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キャリア・短編小説・NIKKO・Fukushima

【リカセン】rewrite

2019年から短編小説を書いて応募するという趣味的活動をしていますが、おかげで書いて表現することについて本当に考えるようになり、仕事にも応用できるようになってきました。ありがたいことです。

講評会で指摘を受けたことを反映させて、応募済みの作品をリライトすることもありますが、今回は私が初めて書いた作品をブラッシュアップしています。宇都宮市民芸術祭で奨励賞を受賞した作品で「あれ、意外と書くのって楽しいかも?」と思ったきっかけになった大切な作品です。

 

 

気持ちを入れやすいという理由で一人称で書いた作品だったので、主人公の名前すらありませんでした。三人称にして文芸作品っぽい?今ならこういう風に書くけどなぁ…と思うところを詰め込んでアップデートしてみました。ご一読いただけると幸いです。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

先週から中学生は夏休みに入り、今年も夏期講習がはじまったところだ。教室の外は35℃の暑さらしい。生徒はこのビルに到着すると一目散に教室目がけて入ってくるが、明らかに勉強のためではなく、教室内が涼しいからだろう。朝から一日中エアコンが効いた教室なので、宮川にとっての最高気温は帰り道の25℃くらいになりそうだ。

宮川が教える学習塾は、いわゆる個別指導なので生徒と1対1、マンツーマンで教えている。今日も理科のテキストを開いて高校受験生と向き合う。

「いいね。そしたら、次いこうか」

と言い、宮川は時計を見る。チャイムまで残り15分ある。次の分野に少しだけ入っておこうと考えた。

「1年生で習った花のつくりを復習するよ。このへんは楽勝かな?」

と言って、テキストのまとめページをさっさと開いてあげる。15分しかないので、パッと終わりそうな分野をパッと終わらせる作戦だ。

「このアブラナの図を見てみよう。どういうつくりになっているか覚えているかな?外側から順番に答えてみて」

「えっと、なんだっけ…」

あやめは考えるような返事をする。理科を除けば成績優秀な生徒なので、本当に忘れているのかどうかわからないが、少しだけ間があってから答える。

「外側から、がく、花弁、おしべ、めしべ、その中にあるのが胚珠です」

「いいね、さすがだね。植物の分野は言葉の確認ばっかりなので、問題をどんどん解いて確認してみよう」

宮川はもう4年もこの学習塾で働き、いろいろなタイプの生徒に理科を教えている。今日だってあやめの隣に座ってそれなりの授業風景になってはいるが、あやめが自分で非常にわかりやすい参考書を買って読めば、充分勉強になるだろうと思っている。今どきはネットで神授業を見てもらった方が、自分の解説より勉強がはかどるんじゃないか…そんなことを宮川は本気で思っていた。

あやめはどんどん問題を解いている。宮川は今年の夏期講習で久々にあやめの担当になったが、受験生なので中1、中2の復習が中心だ。今日教えたばかりの内容を復習して、残りの15分をゆっくり過ごしてもいいのだが、宮川なりにちょっとは楽しい話題を振ってみようと考えた。あやめに問題を出してマル付けをして、答えが合っていたら「いいね」と言うだけの授業でいいのだろうか…できる生徒であればあるほど、毎度同じような思いに駆られる。

「少し時間が余ったね。どうしよっか?宿題を進めてもいいし、何か他にやっておきたいことはあるかな?」

「うん…別に…リカセン先生に任せます」

宮川はあやめと親子ほども歳が離れているので、15分も上手に時間つぶしができないので大変だ。宮川は理科専門で教える先生なので「リカセン先生」と呼ばれている。あやめだけでなく、生徒同士では呼び捨てのように「リカセン」と呼んでいるらしいが、教室では一応遠慮して先生を付け加えて呼んでいる。宮川は自分が馬鹿にされているのか、親しみで呼んでいるのかわからず、最初の頃はうまく返事ができなかったが、さすがに2年目くらいからはどうでもよくなった。

「なんで、おしべとめしべは離れているのか知ってる?」

どこまで話が膨らむかわからないが、宮川は聞いてみる。

「離れていた方が競争の原理が働くって聞いたことがあります」

「いいね、よく知ってるね」

結局「いいね」と言っているので一緒だ。

「花粉がめしべの柱頭について受粉するには、何が必要かな?」

「えっと…花粉が風で運ばれたり、虫の助けが必要です」

「いいね。虫もいろいろいるけど、蜜蜂についてもう少し考えてみよう」

あやめはテキストを片付けながら、どっちでもいいような顔をしている。

「もしも蜜蜂だけが地球上で絶滅してしまったら、どんなことが起きるかな?」

「え?何それ…」

と言いながらも、しばらく経ってあやめは考えはじめた。

「たぶん、ハチミツの値段が高くなるかな」

宮川が考えていた答えと全然違う。相変わらずあやめは面白い発想をすると感じた。

「いいね。確かにハチミツが貴重な食べ物になって、手に入らなくなるね。そしたら次にどうなるかな?」

「ニセのハチミツが出回ったり、どうにかしてハチミツそっくりの食べ物を開発する、みたいな」

あやめはハチミツから離れない。

「ハチミツが完全になくなったらどうしようか?」

「えっと…」

あやめは何もなくなった机を見ながら真剣に考えている。

「たぶん、蜜蜂のロボットができるんじゃないかな…」

宮川はこうして、今どきの中学生は発想が違うと思い知らされる。テキストに載ってない問題は、答えを想定する意味がない。確かに蜜蜂の小型ロボットが発明されて受粉を手伝えば、世界は何も変わらないのかもしれない。

「もし、ロボットの開発が間に合わないとすると、例えばこんなことが起きるんだ」

宮川は続ける。

「世界中の農産物の3分の1くらいは蜜蜂が受粉を助けてるって言われているよ。その受粉がまったくされなくなると、野菜だけではなくて家畜のエサも足りなくなるんだ。そうすると人類の滅亡につながるんじゃないか…という説もあるくらいなんだ。3年生の理科でも、これから食物連鎖の話が出てくるけれど、そうやっていろんな生き物同士が繋がっているって知っておくといいよ」

別にここまで言わなくても良かったのかもしれないが、最後は時間が足りなくなって、宮川は用意していた解説を一気に話して終わってしまった。 あやめは「へぇ、そうなんだぁ」と答えていたが、授業にどれくらい満足しているのか、宮川はまったくわからない。

別に理科の先生がいなくなったら、ロボットが教えてくれればいいや、そんなこと思っているのかな。人間同士の繋がりは食物連鎖よりも強いのだろうか。宮川は授業が終わって、授業の報告書を書きながらそんな心配をしていた。

次の週、また宮川があやめの夏期講習の担当になった。

宮川が教える学習塾は個別指導のスタイルなので、生徒の隣に座り、ほとんど家庭教師みたいな距離感で勉強を教えている。他の授業ブースとはパーテーションで仕切られているので、勉強に集中できる環境だが、10人くらいの講師や生徒の声がいつも混じり合っている。大学生の講師は人気があり、生徒と楽しそうな声で盛り上がっている。そんなとき淡々と教えている35歳の宮川は、目の前の生徒に申し訳ない気持ちになる。

「今日は光の分野を復習するよ。これも1年生で教わった内容だけど覚えてるかな?」

あやめの模試結果を確認したので、光の分野がものすごく苦手なことは把握している。だいたいどの生徒も模試で結果が悪かった教科を中心に、夏期講習のカリキュラムを選んで申し込む。

「このあいだの模試は全然でした…」

今回は宮川の想定通りに答えが返ってくる。

「光の性質って言えるかな?」

「光は明るいとか。あとは、なんだろ…」

あやめは考えてる。

「確かに、明るいね。ただ受験のことを考えると、光の性質はまっすぐに進む、これだけで充分なんだ」

「でも、光ってレンズで曲がったりするからよくわかんない」

今日はずいぶん宮川が思っていた通りに確認が進む。いつもこうなら教えるのも楽しいだろうが、ほとんどの場合はそうならない。そのたびに宮川は、自分は教える仕事が向いてないのではないか、という自問自答を4年間繰り返している。

「いいところに気がついたね。光はまっすぐにしか進まないけど、レンズのせいで曲がってしまうんだ。つまりね、光の問題ってレンズの仕組みの問題だってわかれば楽勝だよ」

宮川のなかでは決め台詞が決まる瞬間なのだが、生徒はいつも無反応だ。あやめは真剣に聞いてくれるだけありがたい。

「レンズにぶつかった光は、レンズの向こうにある焦点に向かって曲がるようにできているんだ。レンズは焦点のために作っている、とも言えるね」

「焦点が目に見えるといいんだけどなぁ」

「確かに見えるといいよね」

いい視点だ。本当に見えたらレンズの働きはわかりやすい。

「レンズは窓ガラスと違ってふくらんでるね。光が焦点に向かって曲がることが大事なんだ。レンズの上側でぶつかった光は焦点を通ってそのまま真っ直ぐ下に向かっていく。だから、レンズの奥にあるスクリーンでは実像が上下逆さまに映るんだ」

「そっかぁ、なんとなくわかってきた」

「いいね。例えば、先生の眼球の奥、瞳の奥、の方が正しいかな。瞳の奥にはあやめさんは上下逆さまに映っているんだよ。瞳がレンズの働きをしているからね」

「リカセン先生には、あやめが上下逆さまに見えるんですか?」

「まさか。瞳の奥の神経がもう1回正しい向きに直してるっていうイメージかな。実はスマホのカメラとかも同じ仕組みだよ。レンズは拡大したり光を集めるために必要なんだけど、やっぱり上下左右が反対になっているから機械が直しているんだ」

このままカメラの仕組みを積極的に話してもいいのだが、宮川にはそうしない理由がある。

詳しく話すとさすがに中学生は退屈するんじゃないかと思っていることもあるが、それよりも宮川の本職が写真屋であることが、ばれないようにするためだ。写真屋が休みの水曜日は塾講師としてアルバイトをしているが、本業は写真屋で勤めている。

2年前のことだ。宮川が写真屋で働きながら塾講師もしていることを生徒に話したら「写真屋って何ですか?」と聞かれて、ちゃんと説明できなかった出来事があった。中学生にとって写真屋は、未知の存在らしい。利用した記憶があったとしても、仮に「スマホのアルバムじゃダメなんですか?」と聞かれたら、ちゃんと説明できる自信がなかった。

自分は必要とされている仕事をしているんだろうか…これは宮川が抱える密かな迷いだった。スマホの「ついで機能」であるカメラ撮影は、残念ながら写真に関するプロフェッショナルの存在感を底まで落とす威力があった。その写真屋は、勤めているといっても、父親の自営業を手伝っているだけなので宮川にしてみれば悩む必要もないのだろうが。 

「だんだんわかってきたね。ロウソクの場所が変わるとスクリーンの実像がどのように変わっていくのか考えてみよう」

あやめは問題を解きながら、なぜ実像は上下逆さまになるのか、大きさが変化するのかわかってきたように見える。

カメラのレンズの奥では、風景が上下逆さまに映っている。昔も今も基本的にカメラは同じ仕組みだ。昼間の写真屋では客の家族写真を撮ることもあるが、スマホの写真に対抗してそんなにきれいに撮る必要があるのか、宮川としてはやっぱり自信がない。

デジカメを使って安く撮影できて、衣装のレンタルもできる今風の撮影スタジオが増えてきた。年々客の数が減っているのが実感できる。宮川は、父がこの先の経営をどうしようと思っているのか気にしていた。息子でなかったらとっくに辞めていただろう。将来の心配もあってアルバイトで塾講師をはじめていた。

「リカセン先生はカメラとか好きなの?」

問題を解きながら急にあやめが聞いてきた。

「別に好きではないかな…」

とっさに答えてしまった。塾の生徒に「先生は昼間は何やっているんですか?」なんて聞かれたことは2年前の一件以来まったくない。昼間はやりたい仕事をやっているんだよ、なんて答えられたらいいのだが、そんな大人はどれだけいるのだろうか…外ではセミが一所懸命鳴いている。宮川はそんなセミの頑張りに複雑な気持ちになる。

また1週間経ち、今日はお盆前の最後の夏期講習の授業だ。生徒は、高校見学や部活最後の大会で毎日忙しく、夏期講習に来るだけで疲れて機嫌が悪そうな生徒もちらほら見える。あやめも機嫌悪いまではいかないが、頬杖をついているときは「疲れているのかな…」と宮川は若干心配してしまう。 

「音の大きさと高さは何によって決まるか覚えているかな?」

オシロスコープという音の様子を表すグラフを一緒に見ながら答えを待ってみる。あやめは別に急ぐこともなくマイペースで考えている。

「音の大きさは振幅で、高さは振動数」

「いいね。音が大きくなることと高さがキーンって高くなることは、まったく違うから混乱しないようにしよう」

あやめは5教科のうち理科だけが平均くらいの点数で、他の4教科はあまり心配のない成績だ。国語や数学の成績が良くて、理科だけ苦手な生徒はやればもっと伸びるはず、と塾長も保護者も考えているだろうから、宮川は勝手にプレッシャーを感じてしまう。全然できない生徒の方が、実はやってみれば簡単に点数が伸びるので安心して授業に臨める。

「音の性質は大丈夫そうだね。少し飛ばして受験によく出るカミナリの問題を復習してみよう」

遠くでカミナリが光って、何秒後に音が鳴ったから何キロ離れているという問題だ。あやめは計算問題をスイスイ解いている。

「よし、いいね。答えも合っているよ。音が進む速さはだいたい秒速340メートルくらいって覚えていたかな。自信持って答えを書けるから覚えておくといいよ」

「リカセン先生、秒速340メートルってことは3秒で1キロくらい進むってことですか?」

「そうだね。カミナリが光って3秒でゴロゴロって聞こえたら、1キロしか離れてないから結構危ないね」

「もし、1キロ離れたところからカメラで撮るにはどうすればいいんですか?」

「えっ、どういうこと?」

宮川はなんでカメラの話になったのかびっくりした。先週の続きだろうか。

「1キロ離れていたら、ハイチーズ!ってシャッター押しても、声が聞こえる前にバシャって撮られてしまうんですよね?」

「本当だね。3秒待ってからシャッターを押さないとポーズが決まらないね」

「へぇ、面白いね」

宮川の解説が面白いわけではなく、音の性質が面白いようだ。あやめは残りの問題を解いている。いつも宮川は、写真屋で10mメートル前後離れて客を撮影している。ハイチーズ!の声は0.03秒でお客さんに届くから良かった。あやめには言わないが、そんなことをひとりで考えていた。

 

お盆が終わって、運動部の生徒は部活引退だ。朝から夕方まで夏期講習の授業が可能になるので、カリキュラム上はここからが本番なのだが、生徒は部活ロスだったり、夏期講習に飽きはじめて、なかなか雰囲気は本番にならない。

「そしたら、次いこうか」

宮川が中学生のときには、部活ロスみたいな感覚を味わっていないので、部活で燃え尽きた生徒のことをうらやましいと思っていた。そして、気の抜けた生徒をどう励ましていいのかわからないので、正直困ることが多い。あやめがそういうタイプの生徒でなくて安心していた。今日は大地の分野だが、生徒には圧倒的に人気がない。宮川にとっても大地の分野は地味で存在感がないし、結局言葉を覚えるだけなので、どう頑張っても面白さがないと思っている。

「知っている火成岩を言ってみようか」

宮川は、我ながらどうでもいい質問をしていると思った。火成岩6種類とも言えたら確かに点数は取れるかもしれないが、宮川とっては仕事して教える以外に使い道がない知識だ。

「カコウ岩、ゲンブ岩。あとはリュウ、何だっけ。ハンレイ岩、アンザン岩」

「ひとつ足りないんじゃないかな?」

こういうパターンは本当に多い。単語をひとつずつ覚えている生徒が理科を嫌いでもしょうがないと思う。繋がりでまとめて覚えればもう少し簡単になる。

「まとめページを見ながらでいいから、今日はこの6種類の名前を何とか覚えよう」

あやめなりに自分のノートに書き写して覚えようとしている。頬杖をつくのは部活で疲れているからだと思っていたが、今日もついている。

カコウ岩、センリョク岩、ハンレイ岩、リュウモン岩、アンザン岩、ゲンブ岩。

お経のようにあやめは小さい声で唱えている。

「まずは、それぞれの名前を覚えよう。それからどのようにつくられるのか、見た目はどうなのかを合わせて覚えるようにしていこう」

宮川は淡々と授業を進める。道端を歩いていて「あっ、火成岩だ」なんてことはまず起きない。火成岩は深成岩3種類と火山岩3種類に分類されるわけだが、興味のない生徒にとってはお経よりもどうでもいい内容だ。

カコウ岩、センリョク岩、ハンレイ岩、リュウモン岩、アンザン岩、ゲンブ岩。

カコウ岩、センリョク岩、ハンレイ岩、リュウモン岩、アンザン岩、ゲンブ岩。

あやめは相変わらず唱えている。

「ひとつひとつの岩石の名前を思い出したと思うから、繋げて覚えちゃおう」

あやめは覚えることに集中している様子で、宮川の方を見ようとしない。

「深成岩がカコウ岩、センリョク岩、ハンレイ岩の3種類なのでシン、カ、セン、ハを繋げてシンカンセンハ、だ」

あやめが頬杖をやめて、こっちを見ている。

「火山岩がリュウモン岩、アンザン岩、ゲンブ岩の3種類なのでカ、リ、ア、ゲを繋げてカリアゲ、だ。新幹線はカリアゲ、これで覚えよう」

「何それ!」

あやめは爆笑している。覚え方としては有名だが、初めて聞いたのだろう。とにかく雄二としては覚えてくれればどうでも構わない。

「カリアゲって何?」

「えっ、そっち?」

あやめはまだ笑っている。

まさか語呂合わせよりも、カリアゲという言葉だけに反応しているとは思っていなかった。

「カリアゲっていうのは、男子の髪型で。えっと…」

考えてみれば、カリアゲの男子なんていない。女子中学生が知らなくても当然だ。しょうがないので、宮川は自分の後頭部の髪を上に持ち上げてみた。

「こんな髪型だよ」

「そんなヤツいないよ」

あやめは笑いすぎて顔が赤くなってきた。

新幹線がカリアゲになるっていうところがインパクトの覚え方なのに、おそらくあやめにとっては新幹線でも先生でも何でもいいのだろう。宮川にとっては、カリアゲでこんなに盛り上がるなんて想定外だった。あやめに限らず、生徒がこんなに笑っている姿は初めて見た気がした。なんか宮川もおかしくなって、違う意味で火成岩なんてどうでもいいと思ってしまった。

夏休みは終盤になり、セミの鳴き声が少し減った気がする。毎年こうやっていつの間にか聞こえなくなる。

「そしたら、次いこうか」

今日は地震の話だ。今回の授業で1年生の範囲はだいたい復習が終わるだろう。

「音の分野でカミナリの速さを求めてみたけど、まだ覚えてる?」

「だいたい秒速340メートル」

「いいね。今日は地震の伝わる速さとか震源地までの距離が求められるか復習しよう」

この問題もグラフの読み取りや計算が多いのだが、数学が得意なあやめは解説不要で解いている。理科の大地の分野で扱っているが、実際は数学で出題されてもおかしくない内容だ。今日の自分はいなくてもいいのかもしれない、そんなことを宮川は考えていた。

「こうやって問題を解いてみると、初期微動で地震に反応するってことがとても大事だってわかるよね」

「うん。地震って揺れている間は怖いんだけど、止まってからワクワクするっていうか友達と盛り上がったかな」

「そっかぁ、先生は苦手かな。先生のお父さんは青森県出身で、津波てんでんこの話を聞かされていたよ。津波てんでんこって知ってるかな?」

「つなみてんでんこ?」

首をかしげて考えている。

「また語呂合わせですか?」

若干笑いながらあやめが聞いてくる。

「津波、天気、電気。あとは、んー、こたつ」

真夏にこたつは謎だけど、相変わらず面白い発想だと雄二は思った。

「語呂合わせではなくて、東北の方言らしいよ」

実際、宮川も「てんでんこ」なんて言葉を使ったことはないが意味は聞かされていた。あまり詳しく知っているわけではない。宮川の父が小さかった頃に三陸沖地震があったらしく、そのときの教訓らしい。東日本大震災でも改めて話題になっていたので、東北ではかなり知られた方言なのだろう。

「てんでんこというのは、てんでばらばら、各自一目散に、ということらしいんだ」

想定以上に計算問題が早く終わりそうなので、多少脱線しても大丈夫だろう。宮川は続ける。

「つまり、津波がきたら、ひとりひとり一目散に逃げなさい、ということだね」

「そんなの当たり前じゃないんですか?」

「そりゃそうなんだけど、昔から何回も被害を受けてきた地方の教訓みたいだよ。あやめさんがもし海の近くに住んでいて、津波が来るぞって聞いたらどうする?」

理科の質問としてはかなり非現実的だ。津波をイメージするのは難しいし、ここは栃木県なので、そもそも津波について話題になることもない。

「津波が来るぞって聞いてもウソでしょ?と思っちゃうかも…」

「そうなんだよ。ウソでしょ?って思って1回遅れちゃう。次にどうするかな?」

「どうしようって周りの人たちを見ちゃうかも…」

「そうだよね。どうしようと思ってまた遅れる。さらに大人だったら誰かを助けなきゃと思って、逃げられない人を探したりするだろうね。これで相当遅れちゃう」

「津波が来ちゃう…」

「そう。そうやって本当は助かる命がたくさん失われたらしいんだ」

「そうなんだ…」

あやめは真剣な目で聞いている。

「海の近くに住んでいる人たちは、これまでの悲劇を教訓に、津波てんでんこという合言葉を考えたって話らしいよ」

あやめは完全に手を止めている。

「別に海じゃなくても、本当に緊急事態のときにはみんなが一目散に逃げていたら、それを見た人も一緒になって、とにかく一目散に逃げるよね。みんなの第一歩が早くなるんだ。他にも津波てんでんこって大事な考え方があるんだ」

中学3年生にはピンとこない話だろうと宮川は思った。あやめは珍しく一言も言わない。

「お互いが信頼関係で結ばれていなかったら、この津波てんでんこは成り立たないんだ。あいつも逃げているはずだから大丈夫だ、と自分の身を守ることだけを考えればよくなるね。実はみんながみんな、まずは自分が助かることに集中した方が、結果的に助かる人数は多いって聞いたことがあるよ」

あやめは何かを想像しているんだろう。自分の周りのことかもしれないし、東日本大震災のニュースを思い出しているのかもしれない。小学3、4年生の頃のはずだ。

「もし自分の命だけが助かったとしても、そのときの心のダメージが少なくなることもあるらしいよ。お互い助け合うことが前提だとどうなるかな。自分だけが助かってしまったら、なんで助けてあげられなかったんだろうって何年も後悔することになるんだ」

本当はもう少し話の続きがあったのだが、あやめがまったく喋らなくなってしまったので宮川は話を切り上げた。こんなに津波の話を真正面から聞いてくれるとは思っていなかった。

宮川は、あやめがバレー部だったことを思い出し「バレーはいつからはじめたの?」と聞いてみた。

空気を変えようとしているのがバレバレでも、宮川は話題を変えないと収拾がつかないような気がしていた。

「中学校に入ってからだよ」

「そうなんだ。高校でもやるつもり?」

「リカセン先生は、中学生のとき何の部活だったの?」

あやめが質問に質問で返してくるなんて珍しくて、宮川はちょっと変な間をつくってしまった。嘘を言うわけにはいかなかった。

「写真部…」

「えぇ、似合ってる!やばい」

あやめは笑顔になった。似合ってると言われても、意外と言われても宮川はうれしくなかったが、あやめが笑顔になったのでほっとした。

「なんで写真部だったの?」

「おやじがカメラ関係の仕事をしているから、昔からカメラで遊んでいたんだ」

カメラ関係って何だろう…と宮川は思いながら続けた。

「でもさ、最近のスマホのカメラもすごいけど、昔ながらのカメラもいいよ。プロのカメラマンが撮った写真って見たことあるかな。色とか奥行きが全然違うんだよ」

「七五三とか…卒業写真とか?」

あやめにとっては、アルバムに挟まっている写真だ。宮川は写真の話をすることに多少の違和感を覚えながらも、なぜか自分の過去を話すことに開放感のような感覚があった。

「そうそう、先生が見ればスマホで撮った写真か、プロがバズーカみたいなカメラで撮った写真か、一発でわかるよ」

宮川はテキストを丸めて、望遠カメラで撮る構えをしてみせる。

「へぇ、先生すごいね」

女子中学生はこんなことで驚くのか。宮川はびっくりした。

「先生は…あれだよ…実はね、昼間は写真屋さんでカメラマンをしているんだ」

なんでこんなことを言ったのかわからなかった。宮川は聞かれてもいないのに話したのは初めてだった。

「へぇ、リカセン先生頑張ってよ。昼間はカメセン先生だね」

どういう思考回路なのかよくわからない返しに、宮川はどうしていいかわからなかったが、馬鹿にしている様子はなくうれしかった。

「あやめさんもあと半年、受験まで頑張りなよ」

「カメセン先生もてんでんこだよ」

使い方が違うような気もしたが、宮川は思わず声を出して笑ってしまった。写真屋の仕事、塾講師の仕事って中学生の目から見たらどんな仕事なのだろう。宮川は自分の仕事は大した仕事ではない、と勝手に決めていたけど、仕事の種類ではないのかもしれない、自分次第なんじゃないか…そんなことを思いはじめた。気温20度くらいの涼しい帰り道、ずっと考えていた。

 

今日は日曜日なので学習塾は休みだ。

「それでは、次はこちらに移動してください」

宮川写真館に4人家族が来ている。

姉の10歳の誕生日なので、2分の1成人式の家族写真を撮りに来ていた。困ったのは5歳の弟だ。窓の外を見たり、何かと「おやつ」と言ったり、早く帰りたいことは明らかだ。両親は姉のポーズで盛り上がっている。弟もちょっとしたフォーマルを着ているので暑いらしい。エアコンは効いているが、堅苦しい雰囲気も居心地をさらに悪くしているのだろう。

宮川の父は、指名を受けて町内イベントに駆り出されており、今日はひとりで写真館を担当している。姉の単独写真はスムーズに撮影が終わり、あとは家族4人そろっての写真を2パターン撮影して終了だ。スクリーンの前に移動してもらい、その10メートル手前で宮川はカメラの準備をする。弟はまったく笑顔がない。

宮川はこういうときは、家族の流れに任せることにしていた。弟の笑顔の写真が欲しいようなら、両親がどうにか機嫌をとるだろうし、別に気にしないなら強行突破で撮ってしまう家族もいる。宮川の父もだいたいそのような対応をしていた。どちらにしろ、写真館自体が忙しくないので、宮川はのんびりと準備がいろいろあるフリをして様子を見ている。

とりあえず4人がカメラの前に並んだ。姉も若干飽きているようだが、弟のノリが悪いことは気にならないらしい。

「はい、では1枚撮ってみましょう。ハイチーズ!」

この1枚、これは今日しか撮れない1枚だ。

本当は弟に笑ってほしいが。

「もう1枚いきますよ。ハイチーズ!」

写真としては悪くない仕上がりになるだろう。ただ宮川は、どうしても突っ立っているだけの弟が気になった。10年後、20年後に今日の写真を見たときに、姉はどう感じるだろうか。弟はどうだろうか。家族っていいなぁ、と感じる可能性はあるけれど、写真館の写真っていいなぁ、となるだろうか。宮川は2分の1成人式よりもそんなことの方が気になってきた。

「どうだい、お兄ちゃん。ニッコリいってみよう」

試しに言ってみた。誰かになりきっている感じで言ったが、スムーズに言えた気がした。弟が微妙にも愛想笑いをしてくれた。

「夏休みは何が楽しかったのかな?」

宮川は話を振ってみる。

「新幹線」

「へぇ。新幹線はカッコよかったかい?」

「うん」

弟の声が大きくなってきた。

「どこにおでかけしたの?」

母は弟をずっと見ている。行き先をちゃんと言えるかどうか、内心ハラハラしているように見える。

「わかんない」

即答だ。父と姉は笑っている。どこに行ったかよりも、新幹線の方が楽しかったらしい。宮川も笑ってしまった。弟は慣れない環境に、どうしていいのかわからなかったのだろう。喋ってみればとてもいい表情じゃないか。結局どこに行ったのかな?

まぁでも、どこでもいいや。

「いいこと教えてあげるよ」

宮川は横を向いて、後ろの髪を持ち上げた。

「新幹線はカリアゲ!」

弟はよくわからない表情を浮かべてから、宮川につられて笑った。