栃木県日光市にある日光東照宮が、日本を代表する観光地となった3つの理由を紹介します。
日光は国際的な避暑地として栄えた歴史があり、神を近くに感じられる山々、ヨーロッパのような風景が広がる中禅寺湖、宗教との深い歴史的な繋がりなど、数多くの魅力に溢れています。
今回の記事では、日光について
・日光の神々と仏教の繋がり
・各時代における日光の存在
・徳川家康はなぜ日光を選んだのか?
・日光東照宮がすごい3つの理由
を解説します。
日光東照宮は、豪華絢爛な建物ばかりが注目されがちですが、人気観光地となった3つの理由を考察します。日光東照宮を訪れる際により深く理解して、楽しんでもらえると思います。
かなり簡易的に説明していますので、細かなニュアンスが異なる場合もあると思いますが、ご了承ください。
日光の神々と仏教の繋がり
日光の歴史は、太古の時代から山々を崇拝していた慣習からはじまります。
日本では、高く連なっている山々には神が宿っていると信じられてきました。日光の山々は文明が発達する前から信仰の対象となり、6世紀の半ばに中国から渡ってきた仏教とも深く繋がっていきます。
日本では1人の神を信仰する考え方はなく、日光においては、遠くに広がる山々にたくさんの神がいて、さらに仏も人々を見守っているという考え方が定着しました。
この流れから現在も、神を祭る神社である「日光東照宮」と同じ敷地内に「日光二荒山神社」も建っていますし、仏(仏像)を祭る寺である「輪王寺」も建っています。
・日光東照宮→神を祭る神社
・日光二荒山神社→神を祭る神社
・輪王寺→仏を祭る寺
という関係です。この後に解説しますが、日光東照宮で祭っている御神体が徳川家康であることが大きな特徴です。
世界遺産である「日光二社一寺」は、これら日光東照宮、日光二荒山神社、輪王寺が密接に繋がっているエリア全体を指しています。
西暦700年代の日光では、宗教的に大きな出来事が2つ起きました。
ひとつは、仏教の修行をしていた「勝道上人(しょうどうしょうにん)」が、766年に日光二荒山神社(当時は紫雲立寺)を建てたことです。男体山の神を祭る祠を建てたことが、すべてのはじまりでした。
もうひとつは、西暦782年に同じく「勝道上人」が、その男体山の登頂に成功したことです。
男体山(当時は二荒山)は、日光でもっとも標高が高い山であり、3回目の挑戦で登頂しました。男体山の登頂に成功した勝道上人は、男体山の麓、中禅寺湖の周辺に神宮寺を建てました。
神宮寺という名称が、その当時から神と仏を一緒に祭っていたことを示していますが、この神宮寺が、その後の二荒山神社中宮祠や中禅寺に繋がっています。
二荒山神社中宮祠は、日光二荒山神社と男体山の山頂を繋ぐ役割、中禅寺は世界遺産である輪王寺の別院の役割です。
こうして日光は、神と仏に祈りを捧げる聖地として、日本の宗教史における重要な役割を担うことになります。
勝道上人が建てた日光二荒山神社、実は面積が3400ha(約5.8km×5.8km)もあり、男体山をはじめ中禅寺湖周辺の山々、華厳ノ滝やいろは坂まで含まれる広大な神社です。中禅寺湖に向かう途中から、いつの間にか日光二荒山神社に足を踏み入れていることになります。
ちなみに、勝道上人が男体山を目指す際に、川の流れが激しく渡れないことがありました。その時に、神や仏に祈ったことで大きなヘビが橋を渡しました。この橋が「神橋」で、世界遺産「日光二社一寺」の入口となる場所に再現されています。
各時代における日光の存在
782年に勝道上人が男体山に登頂して、日光は日本を代表する聖地となりました。
鎌倉時代には、厳しい修行をする場として栄えており、わかりやすく表現すると、修行をする身にとって日光は、一度は挑戦したい憧れの地であったと察することができます。
そうして日光の参拝者が増え続けていきましたが、日本全国を初めて統一した豊臣秀吉によって没収、一時期衰退しました。
その後、江戸幕府を開いた徳川家康の側近であった天海によって、日光東照宮が建てられます。
徳川家康の死後にその遺体は、一時は久能山に納められましたが、その後に日光に移ります。これは徳川家康の遺言によるものです。その遺言は
「遺体は久能山に納め、その後に日光に移すように。そうすれば日本全土の平和の守り神となる」
といった内容でした。このことからも、日光が古くから特別な存在であったことがわかります。
修行の場として注目されていた日光は、日光東照宮で徳川家康が神として祭られることによって、また新しい役割と価値が生まれました。
徳川家康はなぜ日光を選んだのか?
日本は12世紀末に、貴族社会から武家社会に大きく政治体制が変化しました。
武士による政治支配の時代が続き、特に15世紀末から16世紀末にかけては「戦国時代」と呼ばれる、日本全国の武士が領土を争う時代がありました。豊臣秀吉による日本全国の統一もこの時代です。
この400年前後も続いた混乱の時代を治めたのが、日光に眠る徳川家康です。
家康は、豊臣秀吉の死後に江戸幕府を樹立して、その後260年もの間、徳川家による平和で安定した体制を構築しました。外交を制限して、平和な時代が長く続いたことで、独特の文化も生まれています。
武士による激動の時代を生き抜いて、徳川家康が最後にやっと築いた江戸幕府です。そこには家康の平和に対する強い願いと、それを実現するための強力な体制が完成しました。
200年以上にわたり、国内戦争や国外戦争がなかったことは、世界史で考えても珍しい時代ではないでしょうか。
最初に家康の遺言に沿って作られた日光東照宮は小規模でしたが、家康を敬っていた江戸幕府3代目、徳川家光によって豪華絢爛な姿となりました。
有名な陽明門の装飾には、平和へのたくさんのメッセージが込められています。
日光東照宮がすごい3つの理由
日光東照宮が、日本有数の観光地となった理由を3つにまとめると
・日光の神々と仏教が合体した聖地として栄えてきた
・勝道上人によって参拝や修行の憧れの地となった
・平和を実現した徳川家康が神として祭られた
この3つの歴史によって、日本全国のどの神社とも異なる存在感を示しています。
ぜひ日光に遊びに行く際には、これらの3つの歴史を思い出して体験してもらえると、より楽しい旅行になるでしょう。
最後までお付き合い、ありがとうございました。