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【足尾銅山】江戸時代の発見から鉱毒事件までの歴史を振り返る

知っているようで知らない?栃木県日光市にある足尾銅山について

・日本の産業発展に貢献した光の面

・足尾鉱毒事件の影の面

の両面を解説します。

当時の様子を知ることができる足尾銅山観光を紹介しながら、改めて大切なポイントをまとめてみました。

足尾銅山の功績を振り返るだけでなく、現在にどのように繋がっているのか、知っていただけると幸いです。

 

足尾銅山観光

今回は日光駅からバスに乗って向かいました。

市営バスで60分程度ですが、乗車位置が少しわかりにくいと思いますので、利用する方は注意してください。東武日光駅やJR日光駅の反対車線にバス停があります。

支払い方法は2023年夏の時点では、現金かPayPayのみです。

バスに揺られて、世界遺産エリア「日光の社寺」を通り過ぎたり、途中には後ほど解説する古河電工の工場があったり、実はこの移動ルートも見学ポイントです。足尾銅山で採掘された鉱石が運ばれたルートと反対向きに進むことになります。

 

足尾銅山観光に到着すると、まずはトロッコに乗って坑内を目指すことになります。それほど深い場所まで行くわけではないのですが、迫力は充分!採掘現場に迷い込んだような感覚になります。

暗い洞窟のような場所に入り込むので、未就学児だと怖いかもしれません。

トロッコを降りて歩きながら、だいたい40~60分くらいの見学コースを歩いていくことになります。こんな坑道を1200kmも掘って進むなんて、迷子どころか行方不明になりそうです。

 

足尾銅山の発見

足尾銅山の発見は、江戸時代初期の慶長15年(1610)までさかのぼります。

幕府による管理によって銅の採掘が急速に進められました。230年以上全国で使われた寛永通宝は、足尾銅山の銅で作られています。江戸時代は手掘りが基本ですので、相当な重労働だったと察します。

1回目の最盛期を迎えた足尾銅山ですが、江戸時代後期になると採掘できる量がどんどん減っていき、一時期は閉山状態となってしまいます。足尾の街が衰退した状態で、明治時代を迎えました。

 

古河財閥による経営

明治10年(1877)に、足尾銅山は古河財閥創業者である古川市兵衛によって経営されることになります。新しい鉱山の発見や掘削機械の導入、坑道内を整備することによって、明治17年(1884)には銅の産出量日本一となり、日本国内において40%を占めるまでに拡大しました。

大正時代、そして昭和時代になると坑内作業の近代化が進み、ダイナマイトも利用しながら、鉱山を縦横無尽に採掘するようになります。

銅の採掘や輸送方法の改善、足尾町全体の発展に大きく貢献したものの、やがて採掘量が激減して、昭和48年(1973)に閉山。360年にも及んだ鉱山としての歴史は終了しました。

江戸時代から昭和後期まで、どの時代であっても栃木県と群馬県の境にあるような山奥で、どのように大量に掘って、そしてどのように早く運ぶのか?

足尾銅山での取り組みが、そのまま日本の近代化に繋がりました。

 

鉱石の状態から、銅はどのように作られるのでしょうか?

その工程をおさらいします。

銅山から鉱石を採掘しても、純度の高い銅を作るまでには、いくつものステップがあります。まずは足尾銅山で採掘された鉱石を、必要な石とそうでない石に分けていきます。この場所を選鉱所と呼び、銅山のすぐ隣に建っていました。

最初の頃は、女性労働者(女工)が目視で選別していましたが、削ってから水に浮かせる方法に進化して、より正確に選別ができるようになってきました。

次に製錬所に運びます。この製錬所は鉱石を溶かして銅を取り出すことが目的です。ここで粗銅と呼ばれる、ざっくりとした銅のようなカタマリだけにしますが、銅としては不純物が1%程度も含まれており使えない状態です。

これをさらに精錬所に運びます。製錬所と同じ読み方なので、混乱しそうですが、こちらの精錬では理科実験で教わった(ような気がする)水溶液の中での電気分解を利用して、純度の高い銅を取り出します。

このように、足尾銅山から採掘された鉱石が銅として流通されるまでには、選鉱所~製錬所~精錬所と運ばなければならなず、輸送には大変な手間がかかりました。この輸送方法の歴史を見てみましょう。

 

交通網の整備

江戸時代

足尾銅山で採掘した鉱石を運び出すには、いくつかのルートが開発されましたが、主要なものとしては、北上して日光方面に運び出すルートと、南下して桐生方面に運び出すルートです。

足尾銅山が開発された江戸時代は、どちらのルートで運ぶにしても馬がやっと通れるくらいの細く険しい山道でしたので、運び出すだけでも時間がかかり重労働でした。

 

明治時代

道路が少しずつ整備されていき、また西洋から導入した電車が日本各地で見られるようになってきました。明治23年(1890)になると、日光と東京上野が鉄道「日光線」で繋がります。

古河市兵衛によって、この日光線を利用して東京まで銅を運ぶ方針が決まり、日光方面に向かう道路の整備が進みます。

日光線が繋がった明治23年(1890)に、本山から地蔵坂まで、日本最初の近代的なロープウェイが運行をはじめます。このロープウェイは、当時は「鉄索」と呼ばれており、大量に採掘した鉱石を運ぶために大活躍しました。

また鉄索に接続する形で、明治28年(1895)には馬車鉄道が往復するようになりました。

これによって、足尾銅山で荒銅まで仕上げたものを、清滝付近まで一気に運べるようになり、そこから牛車鉄道で日光駅まで運び、そこから鉄道で東京に運んで純度を高めるための精錬を行います。

またこの時期には、輸送以外にも

明治23年(1890)

・日本初の電気捲揚機

・日本初の水力発電による動力利用

明治24年(1891)

・日本初の電気機関車が本山から古河橋まで運行開始

大正3年(1914)

・日本初の国産削岩機を制作

のように、日本全体の産業発展に大きく貢献する挑戦が行われました。

また明治39年(1906)には、現在の古河電工の地に「日光電気精銅所」を創業します。これによって東京まで粗銅を運ぶ必要がなくなり、国内各地から粗銅が集まる大きな精銅所となりました。

 

大正時代以降

早くから電気機関車の導入や足尾鉄道の開通など、鉄道を活用した輸送を行ってきましたが、ガソリンカーの普及により輸送方法は大きく変化することになります。

大正15年(1926)には足尾銅山での輸送に、ガソリンカーが使われることになり、馬車鉄道や鉄索は姿を消すことになります。

(せめて面影だけでも残っていたら見たかったものです...)

 

日本初の公害事件

日本初というカテゴリーでは、足尾鉱毒事件は日本初の公害事件でした。

1800年代後半から被害が見えるようになってきて、明治33年(1900)には、地元出身で帝国議会議員の田中正造が明治天皇に直訴を試みるなど、緊急に対策が必要な状況でした。

足尾銅山の公害の原因は、大きく分けると次の2つです。

①足尾銅山の坑内や選鉱所から渡良瀬川に流れ出る水

→これには、銅だけでなく鉛、亜鉛、ヒ素、カドミウムなどが含まれます。

②本山製錬所から出る煙

→これには、亜硫酸ガスが含まれます。

川の水や大気が汚染されることで、山の木は枯れていき、川を泳ぐ魚も生きられなかったり、また魚の体内に鉱毒が溜まった状態で地元住民が口にすることで、公害はどんどん拡大していきました。

いくつかの改善は図られましたが、日本で前例がない大規模被害であったことや、その頃には地域産業の大黒柱になってしまった難しさはあったと感じます。

 

現在への繋がり

古河市兵衛が足尾銅山を日本一の銅山に導き、巨大な財閥を形成するに至ったわけですが、ざっくりと現在への繋がりをまとめてみます。

古河市兵衛が足尾銅山を再開発をして、明治8年(1875)に「古河鉱業」を創業しました。この古河鉱業は、鉱山開発のノウハウを活かして発展。平成元年(1989)からは社名を「古河機械金属」として、様々な産業機械で圧倒的なシェアを占めています。

清滝に創業した日光電気精銅所は、大正9年(1920)に古河電工(古河電気工業)となり、現在では非鉄金属メーカーとして国内シェア第2位、光ファイバーや電線の分野を牽引しています。

このように、足尾銅山の発展と並行して、古河財閥は事業を多角化、近代化することに成功して、富士電機、富士通、みずほ銀行、損保ジャパンなど数々の大企業を生み出してきました。

現在の足尾銅山観光は、鉱山開発の歴史にスポットを当てていますが、様々な日本初の導入を行って、日本の近代化の最先端を走ってきた現場だと感じます。その一方で、日本初の公害問題を抱えてきた歴史があり、その傷は完全には癒されていません。

 

 

いかがでしたでしょうか。

足尾銅山の歴史について、交通網の歴史や古河財閥の成り立ちまで含めて解説してみました。

銅山の再開発、そこからの一点突破によって、全国から技術や人が集まり、街全体が活気に溢れて、足尾町は一時は栃木県内で宇都宮に次ぐ人口を誇っていました。ここでは紹介しませんでしたが、足尾銅山の歴史をたどると

・新聞記者から総理大臣になった原敬

・廃藩置県や地租改正で明治維新を牽引した陸奥宗光

・日本資本主義の父として今なお影響力のある渋沢栄一

も関わっています。

日本の近代化の歩みを感じられる足尾銅山、ぜひ機会があれば足を運んでみてください。足尾銅山を知ることで「日本のポテンシャル」さらに「地方都市のポテンシャル」を感じられると思います。