鬼怒川温泉に放置されている廃墟は、あるエリアに集中しています。なぜそのエリアなのか?どのような経緯で廃墟に至ったのか?考察してみたいと思います。
鬼怒川温泉の賑わっているエリアは、ざっくりまとめると
・鬼怒川温泉の南エリア
・鬼怒川温泉駅の周辺
・鬼怒川温泉の西エリア
こんな感じですが、別な表現をすると
・鬼怒川温泉の北東エリア
については、人が集まらないどころか、閉館した建物が放置されています。
残念ながら「鬼怒川温泉といえば廃墟」という評価が、一定数ある感じになってしまいました。未来に期待を込めて、私なりに4つの原因にまとめてみました。
廃墟自体に関心がある方はもちろん、鬼怒川温泉に興味があれば、参考にしていただけると幸いです。
(2023年7月現在、あくまで個人的な見解でまとめました)
鬼怒川温泉 北東エリアの現在
今回ピックアップする、廃墟となった観光ホテルをざっくり紹介します。北から順番に以下の5件を取り上げます。
①元湯星のや
創業は1925年(大正14年)と、鬼怒川温泉でもかなり古い時代から営業しており、藤原温泉の発祥といえると思います。初代が川釣りの最中に、湧き出る温泉を発見したのが創業のきっかけでした。
その直後の1927年に、西側の滝温泉と東側の藤原温泉を合わせて「鬼怒川温泉」と呼ばれるようになりました。
貴重な源泉かけ流しの温泉であり、宿泊客からの評価も高かったようですが、残念ながら2010年に閉館しました。
②きぬ川館本店
創業は1942年、日本が高度成長期に入る前に地元の名士によって建てられました。
団体客を迎えることに特化して、増築を繰り返しました。後ほど原因でも触れますが、1964年に現在の場所に移転するまでは、歩いて行ける距離に鬼怒川温泉駅があり、マイカーが本格普及するまではかなり強気の投資をしていたのかな、と察します。
男性専用(現代じゃNGでしょ…)の大浴場「かっぱ風呂」が名物となっていたようですが、バブル経済が崩壊して数年後、他の観光ホテルよりも早いタイミングで、1999年に閉館します。
③鬼怒川第一ホテル
あさやホテルの支店として、1956年に開業。その後、1980年に鬼怒川第一ホテルとして別会社による運営となりました。隣のきぬ川館本店とは、人ひとりの距離しか離れておらず、こちらも増築を繰り返して複雑巨大化していきました。
2008年に閉館して、現在に至っています。
④鬼怒川観光ホテル西館(跡地)
鬼怒川観光ホテル水明館として、1953年に開業しました。
その後、好景気に乗って1981年より、西館・東館・別館という3館体制となります。最初に開業した水明館は、西館として営業していましたが、2005年に閉館、2007年に取り壊しとなりました。
崖の方に土台部分が少し残っていますが、むしろここまできれいに取り壊したケースが珍しいと思います。
開業した頃には、鬼怒川温泉駅の場所は現在の位置に移転しており、ダイヤルバスが活躍していたのだと思います。乗り降りするスペースはかなりセットバックしていたのでしょうが、かなり道路から近いですよね。
⑤鬼怒川観光ホテル東館
1981年に開業して、西館が解体された翌年、2008年に閉館しました。
開業当時はすでに鬼怒川温泉駅は離れた位置に移動してしまいましたが、元々駅があった場所の向かいに建てられました。鬼怒川のすぐ脇に建っており、くろがね橋にアクセスする際には必ず目にするので、絶好のロケーションではあります。残念ながら現在は、廃墟となった姿がかなり目立つことになってしまいました。
これらの鬼怒川温泉の北東エリアで営業していた5件について、なぜこのエリアだけ閉館が集中したのか、私なりに解説したいと思います。
原因① 藤原温泉の発展が一本調子だった
元湯星のやに代表される藤原温泉エリア、つまり鬼怒川温泉の北東エリアですが、開業が早かった分、その後鉄道が開発されて、マイカーブームが訪れて、好景気に沸いた頃には老朽化がかなり進んでいたはずです。
もちろん当時も、建て替えや改装などを繰り返していたはずですが、基本的には「差別化」を狙うというよりは「もっと大きく、もっと豪華に」という路線ばかりで、競うように拡大していたようです。
その頃から外資系リゾートが入っていたり、スタートアップのような観光会社が、独自路線で様々な価値感を提供できていたら、かなり歴史は変わっていたでしょうし、少なくとも、共倒れのような事態にはならなかったのではないかと思ってしまいます。
原因② 鬼怒川温泉駅の移転
鬼怒川温泉駅が、東館の向かいから現在の場所に移動したことは、後々の大きなダメージになったと察します。マイカーで旅行に行く時代になりましたが、首都圏から来る多くの観光客は電車を使うことになります。
もしも、の話にはなってしまいますが、鬼怒川温泉駅が東館の目の前だとしたら、そのような首都圏からバッグひとつで旅行する観光客、インバウンドをかなり獲得できていたのではないでしょうか。
ドアトゥドア、電車を降りて目の前に鬼怒川の絶景と泊まるホテルがあったら、今の時代ならかなりニーズがあったのではないでしょうか。
原因③ バブル経済崩壊と足利銀行破綻
日本経済や会社規模が拡大路線だったので、それに応える投資をしていたことは経営的な判断としてはもっともだと思います。しかし1990年前後、バブル経済が崩壊してから
「まさか不景気がこんなに続くとは思わなかった」
「社員旅行が激減するとは予測できなかった」
「足利銀行が融資してくれると思っていた」
この3つが大きな誤算だったのだと思います。
鬼怒川温泉で営業していた観光ホテルは、程度の差はあるでしょうが
・富裕層向けのリゾートを想定していない設計
・個人旅行には向かない巨大な建物
・インバウンド(外国人観光客)は後回し
こういった弱点を抱えていたようです。
特に、足利銀行が破綻したことで運転資金が不足、借金返済が困難、担保にしていた土地価格が暴落、といった連鎖がダメ押しになってしまいました。
足利銀行が国有化してからの鬼怒川温泉は、産業再生機構の支援を受けられるかどうかが大きな分かれ道になりました。支援を受けた主な観光ホテルは以下の通りです。
・あさやホテル
・鬼怒川グランドホテル
・鬼怒川プラザホテル
・鬼怒川温泉ホテル
・鬼怒川金谷ホテル
・ホテルニュー岡部
・鬼怒川観光ホテル
ホテルニュー岡部は、現在はホテル三日月が運営しており、鬼怒川観光ホテルは、別館を除いて閉館。別館については、現在は大江戸温泉物語が運営しています。
いくら債権放棄などの支援を受けても、立て直しは難しかったことがわかります。
原因④ 市町村合併が裏目に出た?
そもそも現在の鬼怒川温泉は、旧藤原町にあったので、日光市とは別市町村でした。
バブル経済の崩壊で、一気に日本全体が失速したのが1990年前後。その後しばらくして、1999年に「日光の社寺」が世界遺産に登録されました。
日光市としてはこれを起爆剤として復活を図っているタイミングで、2006年に合併が行われます。
・世界遺産がある日光市
・鬼怒川温泉と川治温泉がある藤原町
・湯西川温泉がある栗山村
・商業的に栄えている今市市
・足尾銅山があった足尾町
日光東照宮を、日本だけでなく世界に売り出している時期に、あえて鬼怒川温泉を全力でサポートする余力はなかったのではないか、と察します。
もちろん行政としては、必要に応じて広く公平にサービスを提供しているでしょうが、おそらく2006年に合併しても一枚岩になって「日光全体を底上げしよう」という流れが起きなかったのではないでしょうか。
日光東照宮がある日光エリアは、そもそも外国人観光客が宿泊できるように発展した経緯がありますので、歴史的には、鬼怒川温泉とはまったくターゲットが異なり、元々は違う市町村だったことで、なかなか相乗効果を起こすのは難しかったかもしれません。
極論ですが、合併がもう少し先で、藤原町が独自に舵を切って観光客再誘致に動いていたら、違った展開だったかもしれません。その余力がなくて、合併したのかもしれませんが、結果的に日光市としては、良くも悪くもたくさんの大きな観光地を抱えており「選択と集中」が難しくなっているように感じます。
まとめ
あくまで個人的な考察でしたが、いかがでしょうか。
様々な要因が絡み合っているはずなので、私が挙げた4つには収まらないと思います。外的な環境変化を中心にまとめましたが、経営している立場の人達はもっと考え抜いた結果の現状なのでしょう。
何年も経ってから、勝手に考察するのは簡単ですが、ここから何を学び、どのように将来に活かしていくのか、考えていきたいと思います。