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【湯西川温泉】発見の物語とは?「平清盛から日光に続くスピンオフ」

今回の記事では、日光の北端に位置する湯西川温泉について、発見から現代に至るまでの物語を紹介します。

そもそも、なぜこんなに遠い地に温泉街があるのでしょうか?

もう少し市街地に近い、鬼怒川温泉や川治温泉は、温泉が発見されて、そこから発展してきた歴史がありますが、湯西川温泉はまったく違う経緯で温泉街になっています。

湯西川温泉に興味がある方はもちろん、平安・鎌倉時代から続く歴史物語に興味があれば、ぜひ最後まで読んでいただけると幸いです。

湯西川温泉のきっかけは、平安時代後期までさかのぼることになります。この当時なので諸説ありますが、この壮大な物語を楽しんでもらえたらうれしいです。

 

平家の最後

平家物語の序盤の主人公、平清盛は太政大臣、貴族のトップにまで昇りつめて、政治を思うがままにしていました。「平家にあらずんば人にあらず」という過激発言が有名ですが、1181年に亡くなったあたりから潮目が変わってきます。

1185年、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いなど大きな節目で源義経の大活躍により、平家の時代は終わりを告げました。

同じく1185年に源頼朝は鎌倉幕府を樹立して、武士による政治の時代に突入します。

1189年、平家滅亡に大きく貢献した源義経は、あまりに大活躍してしまったことと、義経の勝手な行動も重なり、結果的に兄の頼朝に追われて奥州(東北)で自決します。

 

平家の生き残り(落人)

平家は壊滅的な状況となりましたが、生き残って日本各地で平家の落人(おちうど)として定着しました。落武者というのは、武士を指すので、武士以外も広く指す言葉として落人が使われています。

平安時代の絶頂期を築いた平清盛、その長男の重盛(しげもり)、重森の五男(六男?)である平忠房(ただふさ)は、歴史上の記述では紀州(現在の和歌山県)で囚われてしまいますが、この忠房が身代わりであったという設定が、この物語のポイントです。

忠房は身を隠すために、名を忠実(ただざね)と変えます。ちなみに、忠房の子であるという説もあります。

宇都宮朝綱を頼りに下野国(現在の栃木県)に200人程度でたどり着き、鬼怒川温泉のさらに北、鶏頂山に隠れ住むようになりました。しかし、男子が生まれたことを機に、のぼりを上げて祝ったところ、源氏に発見されて奇襲を受けます。

さらに40km前後も山奥へと進み、生き残った40人で湯西川に着きます。のぼり1つで相当なダメージでしたね。

地元で聞いた話でも、湯西川エリアでは現在も、大々的に鯉のぼりを上げたり、煙を立てたり、鶏を飼うことはないようです。

 

湯西川温泉の発見

平家の落人として、湯西川で暮らしはじめて、ある冬のことです。雪が降っても積もらない場所があることを発見しました。これが湯西川温泉です。

忠実によるエピソードなのかは不明ですが、多くの温泉地とは異なり、温泉があったから集落ができたのではなく、たまたま後から温泉を発見した流れが珍しいと思います。

湯西川温泉は800年以上の歴史があるので、鬼怒川温泉などと比較してもかなり歴史は古いですね。その当時、将来の子孫のために財宝を温泉付近に埋めて隠したそうです。埋めた場所は「平家の里」という施設にある「平家塚」で見ることができます。

そこから長い間、湯西川温泉は注目されることなく年月が過ぎていきました。

 

湯西川温泉を改めて発見

1573年、平忠実から11代、伴忠光(ばんただみつ)が同じように雪が積もらない部分を掘り起こし、改めて温泉を発見しました。大昔に埋めた財宝も発見して、療養目的で湯西川温泉が活用されるようになります。

観光という考え方がなかったので、一帯の住人は狩猟や木彫り工芸で生計を立てており、その様子は「平家の里」の復元でも見ることができます。

 

温泉街の発展

江戸初期の1666年、伴忠光の子孫によって、湯西川温泉に本家伴久(ほんけばんきゅう)という温泉旅館が創業しました。栃木県内でもトップ10に入る歴史ある会社として、現在に至っています。

アクセスが大変な湯西川温泉でしたが、1951年に川治温泉~湯西川温泉のバスが運行を開始します。1956年には、五十里ダムの完成に合わせて、周辺道路が整備されました。

1986年には、会津鬼怒川線が開通、湯西川温泉駅も開業したことで、首都圏からでもかなり遊びに来やすい環境になりました。

 

源氏と平氏の和睦

1994年に「平家の里」において、源氏と平氏の和睦イベントが行われました。

壇ノ浦の戦い以降、争っていたわけではないのですが、日本史上初の国内を二分するような大きな争いが行われ、そのまま和解するきっかけもなく800年以上が経ってしまいました。

源氏の末裔と平氏の末裔が「平家の里」に会して、過去の清算が行われました。平氏の代表は、本家伴久の25代です。

ちなみに、伴忠光が温泉を再発見した頃から、湯西川温泉は本格的に使われるようになりましたが「平」の姓を名乗っていません。これは身を隠すために「平家の人」の「人」を「にんべん」にして「平」を崩した「半」を合わせて「伴」とした経緯があったようです。

 

この物語は本当なのか?

平清盛からはじまった物語、これが本当なのかどうか、疑わしいところもあるようです。調べてみると、否定する意見もたくさん出てきます。

 

大きく分けると、以下の2点に集約されると考えています。

①歴史上、平忠房は源氏に捕らえられており「身代わりだった」は強引ではないか?

②関西が本拠地だった平家が、わざわざアウェイの関東の山奥に逃げるのだろうか?

特に②については、平忠実が湯西川を目指してバタバタしていた頃は、狙われたヒーロー、源義経が奥州(東北)に逃げ込んでおり、源氏が戦闘モードに入っている関東はリスクが大きすぎます。

真実はわかりませんが、何のきっかけもなく平家の落人伝説が生まれてくるのは、それはそれで不自然ですし、何かしらの関連性があったのでは?と考えています。個人的に2つのケースを考察してみます。

 

結局、平家は湯西川にたどり着いたのか?

A案【平家ではない誰かが、平家物語と自分を繋げた】

平忠実ではなく、その後語り継がれた平家物語を聞いた誰かが、何かの事情で湯西川にたどり着いて、平家物語と自分を繋いだ案です。

これはこれで強引かもしれませんが、ただの流れ者よりも、平家の末裔の方が自分の価値を高めてくれそうです。その誰かが、そのまま湯西川に住み着いたという物語です。

 

B案【平貞能物語のスピンオフだった】

下野国の宇都宮朝綱は、かつて平清盛に拘束されていたことがありました。そこから助け出すのに一役買ったのが、平貞能(さだよし)でした。その貞能は、その後の奥州攻めにも加わり、源氏をサポートすることになります。

源氏と平氏は敵対していましたが、その経緯は複雑であり、このように相手方に転ずることは多々あったのだと思います。

貞能はその後の足跡がわかっており、湯西川温泉との接点はなさそうですが、その一味、または貞能のケースと同じように、源氏側が恩返しをすることで助けられて、関東に来た可能性はあります。

すると結局「なぜあんな山奥に行かなきゃならないの?」という疑問は残るのですが、個人的にはこの案に可能性を感じています。

 

まとめ

いかがでしょうか。

800年以上続く湯西川温泉の物語、350年以上続く本家伴久の物語、平家の落人伝説を現在に伝えている「平家の里」をまとめて紹介しました。

 

 

平家の落人伝説が、もしかしたら真実かもしれませんし、湯西川温泉の発見物語にはかなりロマンがあります。読んだ方によって、かなり捉え方は変わると思いますが、それぞれが思うところを共有してみるのも面白いと思います。

ぜひ参考にしてみてください。