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【中禅寺湖の歴史】中禅寺湖畔ボートハウスから150年の歩みを振り返る

日光を代表する観光地である中禅寺湖に、足を運んだことはあるでしょうか?

この中禅寺湖一帯は、マイカーも電車もない明治初期から外国人が訪れており、ある意味日本人よりも先に、この魅力と価値を発見した歴史を持っています。

 

 

この記事を読んでいただくことで、150年の歴史の流れを理解することができ、絶景スポットである「中禅寺湖畔ボートハウス」にも興味を持っていただけると思います。

ぜひ参考にしてみてください。

 

【明治初期】

外国人向けリゾートとして注目される

徳川家康が眠る日光東照宮があることで、江戸時代の日光はとても栄えていました。江戸から日光までは、五街道のひとつである日光街道が繋がり、参拝者や修行僧にとって日光は憧れの地となっていました。

しかし、明治維新によって徳川幕府の大きな援助がなくなってしまい、日光の街並みは一気に衰退してしまいます。

それでも海外から来た要人が次々と日光を訪れることによって、NIKKOの名は徐々に広がっていきます。この背景には

・江戸時代には聖地だった

・中禅寺湖の美しさと快適な気候

・日光の社寺の建築美

のように、たくさんの興味を惹くポイントがあったようです。

明治3年(1870年)イギリス公使ハリー・パークス夫婦が日光を訪れる

明治4年(1871年)金谷善一郎がヘボン博士を自宅に迎える

ヘボン式ローマ字で知られるヘボン博士が宿泊先に困っていた状況で、金谷善一郎が自宅に泊めたことから、日本初の外国人向けリゾートホテル、金谷ホテルの歴史がはじまりました。

またこの年に、日光市内に鈴木ホテルが開業しており、日本人だけでなく外国人も宿泊していたようです。

明治5年(1972年)イギリス公使館の書記官であったアーネスト・サトウが日光を訪れる

このアーネスト・サトウが、明治8年に「日光案内(A Guide to Nikko)」を出版したことで、日光が避暑地として知られるようになってきます。

外国人が国内を自由に移動するのは難しい時代ではありましたが、この「日光案内」と許可証を手にした外国人が日光に押し寄せることで、日光はそれに対応しながら開かれていきました。

明治6年(1873年)金谷カッテージ・インが開業

金谷善一郎が金谷カッテージ・インが開業したことで、外国人にとって日光の人気はますます高まっていきました。

明治11年(1878年)金谷カッテージ・インにイザベラ・バードが滞在する

イザベラ・バードは日光や金谷カッテージ・インを高く評価しており、明治13年に出版した「日本奥地紀行」においても紹介しています。

 

【明治中期】

日光はホテル戦争へ

明治20年(1887年)ウィリアム・カークードが中禅寺湖に別荘を建設

奥日光の中禅寺湖にまで外国人が訪れるようになり、明治23年の日光線開業に向けて日光は次のステージに動き出します。

明治21年(1888年)日光市内に日光ホテルが開業

明治25年(1892年)日光ホテルの近隣に新井ホテルが開業

明治26年(1893年)金谷ホテルの本館が開業

中禅寺湖には、日本の近代化に貢献したトーマス・グラバーの別荘が建設されました。

明治27年(1894年)中禅寺湖にレーキサイドホテルが開業

現在のザ・リッツ・カールトン日光が建つ場所に、外国人向けのホテルであるレーキサイドホテルが開業しました。いよいよ中禅寺湖のエリアも、外国人向けのリゾートとして発展していきます。

明治29年(1896年)アーネスト・サトウが中禅寺湖に別荘を建設

この別荘は、後に英国大使館の別荘となり、最初のゲストはイザベラ・バードだったようです。

日光線が開業して観光客が増加したことで、日光市内は急激に賑わってきました。外国から来ている要人は、その混雑を避けるように奥日光に進出して、中禅寺湖は国際的な避暑地としての性格が強まっていきます。ある意味、国内観光客によって押し出されるような形でした。

 

【明治後期~大正~昭和】

外国人向けリゾートからの移り変わり

大正15年(1926年)中禅寺湖に社交クラブ「東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部」が発足

現在となっては信じられませんが、明治中期以降の奥日光は、日本の政財界、外国人高官や紳士が集まり、一大社交場として栄えました。外国人の別荘40軒が建ち並び「夏の外交は日光に移る」と言われるようになります。

昭和5年(1930年)国際観光政策として14の宿泊施設が整備される

この14番目が日光観光ホテルであり、昭和15年に中禅寺湖を臨む場所に建てられました。金谷ホテルにより経営されますが、残念ながら、直後に太平洋戦争に突入してしまいます。

昭和21年(1946年)日光観光ホテルがGHQに接収される

金谷ホテル、日光観光ホテルはGHQに接収されて、駐留軍の休養施設として機能するようになります。目的は違いますが活用されたことで、生き残ったとも表現できます。この流れで、昭和22年にボートハウスが作られました。

昭和32年(1957年)GHQによる接収が解除

昭和40年(1965年)日光観光ホテルが中禅寺金谷ホテルとなる

これによって、名実ともに金谷ホテルのグループとなります。ボートハウスは、昭和41年から、金谷ボートハウスレストランとして営業しました。

日光全体での外国からの観光客は途絶えましたが、日本は高度成長期に入り、観光地に滞在する旅行スタイルが広がっていきます。

そのままバブル経済が訪れて、日本各地に一大観光地が築かれていきました。

 

【平成~令和】

中禅寺湖は新しいステージへ

平成4年(1992年)には、60億円かけて新築した中禅寺金谷ホテルの借金によって、金谷ホテルグループは債務超過に陥ります。

翌年の平成5年には、メインバンクである足利銀行が債権を放棄、地元の出資も募ってまた再出発することになりましたが、長い景気の低迷もあり、なかなかV字回復とはなりませんでした。

その後も、2011年には東日本大震災による風評被害、2016年には東武鉄道が金谷ホテルグループを買収して、現在に至っています。

中禅寺湖畔ボートハウスは金谷ホテルグループの手を離れ、2012年より日光自然博物館の管理下となり、無料開放されて現在に至っています。

いかがでしょうか。

明治維新以降の中禅寺湖の移り変わりについて、まとめてみました。

明治維新、さらに神仏分離による日光の社寺の混乱があった時代に、外国からの強い要望によって日光の開拓が進みました。

その後、日本人よりも外国人によって高く評価された中禅寺湖は、国際避暑地として国内における重要なリゾート地へと進化していきます。

太平洋戦争の終戦後、中禅寺湖は高度成長期を背景に、首都圏から半日で行ける観光地としての成長を続けますが、バブル経済の崩壊によって大きく揺れ動きました。

 

激動の150年でしたが、中禅寺湖畔ボートハウスから見える景色は、変わらず美しくて感動するレベルです。

ここから先は、素人目線の意見ではありますが、期待を込めて中禅寺湖の未来を考えてみたいと思います。

これからの中禅寺湖は、国内外から来る観光客に対して、この自然の美しさをストレスなく満喫してもらうことが重要ではないでしょうか。

私がもったいないと感じてしまうのは

・クレジット決済やQR決済が普及していない

・日光駅や東武日光駅から先の渋滞ガチャがひどい

・食事の種類が偏っており長期滞在に向かない

・大金を払ってでも体験したいアクティビティがない

といった、物理的にどうにかできるポイントばかりです。

個々のホテルや店の努力に頼りすぎじゃないかな?って思いますので、世界のモデルリゾートを設定して、徹底的にマネしても良いのではないかと考えます。

この美しい自然がある限り、ストレスさえゼロに近づけられれば、また日本の観光モデルが進化するのはないでしょうか。

 

参考にしていただけると幸いです。