鬼怒川温泉は廃墟だらけのイメージを与えてしまうかもしれませんが、これらの廃墟はひとつのエリアに集中しています。
なぜこのエリアばかり、廃墟が集中しているのか?
これからどうすればいいのか?
以前も記事にしましたが、2024年版として改めて個人的な考察をまとめています。ぜひご一読ください。
- 廃墟ホテルの歴史
- 原因① 古くて大きいだけのホテル
- 原因② マイカー時代に対応しなかった
- 原因③ バブル崩壊と足利銀行国有化
- 原因④ 市町村合併が裏目に出た?
- 復活案① クラウドファンディングによる再生
- 復活案② ニセコのように外資に支配してもらう
- 復活案③ 地熱発電でまったく違う温泉地を目指す
- 復活案④ 解体コンペの開催
廃墟ホテルの歴史
この通りは、なかなかインパクトありますね。
鬼怒川温泉の北東の一角ですが、廃墟となったホテルが立ち並んでいます。今ではその面影もありませんが、このあたり一帯は、鬼怒川温泉に突進してくる大量の社員旅行を迎え撃つ、まるで要塞のようにどんどん巨大化していきました。
北から順番に、その歴史を振り返ってみます。
①元湯星のや
創業1925年なので、今から約100年前、鬼怒川温泉ではかなり古い時代から営業していました。初代の星次郎作が川釣りの最中に、湧いている温泉を発見して開放したことから鬼怒川温泉の歴史が幕開けしました。
その孫、星藤太の働きが非常に大きく、鬼怒川温泉はちょっとした湯治場から温泉観光地に脱皮することになり、戦前の発展の立役者といっても過言ではありません。
そんな由緒ある温泉ホテルは、貴重な源泉かけ流しの温泉として知られていましたが、残念ながら2010年に閉館しています。
②きぬ川館本店
元湯星のやから南に進むと、まるで積み木のように増改築を繰り返したことがわかる、きぬ川館本店が建っています。創業は1942年、日本が高度成長期に入る前のことでした。
この当時は、徒歩圏内に鬼怒川温泉駅があり、マイカー時代が訪れる前から押せ押せの投資をしていたと察します。団体客を迎え入れることに特化しており、男性専用の名物「かっぱ風呂」など、昭和独特の文化が感じられます。
バブル経済が崩壊して少し経った1999年、他の観光ホテルよりも早いタイミングで夜逃げ同然で突然閉館しました。残された従業員にとっては悪夢のような展開ですが、予約済みの観光客をどうにか迎えてもてなしたエピソードがあり、その当時にどんな心境で最後を見送ったのか...複雑な思いです。
放置されている期間は、他のホテルよりも10年近く長いことになり、見た目的にも崩壊するなら、ここからはじまるのではないでしょうか。
③鬼怒川第一ホテル
ホラーゲームに登場するような階段を挟んで、きぬ川館本店のすぐ隣には、鬼怒川第一ホテルが建っています。あさやホテルの支店として、高度成長期の1956年に営業を開始、1980年からは鬼怒川第一ホテルとして、別会社による運営となりました。
ライバルとの距離感、そしてお互いに負けじと巨大化している様子から、今でいう差別化なんていう戦略はなく「とにかく広く、とにかく大きく」を目指していたことがわかります。
2008年に閉館して、現在の姿になっています。
④鬼怒川観光ホテル西館(跡地)
一時代を築いた岡部ホテルグループにより、鬼怒川観光ホテル水明館として、1953年に開業しました。
その後、高度成長期が落ち着き、バブル経済の前夜である1981年には、西館・東館・別館の3館体制となり、鬼怒川温泉の当時の中心地を制覇していました。
国民全員がどうかしていたバブル経済が崩壊して、2005年に閉館、2007年に取り壊しとなりました。土台の一部は残っているものの、ここまできれいに取り壊したケースは珍しいと思います。
権利関係などの問題はあるでしょうが、ついでに周辺の閉館した建物も壊した方が、結局コストがかからなかったんじゃないかな…もったいない思いです。
⑤鬼怒川観光ホテル東館
西館が解体された翌年、2008年に閉館しました。
開業当時には、鬼怒川温泉駅は南の方に移動していましたが、それまでは東館の向かい、細い道路沿いに鬼怒川温泉駅があり、中心地として栄えていました。
くろがね橋のすぐ近くに建っており、現在営業している人気ホテルにも近いので、廃墟群のひとつとしてかなり目立つ存在になっています。
この東館の脇には、近道があって現在も歩くことができます。頭上に廃墟を見上げながら階段を降りる感じですが、かつての昭和サラリーマンが、楽しいことを求めてガヤガヤ歩いたり、先輩に付き合わされてイヤイヤ歩いていたと思うと、哀愁を感じてしまいます。
ここまで5件のホテルを紹介してきましたが、このエリアのホテルが閉館に追い込まれて、廃墟群に至った原因を4つにまとめてみました。
原因① 古くて大きいだけのホテル
ここまで紹介したホテルは、すべて高度成長期の前に建てられました。
高度成長期、その後に続くバブル経済では、輸出産業の絶好調と人口増加による好景気を背景に、会社に忠誠を尽くすように社員旅行に参加していた時代です。
現在のように、ひとり旅や女子旅をする人は珍しいレアキャラであり、旅行といえば社員旅行!といった時代でした。
その社員旅行の中身は、大宴会場で無礼講の意味を探りながら適度に弾けて、そのまま寝たかどうかわからない状態で翌日を迎え、ぐったりして現実世界に帰る、という生産性のカケラもない2日間を過ごしていたわけです。
鬼怒川温泉は、首都圏から電車で2時間という、近くも遠くもない距離、自然があるけど未開の地でもない、そして社員旅行向けに巨大化したホテルが並んだことで、急速に発展しました。
温泉観光地としてわずか300年の歴史なので、おそらく伝統や街づくりのような観点が弱く、個々のホテルが個人競技を走って、その先頭グループには紹介した5つのホテルが含まれていました。
好景気が終わり、旅行スタイルが変わった頃には、築50年の迷路のような巨大ホテルは誰も望んでおらず、マイカーでプライベート旅行を楽しみたいニーズに応えられるはずもありません。
発展が早すぎたのが結果的に不幸となり、不景気になった頃には古くて大きいだけのホテルになってしまいました。
原因② マイカー時代に対応しなかった
鬼怒川温泉駅が東館の目の前にあった当時は、電車で来るアクセスも良かったわけですが、現在の位置に移転したことはいろいろな意味で痛手でした。
マイカーで来ようにも駐車場がない、電車で来ようにもホテルまで遠くなってしまい、歩くにも道路が狭すぎ、のように、いくつものハンデを抱えた状態になりました。
本格的なマイカー時代になった頃には、拡大路線が完成してしまい、道路や駐車場の整備まで手が回らず、時代に取り残されてもしょうがない結末でした。
原因③ バブル崩壊と足利銀行国有化
バブル経済の崩壊により、多くの企業は経営的にも雰囲気的にも社員旅行どころではなくなりました。安定して受注でき、売上を支えていた団体旅行が激減したことは、全国の温泉観光地にとって大きなターニングポイントになりました。
社員旅行に特化していた鬼怒川温泉は、大ダメージを受けて、土地の値段が上がることを前提に借りまくっていた投資資金を返せなくなりました。
観光ホテルへの融資が絶好調で、全国的に注目されていた足利銀行が拡大路線を後押ししたことで、回収できない借金が膨れ上がり、担保にしていた土地の値段も急落したことで、足利銀行は経営破綻、国有化となりました。
当時の熱狂を想像すると、イケイケで貸しまくるのが銀行の必勝パターンだったのかもしれませんが、団体旅行の激減で苦戦しているホテルを助けるどころか、返せるはずもない借金返済を迫ることになり、鬼怒川温泉はハシゴを外される結果を招いてしまいました。
原因④ 市町村合併が裏目に出た?
1990年前後のバブル崩壊から立ち直れず、失われた10年と言われていた頃に観光都市日光に明るいニュースが飛び込みました。日光東照宮をはじめとする「日光の社寺」が世界遺産に登録されました。
この起死回生のようなニュースが飛び込んだ当時、鬼怒川温泉はまだ日光市とは合併しておらず藤原町でした。2006年の平成の大合併により
・世界遺産がある日光市
・鬼怒川温泉、川治温泉がある藤原町
・湯西川温泉がある栗山村
・足尾銅山があった足尾町
・商業的な中心地の今市市
が合併して、現在の日光市の形になったわけですが、日光市の観光戦略としてはどうしても世界遺産が中心となります。V字回復の期待が薄い鬼怒川温泉に、多くのリソースを割くことは難しかったのではないでしょうか。
2005年足利銀行国有化、2006年世界遺産登録、2008年リーマンショック、2011年東日本大震災、と鬼怒川温泉を取り巻く環境は逆風が続きました。
鬼怒川温泉だけでなく、日本中の温泉観光地は、再生機構の延命処置を受けるか、個々の努力でどうにかするか、資金が尽きて閉館するか、この3択に分かれることになりました。
鬼怒川観光ホテルは、再生機構の支援を受けるも建て直せず、閉館に追い込まれました。いかに鬼怒川温泉を取り巻く環境が厳しかったのか、察することができます。
もう少し市町村合併が先で、藤原町が全力で鬼怒川温泉、川治温泉の建て直しに全振りしていたら、結果は変わっていたかもしれません。
では、ここからどうすればいいのか?素人目線ではありますが、廃墟群からの復活案をこちらも4つにまとめてみました。
復活案① クラウドファンディングによる再生
復活案の最初は、あまりにテッパンですが、日本全国から広く資金を集めて、新たな施設にリニューアルする案です。
何にリニューアルするのかが、この復活案の肝になりますが、行政主導で共同浴場に再建するのであれば、加賀温泉の総湯がモデルになるでしょう。
その他に、建物を完全に撤去して更地にしてから、温水の川遊びエリアしたり、天然温泉のリゾート福祉施設にするなど、ターゲット次第でかなり幅広い検討ができると思います。
この鬼怒川温泉の廃墟群は、源泉発見の地であることもあり、豊富な湯量が確保できるはずです。現在は垂れ流しになってしまっている源泉があると思いますので、これを最大限に活用して、集客できるアイディアが決まれば面白い展開になりそうです。
復活案② ニセコのように外資に支配してもらう
北海道のニセコは、ものすごい勢いで海外勢による再開発が進んでいます。
カンタンに表現すると、日本人が見向きもしなかったニセコは、外国人観光客にとって憧れのリゾートのひとつとなりました。
鬼怒川温泉にも、積極的に外資に進出してもらう案です。
このニセコが発展したのは
・ウィンタースポーツに抜群な雪質
・既得権益が皆無なほど弱っており反対勢力がなかった
などの、いくつかの要因がありますが、鬼怒川温泉に投資価値を感じてもらえれば、日光市にとっては最小限の予算で、固定資産税が増えることになります。
明治時代の中禅寺湖は、外国人からの人気が爆発して発展したように、個人的には可能性はゼロではないと感じています。
復活案③ 地熱発電でまったく違う温泉地を目指す
これは技術的に可能かどうかは別として、こういう戦略が面白いのではないか?という案です。温泉が湧いているということは、少なくとも地熱が発生していることになります。これを発電に活用して、まったく新しい温泉観光地のモデルを作るものです。
廃墟群を撤去する費用はかかりますが、その先には
・自然に囲まれた温泉ホテル
・電力の地産地消
・温泉を活用した野菜や魚の地産地消
このように持続可能で、世界中のどこにもないような温泉観光地を実現することができます。
復活案④ 解体コンペの開催
最後は、もっとも実現可能性が高いんじゃないかなっていう、解体コンペ案です。
ここも素人目線で、好きなことを言ってしまいますが、日々進化している建設重機や解体処理技術を、鬼怒川温泉の廃墟群で実験してもらったり、解体コンペのように競ってもらいます。
いかに費用を抑えて、きれいに早く解体できるかを競うわけですが、もちろん、参加する企業をただ踊らせるような失礼なスタンスではありません。絶好の宣伝の場になりますから、むしろアピールする機会を提供することで、WINーWINを目指します。
これによって、全国の困っている廃墟群が、予算確保や解体方法を考えるきっかけができますし、この解体コンペで培った技術が、いつの日か災害現場で発揮されるなんてこともあるかもしれません。
まったく何のしがらみもなく、勝手に4つの復活案をまとめてみました。
鬼怒川廃墟群は、あと20~30年もすると築100年となり、いつか自然崩落することになってしまいます。そんな状態になってから、行政が慌てふためく様子は誰も見たくありませんし、観光都市日光としても絶対に避けたい未来でしょう。
ぜひ時間が経つのを待つのではなく、攻めの廃墟群対策を進めてもらいたいと思いますが、皆さんにも考えてもらえるとうれしいです。