、どちらかというと観光客はそれに便乗するような使い方でした。

足尾から桐生方面に向かう国鉄足尾線が開通したことで、日光電車は足尾銅山の銅を運ぶ役目が終わりました。その代わり、さらに奥日光への物資輸送、そして観光客の増加もあり、大正2年(1913)に日光電車は馬返(うまがえし)まで延伸しました。

これにより、東京から日光、中禅寺湖まで向かうには、国鉄で日光駅まで向かい、日光駅から馬返まで日光電車で向かい、いろは坂の手前までスムーズに移動することができるようになったわけです。

日光電車の運賃は、人力車の半分程度だったようで一気に普及しました。

もちろん日光市民の生活の足としても活躍しており、当時の小学生も通学に使ったり、毎日の通勤にも使われました。細い橋を渡ったり、坂のある路線を進むので、事故もあったようです。この頃の日光市内は、日光電車と自動車がどちらも同じ道路を走る光景が見られて、今からは想像しにくいですが、現役の頃をぜひ見たかったものです。

徐々に自動車が日本国内でも広がりはじめて、また日光電車は、貨物による収入よりも乗客による収入が増えたことで、観光地日光は次のステージに進むことになります。

 

ちなみに馬返という地名は、当時は馬が立ち入れない領域であったことや、馬も登れないほどの急な坂だったことから馬返という地名になったようです。そういうわけで、中禅寺湖に向かうには、人力車、カゴ、徒歩という時代が続きます。

 

自動車との競合

大正時代後半には、日光電車を利用する以外にも、中禅寺湖に向かう手段が増えました。

大正11年(1922)日光駅から中禅寺湖まで、乗合馬車が運行開始

大正14年(1925)日光駅から中禅寺湖まで、乗合自動車、つまりバスが運行するようになりました。

昭和4年(1929)東武日光線が開通して、ここから東武鉄道と国鉄による観光客の争奪戦がはじまります。東武日光線または国鉄で日光駅まで来て、そこから日光電車で馬返まで向かい、その先はバスで中禅寺湖まで向かう時代です。

昭和7年(1932)には、日光鋼索鉄道線、通称「日光登山鉄道」が開業します。

自動車で中禅寺湖に向かうには道路が悪く、馬返で日光電車を降りて、ダイレクトに日光登山鉄道に乗り換えていろは坂を登り切る移動方法が完成しました。

大きな転機になったのは、昭和29年(1954)の第一いろは坂有料道路の開通です。本格的なマイカー時代が訪れて、その流れに合わせていろは坂を整備したことで、電車を使わなくてもマイカーで一気に中禅寺湖まで行ける時代になりました。

それでも渋滞がひどく、観光客が増える一方だったことから、昭和40年(1965)には第二いろは坂有料道路が開通します。

この頃には、東武日光線と国鉄で争っている場合ではなく、マイカーブーム到来の大きな波が押し寄せていました。

第一いろは坂が開通した翌年、昭和30年には鉄道のシェアは80%超えていましたが、次の年にはバスとマイカーを合わせて50%に達します。これが第二いろは坂が開通したことで、70%を超えるようになります。

こうなると、日光駅から日光電車を使う観光客が激減、さらに日光市内の渋滞の原因になるとして、日光電車廃止の動きに向かいます。この頃は廃止を惜しまれつつも、市民からの日光電車廃止の要望が強かったらしく、それほど渋滞の大きな原因になっていたのでしょう。

昭和43年(1968)日光電車 廃止

昭和45年(1970)日光登山鉄道 廃止

こうして、日光を走っていた路面電車「日光電車」は終わりを告げました。

 

こうして一連の流れを見ると、日光電車はモータリゼーションと呼ばれたマイカーブームの到来までの繋ぎのような役割ではありましたが、市民の足となり、国内外の観光客に日光の素晴らしい景色を見せる重要な働きをしてくれたと感じます。

今の時代は、スローな時間の過ごし方、移動自体を楽しむ過ごし方もあります。

ここで路面電車があったら、観光地としての日光はかなり面白かったと思いますので、その意味ではもったいないなぁ…というのが正直な気持ちです。

 

LRTと日光電車を比較

話をLRTに戻して、令和の時代にデビューしたLRTの目的を改めてまとめると、以下のような感じではないでしょうか。

当初の目的:渋滞の解消、東西の大動脈構築

現在の目的:渋滞の解消、コンパクトシティへの移行

期待:宇都宮駅東~工業団地の再開発、観光への応用

懸念:工事費回収、効果測定が長期的

開業当初は珍しさもあって、乗客数は多い状態を維持できると思いますが、興味が一巡してからのLRT活用は不安もあります。

最終地点が工業団地(下写真)なので、言葉を選ばずに表現すると「LRTに乗って行きたい場所がない」ということですが、宇都宮駅西口から西側方面に延伸したり、宇都宮がマイカーなしで暮らせる街並みになってからが本当の勝負かもしれません。

日光電車も同じようにまとえてみると

当初の目的:物資(特に銅)の輸送問題解決

以降の目的:観光客輸送、市民の足

効果:中禅寺湖へのアクセスが改善、観光客の増加

廃止:マイカー時代が到来して利用客の激減、渋滞の原因

 

2つを比べてみると

どうしても開業しなければならない必要性は、日光電車の方が高かったと考えられます。東洋一の産出を誇った足尾銅山の輸送問題を解決するという、具体的な課題がありました。

日光電車については、その後の存在目的が貨物輸送から観光客輸送に切り替わり、人口増加や観光ブームなどの追い風もあったことで、比較的わかりやすいニーズがあったことは幸運だったと感じます。

これと比較すると、LRTも渋滞解消という大きな目的はあるものの、市長選挙で市民の意見が割れたように、その必要性は必須とまでは言えないと思います。用地買収が不要で、建設コストを激減できる次世代交通システムは他にも開発されているからです。

そして日光電車は、マイカー時代になって利用者が減るだけでなく、渋滞の原因にもなっているというわかりやすい廃止の理由がありました。

LRTの場合には、その渋滞が開業の背景にあり、マイカー通勤の緩和が目的になっています。海外からの観光客に目を向ければ、宇都宮にはインバウンドを狙うような観光資源がなく、国内に目を向ければ人口減が加速しています。

日光電車とは、何もかも違う環境で走り出したLRTですが、日光電車の登場から廃止の流れから学べる点はあると思います。

・LRTなら行ける、どうしても行きたい場所

・生活や文化に溶け込む仕組み

こういった存在価値があれば、面白い展開になりそうです。

 

 

いかがでしたでしょうか。

今回は宇都宮の次世代型路面電車LRTの開業に合わせて、100年以上前に日光を走っていた路面電車を紹介しました。ぜひ実際にLRTを体験してみたり、今後の展開を見ていただきながら、日光の歴史も知っていただけると幸いです。