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【鬼怒川温泉の奇跡】日本有数の観光地になった3つのポイント

日本各地に数々の温泉がありますが、そのなかでも

「鬼怒川温泉は、なぜ日本有数の観光地となったのか?」

この疑問について、3つの考察をまとめてみました。

明治から昭和にかけて、奇跡のような発展を遂げた鬼怒川温泉に興味がある方だけでなく、観光地の歴史に興味がある方も参考になると思います。ぜひ最後までお付き合いください。

(2023年9月現在の情報です)

 

江戸時代

鬼怒川温泉が日本有数の観光地に発展した経緯を解説する前に、どのように源泉が発見されたのか?について解説します。

鬼怒川温泉の歴史は、330年前、江戸時代までさかのぼることになります。

元禄4年(1691)下滝村の沼尾重兵衛をはじめ、村民6人が鬼怒川の西側に源泉を発見します。江戸幕府第5代、徳川綱吉の時代です。この源泉を利用して共同浴場を作ったところ、とても繁盛したようです。

この温泉利用について、村民の間で争いが生じていたために、これを治める方法として

「温泉は日光奉行所が没収するべき」

という提案があり、温泉は日光奉行所のものとなり、江戸幕府直轄となりました。

温泉の恩恵を受けられなかった村民のやっかみだった...というだけかもしれませんが、結果的に江戸時代の鬼怒川温泉は、大名や僧侶だけが利用することができる温泉でした。

この当時の鬼怒川温泉は「滝温泉」と呼ばれており、現在の「あさやホテル」付近にありました。

 

明治時代

明治時代になると、温泉は一般開放されます。

明治2年(1869)鬼怒川の東側にも、釣りをしていた星次郎作によって温泉が発見されます。こちらの温泉は「藤原温泉(ふじはらおんせん)」と呼ばれましたが、発見したタイミングについては、資料によって

明治4年(1871)市役所資料

明治6年(1873)東武鉄道資料

のように、若干の誤差はあるようです。

明治10年~明治19年の10年平均ですが、滝温泉の年間利用者は565人、藤原温泉もわずか225人。宿泊で過ごす場所ではなく、あくまで旅人が立ち寄るような場所でした。

 

明治21年(1888)滝温泉では、湯量を増やす目的で村民による源泉爆破も行いましたが、まったくの失敗だったようです。

同じ年に藤原温泉で、八木澤善八によって「麻屋」が創業します。

この「麻屋」が、後に「あさやホテル」となるわけですが、ここから鬼怒川温泉の歴史がスタートしたわけです。

明治時代末期の重要な出来事としては、明治44年(1911)に、下滝発電所と黒部ダムの建設がはじまりました。この2つの大きな建築工事が、鬼怒川温泉の奇跡に大きな影響を与えることになります。

 

大正時代

大正元年(1912)には、日本初の発電専用コンクリートダムながら、2年弱という驚異的なスピードで黒部ダムが完成、大正3年(1914)には、下滝発電所が完成します。

この下滝発電所が動きはじめたことで、2つの変化が起きました。

ひとつは電気鉄道の発展です。

下滝発電所で水力発電した電気は、当時は東洋一の発電量を誇り、東京方面の夜を照らす灯りとなりました。技術的には、街灯や電灯に使うことが中心だったため、昼の電力が無駄になってしまう問題がありました。

このことによって、電気鉄道の開発が推進された背景は面白いところです。

もうひとつは、温泉が次々に発見されたことです。

黒部ダムが完成して、鬼怒川下流側の水位が下がったことで源泉が数多く見つかりました。

【鬼怒川西側】

下滝温泉・鬼怒川温泉・大滝温泉

【鬼怒川東側】

湯ノ滝温泉(甲・乙・丙・丁・戊)・宝ノ湯・蔦ノ湯

【鬼怒川北側】

元湯・新湯

これらの源泉が、現在の鬼怒川温泉を形成しています。

 

大正6年(1917)には「麻屋」の創業者である八木澤善八が、滝温泉にあった下滝温泉と鬼怒川温泉の管理者となり、鬼怒川の西側に「麻屋旅館」を開業します。東側の藤原温泉では、星藤太が滝ノ湯温泉の管理者となります。

大正14年に、藤原温泉で星藤太によって「星野屋旅館」が開業。同じ年に「大滝館」が開業します。

 

昭和時代

昭和2年(1927)に、鬼怒川西側の滝温泉、東側の藤原温泉が統一されて、現在のように「鬼怒川温泉」と呼ばれるようになります。

この当時に鬼怒川温泉で経営されていたのは、麻屋旅館、大滝館、星野屋旅館の3つでした。その後に

麻屋旅館→あさやホテル

大滝館→鬼怒川温泉ホテル

星野屋旅館→元湯星のや

に変化していく旅館です。

当時の東武鉄道の社長、根津嘉一郎の提案により、1000人収容規模の「鬼怒川温泉ホテル」が開業します。

根津嘉一郎には、鉄道を整備することにより、鬼怒川温泉が一大温泉地になる確信があったようです。開業については、地元の大きな反対があったようですが説得。その後の「鬼怒川温泉ホテル」は、金谷ホテル一族の金谷眞一に経営権が譲渡されます。

昭和5年には、鬼怒川温泉駅が開業して東京方面からのアクセスが大幅に改善されました。翌年には、営業している旅館は9館に増えます。

 

この東武鉄道の参入があった頃、それに競うように「星野屋旅館」を開業した星藤太は、下野軌道、昭和自動車、スキー場など、数々の事業に着手しています。最終的には、東武鉄道に吸収される事業も多いのですが、地元資本として鬼怒川温泉エリアの発展を加速させた功績が大きいです。

日本は高度成長期を迎えて、鬼怒川温泉は大型ホテルが乱立する時代に入ります。

 

奇跡だった3つのポイント

各時代の出来事を振り返って、鬼怒川温泉が日本有数の観光地となったポイントを、3つにまとめてみます。

 

①距離感と規模感がちょうどいい

東京をはじめ、首都圏から鬼怒川温泉に遊びに行くことを考えると、マイカーでも電車でも2時間台で行ける距離感は非常に足を伸ばしやすいと感じます。

1泊2日の旅行であっても、午後の出発でチェックインに間に合いますし、チェックアウトしてからも、どこかに寄り道できる距離感です。

関東平野の最北端のようなロケーションなので、平面から斜面に変化する途中にあり、市街地から遠すぎず、四方を山に囲まれている雰囲気は絶妙だと思います。

鬼怒川の両端に温泉が湧いており、かつ南北にも3kmくらい広がっている温泉なので、観光地としての開発は考えやすかったと察します。

山と川の調和、四季の変化など、人の手では演出できない魅力があることも見逃せません。

 

②下滝発電所の建設

滝温泉と藤原温泉で、それぞれ温泉旅館を開業していた頃に、鬼怒川温泉で発電所を建設することになった影響は計り知れません。

蒸気機関車が走る前から、いち早く馬車鉄道が敷かれて、ダム建設や発電所建設のための資材を運ぶことになりました。その後、鉄道開発に移行するための下準備が自然と進められたことになります。

発電所を建設した後も、星藤太が熱心に鉄道開発に動いたことが、東武鬼怒川線が開通する大きなきっかけになっています。

忘れてならないのは、水力発電所の建設にあたり、鬼怒川の水量を調整するために、上流にダムを設置したことです。これによって水位が下がり、さらに源泉が数多く発見されたことは、タイミングも含めて奇跡的でした。

 

③東武鉄道の進出

鬼怒川温泉が発展する前から、日光・中禅寺湖方面では海外からのゲスト向けに、日本初の洋風ホテル「金谷ホテル」を開業していました。技術の進化に合わせて、鉄道や自動車を次々に導入したり、リゾートホテル業を本格化します。

 

東武鉄道の根津嘉一郎は、その日光・中禅寺湖方面だけでなく、鬼怒川温泉にも着目していました。

まだ、麻屋旅館・大滝館・星野屋旅館しか建っていない鬼怒川温泉を訪れて、大規模なリゾートホテルを建設する提案をしたことは、よほど成功の確信があったのか、鬼怒川温泉のポテンシャルを見抜いたのだと感じます。

足を運んだことがある方は、実感していると思いますが、日光・中禅寺湖と鬼怒川温泉は、同じ栃木県日光市とは思えないほど、アクセス的には離れています。

どちらかが、もう一方の途中だったりする方が、観光客としては遊びやすいかもしれませんが、リゾートステイの日光・中禅寺湖、温泉旅行の鬼怒川温泉、のように役割分担している面があります。

そのような地理的関係であっても、日光・中禅寺湖だけに注力するのではなく、鬼怒川温泉の開発も推進して、地元もそれを受け入れた環境は奇跡的な相乗効果だったと感じます。

昭和時代の前半までの歴史を振り返って、鬼怒川温泉の歩み、そしてここまで発展したポイントをまとめてみました。

 

 

あさやホテル

鬼怒川温泉が江戸時代に生まれて、日本有数の観光地に発展した330年の歴史を、あさやホテルの歴史から振り返ってみます。

あさやホテルは、鬼怒川温泉でもっとも歴史が古く、そして関東有数の人気ホテルです。

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これら数々の受賞歴が示すように、利用満足度も非常に高く、メディアに何度も取り上げられています。創業から現在に続くその物語を振り返ってみます。

 

創業

鬼怒川の東側で、明治2年(1869)星次郎作によって源泉が発見されました。その地は藤原温泉と呼ばれ、炭や麻の問屋を営んでいた八木澤善八が「麻屋」という名の旅館を開業します。

その一方、対岸の西側では、すでに江戸時代には沼尾重兵衛によって源泉が発見されおり、河原で滝温泉が作られていました。鬼怒川の西側は日光奉行所の支配だったため、一般の村民などは利用できませんでしたが、明治時代には解放されるようになります。

 

「麻屋」が開業した明治2年(1888)に、滝温泉では爆破の威力を利用して河原の温泉を広げようという試みが行われましたが、威力が大きすぎて湯舟が破壊、鬼怒川の水が入り込んで湯温が下がってしまい、人気が低下、衰退してしまいました。

その後に、栗本義喬(くりもとよしたか)が、下滝温泉の権利を獲得します。

 

栗本義喬は、旧制第一高等学校(現東京大学)で漢文教師を勤めて、その後に栃木尋常中学校(現宇都宮高校)でも漢文を教えていた人物です。

滝温泉の景色に魅了されて、明治27年(1894)に滝温泉の権利を取得、源泉をうまく移動させることによって温泉を復活させます。その後療養のために、大正6年(1917)滝温泉からは身を引きますが、滝尋常小学校の移転のために土地を寄付したり、八木澤善八に滝温泉の権利を譲渡しました。

栗本義喬自身は、本業において大きな才能を発揮してきたと察しますが、鬼怒川温泉の歴史においても、重要な役割を果たしました。

 

大型ホテルへの発展

大正6年(1917)に鬼怒川の西側、滝温泉に場所を移した「麻屋旅館」は、鬼怒川温泉が奇跡的な発展を遂げるなかでも、中心的な役割を果たしてきました。

 

1955年から約20年間、日本全体は人口増加と輸出産業の絶好調によって、高度成長期に入ります。

昭和31年(1956)には「麻屋」が創業した地で「あさや支店」が開業します。昭和55年(1980)以降は、経営者が変わって「鬼怒川第一ホテル」となります。この間に、本体である「あさやホテル」も次々と増築して攻め続けます。

昭和47年(1972)渓風館を新築、名称も「あさやホテル」と変更します。

翌年には、観山館を新築。

昭和52年(1977)八番館を新築。

また同じ系列で、1973年には「あさやホテル」から少し北に進んだ先に、広大な敷地を誇る「鬼怒川グリーンパレス」を開業しています。

この時期に、立て続けに新館をオープンさせていき、東京方面から大勢で訪れる社員旅行の受け皿となっていました。それでも人気の温泉地は、常に団体旅行で予約で埋まっていたので、今から振り返ると本当に何かに踊らされていたような時代です。

そして1980年代の後半には、土地の価格が上がり続けるバブル経済が到来、ホテルの顔となる秀峰館を新築します。

総工費73億円という巨額の投資でしたが、当時は銀行が積極的に(=ザル審査で)建築投資を提案しており、日本全国どこの観光ホテルも同じような現象が見られました。

 

バブル経済の崩壊

しかし、異常な地価高騰と好景気に沸いたバブル経済もいつまでも続くはずがなく、1990~91年にかけて崩壊します。鬼怒川温泉の最古の旅館にして、もっとも巨大なスケールで営業していた「あさやホテル」は、そこから大苦戦の時代に入ります。

絶好調だった大企業の業績は大ブレーキがかかり、社員旅行の激減、個人旅行の多様化、景気の停滞感など、時代の変化すべてが大型ホテルにとって逆風となりました。

「あさやホテル」も例外ではなく、再生計画を立てるも改善できず、メインバンクの足利銀行の国有化を経て、産業再生機構の支援を受けることになります。

 

2005年前後は、鬼怒川温泉では観光ホテルの閉館や倒産が相次ぎました。

鬼怒川温泉の廃墟群として語られるホテルは、ほとんどがこの時期に閉館したものでした。

「あさや支店」として開業した「鬼怒川第一ホテル」は、すぐ隣の「きぬ川館本店」と競うように複雑な増築を繰り返してきましたが、2008年に閉館。

同じ年に「鬼怒川グリーンパレス」も伊東園ホテルズに売却して、営業を継続しますが、2015年の設備工事を機に休館状態が続いています。

 

また奇跡が起きるか?

鬼怒川温泉に数ある観光ホテルのうち、産業再生機構の支援を受けるホテル、受けられないホテルがあり、そのこと自体が大きな悲劇を生んだ面もありますが、地域全体への影響度や事業立て直しの見込みをもって、2004年に「あさやホテル」は産業再生機構の支援を受けることになりました。

渓風館と観山館を閉鎖して、4館体制から2館へと事業規模を縮小して、巨大な宴会場は名物のライブキッチンへとリニューアルさせています。

2館体制となり、秀峰館では季節感と豪華絢爛を前面に打ち出して旅行の楽しさを演出しています。規模の大きさを活かして、どのようなシーンでも利用できるのが強みです。

八番館は和風テイストで、落ち着いた温泉旅行を楽しみたい方にとっては、ハマると思います。大きな建物ではありますが、その構造を非日常感の演出に活かしていると感じます。

 

鬼怒川温泉には素晴らしい観光ホテルや旅館が立ち並んでいますが、まだまだ温泉街全体をデザインしようという余裕はないと感じます。

おそらくですが

「鬼怒川温泉が好き」

というよりは

「そのホテルに泊まりたい」

という選ばれ方をしているのではないでしょうか。

せっかくの絶景、四季の変化、おもてなしの心、長い歴史が絡み合って現在に続いていますし、また日本有数の温泉観光地になるポテンシャルは充分に持っています。

 

まったくの素人目線ではありますが、鬼怒川温泉がまた奇跡的な発展を遂げるために、20年先を目標にこんなアイデアはどうでしょう。

【源泉足湯の歴史館】

これは廃墟群の対策も兼ねています。

鬼怒川温泉発祥の地である「鬼怒川第一ホテル」は、何もしなくても20年もたずに崩壊すると心配しています。ロケーション的には説得力があるので、鬼怒川歴史館やミュージアムのようなリニューアルが面白いと思います。

もちろんそこでは足湯で温まりながら、330年前と同じ滝ノ湯源泉を体験します。

【全力で鬼怒川体験】

これはインバウンドの増加も狙ったものです。

とにかく自然が豊富な鬼怒川温泉ですが、そこに飛び込む体験は限られます。

多額の投資をしなくても、きれいな川の一部を安全な川遊び場とするだけで構わないと思います。極端ですが、子ども連れのファミリーは水場と日陰があれば半日は遊べます。

カヌーやラフティングは、せっかく日本に来たインバウンドにとって最高の思い出になるはずです。インバウンドにとっては、鬼怒川温泉で最高のディナーを食べることよりも、見渡す限りの山と水に囲まれて、全身で汗をかいた経験の方に高い価値を感じるのではないでしょうか。

このあたりは、しっかりエビデンスに基づいてニーズを掘り起こすことが必要ですが、全力で遊べる鬼怒川は大きな魅力になると感じます。

 

今回の記事では、鬼怒川温泉の発祥から現在までの流れを「あさやホテル」を中心にまとめてみました。

鬼怒川温泉で人気のホテルなので、利用する方も多いと思いますが、その長い歴史も感じてもらえると、より楽しめると思います。ぜひ参考にしてみてください。