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キャリア・短編小説・NIKKO・Fukushima

【たしかにママだった】

第77回栃木県芸術祭の創作部門(短編小説)で、準文芸賞をいただいた作品です。

AIの進化、少子高齢化、そして「人生において、人は様々な役割を担うことになる」というキャリア的な視点で、新しいチャレンジをしてみましたが、評価をいただけたことは多少の自信になっています。

女性視点、そして振り返り形式の語り口調で、子育て論を物語にしてみました。

 

ぜひご一読ください。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

アイちゃんとの最初の思い出は、去年のこれくらいの時期かな。

あの頃もまだ雨降りばかりで、「早く梅雨が明けないかなぁ」って言ってたっけ。その頃のパパとママは、お互い目の前の仕事が忙しくて、でもすごく楽しくて、アイちゃんにはちょっと想像が難しいかもしれないけど、パパもママもバリバリ稼いで、やりたいことをやるって感じだったな。

パパと結婚して3年間、子どもを授かることもなくて、今思えば本当に自由だった。パパは付き合いで始めたゴルフの腕前がどんどん上がって、後輩をゴルフに誘って教えるくらいになったんだって。いつも週末の天気予報を気にして、晴れたらゴルフ、雨だったらママと買い物、ちょっとひどくない?

もちろん機械設計の仕事も真面目にやって、プロジェクトリーダーを任されることも増えていたと思う。すごいでしょ。パパってあんな感じだけど、設計に関しては誰にも負けたくないってくらいの執念で没頭していたなぁ。

「新製品の設計は、まだまだAIには無理だよ」っていつも言っていたよ。

パパはAIに負けたくないって頑張っていて、ママはAIを使っていかに楽に仕事するかを考えていて、こんなパパとママだからうまくいっていたんだと思うんだ。

ママは、AIを活用した経理スペシャリストの資格を目指して、頑張って勉強していたんだ。そんなママって想像できる?経理っていうのは、会社のお金を計算したりするんだけど、今では勝手にAIがやってくれるので随分と楽になったの。

「どうしても何円合わない」って言いながら、請求書をひっくり返してバタバタ探していた時代が懐かしいなぁ。

知らない言葉もいっぱい使っちゃってごめん。とりあえず、このまま続けさせてね。

 

そんな毎日がいつまでも続くと思っていた1年前に、ママはいきなり会社で呼び出されたの。

直属の上司だった経理部長に加えて、ほとんど話したことがない人事部長、2人が会議室に座って待っていたんだ。全然怖い雰囲気ではなくて、2人の顔があまりに嬉しそうだったから、また何か新しい仕事をママに押し付けようと企んでいるのかな、そう思って、私は忙しそうな雰囲気を出しながら部屋に入ったの。

人事部長は開口一番「平井さつきさん、忙しいところすまないね。実は今回、あなたはARプログラムに選ばれました」

と言ってきて、最初は何のことだかわからなかったんだ。ママじゃなくて人違いじゃないかな、と思って「何のことですか?」と聞いたら、人事部長は「やっぱりね」と答えて、その後は経理部長が説明して思い出させてくれたんだ。

 

さかのぼること5年前、日本の人口はついに1億人を割ってしまったんだ。少子化対策の切り札としてAR法が成立したんだよ。AR法を簡単に説明すると、結婚して3年間、子どもができない夫婦に対して、抽選で赤ちゃんロボットを貸し出して子育てを体験させるっていうものだよ。

この赤ちゃんロボット法、通称AR法が成立した頃は、パパとまだ結婚していたなかったし、結婚して3年もしたら、自然と子どもができると思っていた。もしできなくても、まさかママが選ばれることもないだろうと思っていた。だからすっかり忘れていたんだ。

経理部長の説明を聞いて、血の気が引くって感覚を味わったのを覚えている。次の瞬間には笑ってしまったんだ。頭が混乱しすぎて整理できなくなっちゃうと、人って笑っちゃうみたい。ママだけかな。どんな顔で笑っていたのか、アイちゃんに見せたかったよ。

その先については、ほとんど覚えていないんだ。笑顔の経理部長は、とにかく仕事の引き継ぎは心配するな、を繰り返して、人事部長はディスプレイに映し出された映像を見せながら、育児休暇の手続きについて説明していたような気がする。

「産休がなくて、いきなり育休なんですね」

「そりゃそうだよ」

こんなしょうもない確認をしていたんじゃないかな。

AR法は、確実に実行に移して、しかも社内で本人の不利益が決して起きないように、その時ばかりは、厚生労働省が会社の人事部門に関わるようになるんだって。パパもママも、強制的に半年間の育児休暇をもらうことになるから、その間の給料は保障されるんだけど、赤ちゃんロボットのお世話に専念しなければならない、そんなプログラムなんだ。

「育児休暇が取れなくて、赤ちゃんロボットどころではありません」

そんな言い訳をさせないためなんだって。厚生労働省が勤める会社を管理して、会社が赤ちゃんロボットによる育児休暇を管理するので、抽選によって選ばれる夫婦は逃げ出すことができないんだよ。すごい仕組みだよね。

1週間後には育児休暇に入ることになったから、それはもう大変なんてもんじゃない。その日からとにかく仕事を同僚にバトンタッチして、デスクの片付けをしなければならなかったんだ。

「赤ちゃんロボットの育児休暇に入るので」と説明するのは恥ずかしかったから、「AR法のせいでごめんね」なんて言っていた気がする。そういえば、こっそり仕事の一部を持ち帰って、育児休暇中にやっておこうと考えていたけど、経理部長に見つかって怒られちゃった。

そういえばね、仕事の引き継ぎをしていたら

「身体に気をつけて、お世話を頑張ってね」

こんな風に、優しく声をかけてくれる同僚もいれば

「さっさと子どもをつくらない罰ゲームだ」

そんなひどい言葉をかけてくる先輩もいたな。AR法の育児休暇に入ることになって、いろんな人達の本性が見えた気がするよ。

家に帰ったら、パパはすごく怒っていた。せっかく新商品のプロジェクトに取り組むところだったのに、同僚に譲るなんて信じられない、ゴルフも全部キャンセル、半年も休んだら、設計よりもゴルフの腕が鈍ってしまうよ。そんなことを心配していた気がするな。

その言葉を聞いて、ママも思い出したんだ。

経理スペシャリストの受験どうしよう。AR法で育児休暇を消化している間は、資格取得や遠出は禁止されているんだよ。実際の育児はそうだから、という意味らしいけど、パパが思わず言った「アホらしい」という言葉もちょっと納得しちゃった。

聞いたことない言葉ばかりだよね。赤ちゃんヘルパーは「アイちゃんはどんな言葉でもちゃんと聞いていますよ」って言っていたけど、本当なの?

そういえば、ママが描いた似顔絵を見せるとうれしそうだったね。

「これだーれだ?」

アイちゃんは答えてくれなかったけど、ママの絵が上手でびっくりしていたのかな?

「どうにかならないか、明日の仕事終わりに市役所に行こう」

AR法に関する相談窓口は、市役所に設けることになっていたから、次の日の夕方にパパと行ったんだ。

おかしな話に聞こえるかもしれないけど、赤ちゃんロボットに関する相談や質問は、市役所で対面で受け付けることになっていたんだ。AR法が成立する前後では、問い合わせメールやSNSでいろんな意見がものすごい集まったんだって。ほとんどが抗議だったらしいけど、その様子を見た厚生労働省が、窓口は各地域の市役所にして丁寧に説明する、と決めたことで落ち着いたみたい。

こうやって面倒な仕組みにしてみたら、自分には直接関係ないなら、わざわざ足を運んで抗議する人はいないんだって。みんな何かを言いたいだけなんだね。

 

そんなわけで、パパと市役所に行ったら同じくらいの歳の夫婦が3組くらい並んでいたんだ。一目でARプログラムに選ばれた夫婦だってわかったよ。並んで待っていたら、だいたい私達が聞きたい内容と一緒だった。

「なんで今なんですか?」

「少し時期をずらせませんか?」

「ARプログラムに興味がある夫婦に譲りたい」

なかには怒っている人もいたけど、結局は「ARプログラムから逃げたい」ってことだよね。アイちゃんも察していると思うけど、私達も実はそうだった。窓口の人も大変そうだったなぁ。

「決まったことなので、こればかりはどうしようもありません」

「あなた達の不利益になるようなことは起きません」

そればかり繰り返していた気がする。そんな様子を見ていて、パパが「やっぱり帰ろう」って言ってくれたんだ。ママもそう思っていたから「そうね」だけ言って、何も言わずに帰ったんだ。

パパもママも、これは受け入れるしかないんだなって改めて思い知らされたよ。あきらめの境地って感じかな。ママが何かを心配しても、パパは「どうにかなるだろ」ばっかりだった。

 

赤ちゃんロボットが来るまで残り3日、というところで、パパが育児計画表を作りはじめたんだ。

赤ちゃんロボットが来ることに前向きになったのかな、と思ったらそんなことはなくて、ママに向かって張り切って提案してきたんだ。

「俺とサキでうまい具合に交代しながらお世話をすれば、育児休暇中に勉強したり、久しぶりの友達と会ったり、いつもはできないことができるんじゃないかな」

あの時のパパの顔は自信満々だったなぁ。その育児計画表では、パパよりもママの方がちょっと自由時間が多いスケジュールになっていて、ママも「こんなに時間があったら勉強しなきゃね」って笑っていたのが懐かしいよ。

赤ちゃんロボットは連絡もなく、いきなり玄関のチャイムが鳴って来たんだ。

パパとママはびっくりして「連絡してから来てもらえると助かります」とか言いながら、玄関を開けてみた。市役所の職員が2人来て、両手でおくるみに包まれているのは、赤ちゃんロボットだって一発でわかったよ。

「次からは連絡してから伺うようにします」

職員はとびきりの笑顔で、赤ちゃんロボットを大事そうに抱っこしていたよ。

「名前は決まっていますか?」

この質問にはドキッとしたなぁ。そんなことは、赤ちゃんロボットが来てから考えればいいやって思っていたし、パパなんて「名前って必要なの?」なんて調子だった。今だから言えるけどね。

その職員が玄関で、赤ちゃんロボットについて説明をしてくれたんだけど、だいたい想像していた通りだったかな。ミルクの作り方と飲ませ方、オムツの替え方、寝かしつけ方、そんな基本的なことだけ教えてもらって、ちょっと拍子抜けだった。

「あとは3人で頑張ってみてください。1ヵ月ごとに訪問させてください」

その言葉を残して、あっさり赤ちゃんロボットをママにそっとそっと渡したんだ。

あの瞬間は今でもはっきり覚えている。

あったかい。おくるみ越しに体温が伝わってくる。

ミルクのようないい匂いがする。

本物の赤ちゃんが来たみたい。

パパに後から聞いたら、ママは泣いていたんだって。何に感動したのかわからないけど、ママは顔をぴったりくっつけて「かわいい」ってずっと繰り返していたみたいだよ。

「パパも抱っこしてみなよ」

そう言ったらパパはびっくりしていたなぁ。「パパ」って呼ばれたことも、抱っこすることも、両方に驚いたみたい。「もう?」って聞かれたけど、意味わからないよね。パパが抱っこしたら、赤ちゃんロボットは大泣き。笑っちゃったなぁ。とにかく本物の赤ちゃんみたいにそっくりで、とてもロボットには思えなかったんだ。

「名前どうするの?」

パパに聞いたら

「そうだね。すぐに考えよう」

と返事して、ママがまた抱っこして考えることになったんだ。それで決まったのが「あおい」だよ。なんでだと思う?

ママが真剣にいろいろ悩んでいたら、パパが「どうせ半年だけなんだし、さつきが5月くらいに咲く花だから、6月ってことで葵にしよう」って言ってきたんだ。

ママは「もうちょっとちゃんと考えようよ」ってパパに言ったんだけど、パパは「あおいにしよう。サキとこれ以上考えても決まらないと思う」って感じで決めちゃったんだ。今になってみれば、パパにしてはかなり素敵な名前を付けたと思うよ。

ママの名前は「さつき」だけど、パパは「サキ」って呼んでいたでしょ。「さつき」っていう名前の女性はたくさんいるだろうけど、「サキ」って呼ばれる「さつき」はママだけだろうなって思って、ママは「サキ」が気に入っていたんだ。

アイちゃんにも気に入ってもらいたくて、名前は「あおい」、呼び方は「アイちゃん」にしたよ。「アイちゃん」って呼ばれていた感想を聞いたことなかったけど、どうだった?

 

そこから先は「とにかくやってみよう」ということで、パパとママでお世話をしてみたよ。アイちゃんが泣いたら、まずはオムツをチェックする。オムツの中がきれいだったら、ミルクを作って飲ませてみる。だいたいそれで泣き止んでくれたんだ。パパと「ふー」って深呼吸しながら頑張ったんだよ。

「いやー、赤ちゃんって大変だね」

なんてパパは笑っていたけど、その夜からは地獄だったなぁ。アイちゃんに地獄なんて言ったらダメかもしれないけど、本当にそう思ったんだ。

アイちゃんは2時間おきに目が覚めて、いきなり大きな声で泣きはじめるんだ。

ミルクをあげても飲まないで、抱っこしてもずっと泣き止まない。怒っているのかな、寂しいのかな、ひょっとして壊れたのかな。そんな時でもパパは爆睡しているから蹴って起こしたりした。

「なんで俺を起こすんだよ」

「なんで寝てんのよ」

そんなやりとりをしてから、パパが抱っこするともっと大声で泣く。ママは疲れてベッドに倒れこんで、いつの間にかアイちゃんが静かになって、パパとママも寝ちゃう、そんな夜が続いたよ。

アイちゃんが何をしたいのか言ってくれたら良かったんだけど、とにかく泣いてばかりで、ママも泣きそうになっちゃった。

パパは「絶対に壊れてるよ。本当の赤ちゃんがこんなに泣くはずがない」って怒りながらママを慰めてくれたけど、パパにとっても、思っていたような育児休暇にはならなくてイライラしていたなぁ。アイちゃんがすやすや昼寝をしていても、パパがうっかり部屋で音を立てると目を覚ましちゃうから、そんな時はパパをにらんじゃった。

そういえば、パパが作った育児計画表は見事に全然使わなかったよ。アイちゃんにも見せたかったくらいの傑作。仕事に使うような四角の表に、時間ごとにやることが決まっていて、漢字だらけで全然かわいくないんだ。パパと見返したら笑っちゃった。

アイちゃんは泣いてばかり、パパとママは寝不足でイライラ、お世話は頑張ったつもりだけど、それで正しいのかどうか全然わからないまま何日も過ごしたんだ。

思い出しながら書いてみたら止まらなくなっちゃった。パパが「また明日にしよう」って言うから、今日はここまで。最初からいろいろあったけど、大変なことが多かったなぁ。

 

1ヵ月経って連絡があって、市役所から赤ちゃんヘルパーが来てくれたよ。

赤ちゃんヘルパーっていう仕事があるんだって。赤ちゃんロボットの専門家で、各家庭を回っているみたい。

赤ちゃんヘルパーは、パパとママの目の前でアイちゃんを抱いて「大丈夫そうですね」って笑っていたよ。大丈夫なのか大丈夫じゃないのか、全然わからなかったけどね。

「おふたりは体力的にも精神的にも大変だと思いますが、最初が一番大変です。ちゃんと眠れていますか?」

赤ちゃんヘルパーと話しながら、久しぶりにパパ以外の大人と喋っていることに気づいたんだ。あんなに大変だった夜泣きについても「すごく大変だけど、寝顔を見るとかわいくてたまらないんです」って笑いながら話していた気がするよ。

赤ちゃんヘルパーは「お風呂の入り方を説明しますね」って動画を使って説明してくれたけど、なんかミッションが増えていくみたいで、パパは「お風呂にも入れるんですか?」って、ちょっとうんざりしていたなぁ。

アイちゃんからは毎日、生活データが赤ちゃんヘルパーに送られていたんだって。そのデータに応じて、今度はアイちゃんが成長プログラムが受信して、ちょっとずつ成長していくみたい。確かに2ヵ月目からは、ちょっとアイちゃんが落ち着いてきて、ママもゆっくりパパとおしゃべりできるくらい余裕が出てきたんだ。

アイちゃんが寝てくれる時間が長くなってきて、パパとママも3人の生活に慣れてきたんだけど、新しく増えたミッション、アイちゃんとのお風呂は大変だった。

服を脱いで裸になっただけでまた泣いちゃって、どうにか抱っこで落ち着いたと思ったら、先にお風呂で待っているパパに渡してまた泣いて、パパは「パパが嫌なのか、お風呂が嫌なのか、どっちだろう」って本気で落ち込んでいたなぁ。仕事でトラブルがあった時より、本気で悩んでいるように見えたよ。お風呂の中で急に動いて落としそうになっちゃったり、お湯に入ったまま寝ちゃったり「赤ちゃんって、どこまでも自由なんだなぁ」って思ったよ。

アイちゃんはこの頃から笑うようにもなって、パパが見たこともないような変な顔で笑わせようとしたり、3人でお話ごっこをすることも増えてきたよ。パパは「アイちゃん、アイちゃん」ってデレデレ、ママのことよりずっとアイちゃんを見ていたなぁ。

ママも、やっと子育ての楽しさがわかってきた気がしたんだけど、アイちゃんが本当の赤ちゃんだったら良かったのに、そんなことを考えはじめた頃だと思う。

 

今日は3ヵ月目について書くね。

パパと「首がすわると、かなり楽に抱っこできるんだね」とか言っていたら、赤ちゃんヘルパーが来て、追加のおもちゃとかベビーカーを持ってきてくれたんだ。

「天気が良い日は、お散歩に連れて行ってあげてくださいね」

そう言われて「そろそろ、ベビーカーで散歩する頃なのかぁ」って複雑な気持ちだったのを覚えている。正直に言っちゃうと、アイちゃんと外に出るのが嫌だったんだと思う。

アイちゃんのことは大好きだったし、今でも大好きだよ。でも、たまにパパが面倒を見てくれて、ママだけで買い物に行くと、本当の赤ちゃんに会うことがあるんだ。

「アイちゃんと同じくらいの大きさかな?女の子かな?」

そんなことを気にするようになったんだけど、だんだん「あっちは本当の赤ちゃんかぁ」って考えるようになっちゃった。

「アイちゃんって他の人から見たら、やっぱりロボットに見えるのかな」

パパに相談したんだ。

「どうかなぁ。言われなきゃわからないかもね」

「もしアイちゃんについて聞かれたら、赤ちゃんロボットであることを教えてあげた方がいいのかな」

「別にどっちでもいいんじゃないかなぁ。サキが気にするなら、しばらくは俺とアイちゃんで散歩に行ってみて、みんなの反応を見てみるよ」

あっさりと返事していたなぁ。これって父親と母親の差なのかな。

パパはアイちゃんに対して、いろいろ話しかけたり、遊んであげたりして、自分も楽しんでいたみたいだったけど「へぇ、こんなこともできるんだぁ」っていう反応だったから、今思えば、赤ちゃんロボットのテクノロジーにも興味があったんだろうね。

パパとアイちゃんで散歩に行ってくれることになって、ママはちょっと安心したんだけど、アイちゃんがとにかく大変だったんだよ。覚えてる?

「今日はお散歩デビューだよ、良かったねぇ」

ベビーカーに乗せようとすると泣いて、しょうがないから抱っこしたまま家の前を散歩して、機嫌が良くなったからベビーカーに乗せようとしてまた大泣き。とにかくベビーカーには乗りたがらなかった。あれは何だったの?

「無理してまで、ベビーカーは使わなくてもいいんじゃないか?」

パパはあっさりそう言っていたけど、私はアイちゃんのことをベビーカーにすら乗せられなくて、すっかり自信を失くしていた。こんなこともできないなんて、ママ失格じゃないかって思っていた。

「そういう問題じゃない」

そう言ってパパに八つ当たりしていた気がする。アイちゃんのお世話をする大変さを、ベビーカーにぶつけてしまって、ママはベビーカーを見るのも嫌になっていたんだ。

アイちゃんのことが大好きでも、気持ちがわからない時もたくさんあって、本当に困ったなぁ。最初の頃は何がなんだかわからなくて、この頃はアイちゃんを思うようにできなくて、パパにもわかってもらえなくて、何かとイライラしていた気がするよ。

ベビーカーのことは、思い出すだけで疲れてきちゃった。アイちゃんは悪くないのにね。今日はもうおしまい。ちょっと休んでまた書くね。

 

4ヵ月目に入って、また同じ赤ちゃんヘルパーが来たよ。

いつものように、アイちゃんを抱いていろいろ確認していたけど、この時に初めてわかったんだ。データを送っているのに、なんでわざわざ赤ちゃんヘルパーが家まで来るのかな、と思っていたんだけど、赤ちゃんロボットよりも、パパやママの様子を見に来ていたと思うんだ。

「お散歩に行っていないようですね」

やっぱり言われちゃった。

「はい」

ベビーカーに乗せられなくて何十分も格闘している、そんな苦労を目の前で見せてあげたい気持ちになったよ。

「お散歩は大切ですよ」

そう言われて、ママの中で何かが切れてしまったの。

「わかっています」

ママは自分の声にびっくりしたんだけど、止まらなかった。

「それくらい、私だってわかっています」

今から振り返ると、赤ちゃんロボットなんて簡単に育てられるはず、何ならママ1人でもできるはず、内心ではそう思っていたんだと思う。

「でも、この子をベビーカーに乗せようと思って、準備をはじめるだけで泣き出すし、ミルクも嫌だって首を振ってみたり、抱っこしても言うこと聞かないんです。

しかも、だんだん重くなってますよね、この子。腰が痛くて眠れない日だってあるんです。たかがベビーカーの散歩のために、泣き止むまで交代で抱っこして、やっと泣き止んで、ベビーカーに乗せるとまた泣くし。そんなことの繰り返しで、こっちばっかり疲れて。だから散歩、行けないんです。私達だって」

この時のママは、どうなってもいいやって気持ちだったと思うんだ。

「これは本物じゃない。お世話なんてこんなに頑張らなくても死なない。でも、私達は人間なんです。こっちが先に死んじゃいますよ。だいたい、このロボット、壊れているからちゃんと調べてください。これは本物じゃない。本物の赤ちゃんって、こんなに大変じゃないですよね?」

「サキ、大丈夫だよ。またゆっくり頑張ってみよう」

パパが言うには、ママは見たことないくらい号泣していたんだって。

「おふたりとも、本当によくお世話をしてくださっています。疲れやストレスも溜まってきていると思います。率直にご苦労を話していただき、ありがとうございます」

赤ちゃんヘルパーはうなずきながら、ママの話を聞いてくれたよ。

「本物の赤ちゃんは、実はもっともっと大変です。寝ている間もちゃんと息をしているのか確認して、ウンチの色は大丈夫か、蚊に刺されていないか、暑いのか寒いのか。毎日毎日、話せない赤ちゃんのお世話をしていたら、親の方が倒れてしまいますよね。だから、あおいちゃんのお世話をしながら、ほどほどに手を抜いて子育てすることも覚えてほしいのです」

赤ちゃんヘルパーは、ママがぶつけたような愚痴ばかり聞いているんじゃないかな。尊敬しちゃうよ。

「本物の赤ちゃんも赤ちゃんロボットも、同じくらい大変です。でも、子育てをすることで自分達が成長していることに気づく日が、必ずやって来ます。安心して、あおいちゃんのお世話を楽しんでください。おふたりは大丈夫です」

赤ちゃんヘルパーが来てくれて、本当に救われた気がしたよ。

夕方になって、初めて3人で散歩をしてみた。あの時のアイちゃんは「今までのは何だったの?」というくらい、ずいぶんお利口にベビーカーに乗ってくれたんだ。アイちゃんはすぐに寝ちゃったよね。パパと並んでベビーカーを押すなんて、不思議な夕方だったなぁ。

「こんなところに小さい花が咲いているね。明日アイちゃんにも見せよう」

「こんなにガタガタしていたら、ベビーカーのアイちゃんが起きちゃうね」

「なんとなくだけど、アイちゃんのお世話はサキに任せていた気がするんだ」

この日のパパは、いつになくママに気を遣ってくれていたと思う。

「パパってこんなに優しい人だったっけ?」

「ママの方こそ、今日のママは、本当のママみたいでびっくりした」

「ママって初めて呼んでくれたね」

そんなことを話しながら歩いていたら、4歳くらいかな?小さい子が話しかけてきたんだ。その子のお母さんも一緒だったよ。

「赤ちゃん?」

そう聞かれたから、ママは思わず謝りながら

「ごめんね。赤ちゃんロボットなんだよ」

そう答えちゃった。

「お姉ちゃん?」

その子がお母さんに聞くから、お母さんが私達に説明してくれたんだ。

「この子が生まれる前に、赤ちゃんロボットを育てていたんです。そのうち、本当に子どもが欲しくなっちゃって、それからすぐにこの子が生まれたので、赤ちゃんロボットのおかげだと思っているんです。この子には赤ちゃんロボットの話を聞かせて、お姉ちゃんのおかげだよ、そんな風に教えているんです」

「お姉ちゃん、寝てるね」

「そうね、かわいいね」

そのお母さんには、別れ際にすごく感謝されたなぁ。懐かしい気持ちになったのかな。赤ちゃんロボットを子どもに見せることができたからかもしれない。パパとママもなんだかあったかい気持ちになったんだ。その子が話しかけても、ちょっと指を触ってみても、アイちゃんはベビーカーですやすや寝ていたよ。

AR法が施行されてから、出生率が上昇傾向になったんだって。

AR法には反対意見も多かったみたいだけど、実際に赤ちゃんロボットに会ってみると、アイちゃんみたいにかわいくて、子育てに前向きになるらしいよ。AR法で育児休暇中に妊娠して、そのまま産休になるようなこともあるんだって。

その頃からパパとママもね、赤ちゃんについて前向きに考えるようになったんだ。

 

5ヵ月。

晴れている日は、3人で遠くの方まで散歩できるようになったよ。アイちゃんはベビーカーが大好きになっちゃって、準備をするだけで両手を振ってうれしそうだった。

アイちゃんと同じように、赤ちゃんロボットを育てている夫婦と友達になったんだ。赤ちゃんロボット同士を比べると、やっぱり全然違うんだよ。目も鼻も耳も、ちょっと生えた髪も全部違う。違うお家の赤ちゃんロボットを抱っこすると、ちゃんと嫌がって泣くからびっくりしたんだ。アイちゃんはこの世界に1人だけなんだって、本当に思ったよ。

もちろん、ベビーカーを押していると、本当の赤ちゃんを連れた親子に話しかけられることも多かった。だいたい挨拶の言葉は「何ヵ月ですか?」みたいな感じ。

パパは、赤ちゃんロボットであることをまったく気にしない感じで

「もう5ヵ月なんです」

そう答えていたなぁ。

「大きいですね」

と言われても、うれしそうにしていて、そんな時のパパは、本当のパパみたいで笑っちゃったなぁ。アイちゃんを自慢しているようだったよ。

パパに聞いたら、もうすぐアイちゃんとの育児休暇が終わるから、残りの日々は精一杯楽しく過ごそうと思ったんだって。ママはそんなにきっぱりとは、心の準備ができなかったなぁ。

「アイちゃんってやっぱり返さなきゃダメなの?」

何回もパパに聞いたんだ。

パパもいっぱい調べてくれたよ。でもね、最初に確認した重要事項に、延長は何があろうとできないってはっきり書いてあったんだ。そりゃそうだよね。

「不妊治療をしてみようよ」

どうしても本当の赤ちゃんが欲しくなって、パパに相談したんだ。

「不妊治療をしても、すぐにできるわけじゃないと思うよ」

パパは冷静にそんなこと言っていたけど、次の日には一緒に行ってくれたから、パパも同じ気持ちだったんじゃないかな。アイちゃんがいたから、産婦人科に到着しても当たり前のように中に入ることができたんだ。

でもね、いろいろ検査していたら、パパとママには子どもができにくいってわかったんだ。

「こればっかりは、治療をしたからといって、どうなるかはわかりません」

先生の言葉は重かった。あまり今後に期待させないように、でも希望は残るように、丁寧に説明してくれたんだ。

アイちゃんを抱っこしながら、ママはまた泣いちゃった。

妊娠が難しいって言われて、子どもが生まれるってすごいことなんだって思ったよ。結婚したら、そのうち生まれてくるんじゃないかなって思ってた。アイちゃんに出会って、赤ちゃんが欲しくなったら、もうすぐアイちゃんとバイバイ。

「返さなきゃダメなの?」どころじゃなかった。

「どうしたらいいの?」パパに何回も何回も聞いたよ。

アイちゃんのお世話、産婦人科の通院、育児休暇が終わってからの仕事、急に考えることが増えてきちゃって、今思えばパニックになっていたと思う。

でもね、ある日の産婦人科の帰り道、またパパとママが悲しい顔して歩いていたら、アイちゃんが声を出して笑ってくれたんだ。

「アイちゃんがいて良かった」

そう言ったら、パパが優しく声をかけてくれたんだ。

「ママ。最後の日まではアイちゃんのお世話に専念しよう。不妊治療のことはいったん忘れよう」

パパはアイちゃんに優しくしているうちに、ママに対しても優しくなった気がする。それからしばらくは、産婦人科は行かなくなって、育児休暇明けのこともいったん忘れて過ごすようにしたんだ。

パパがいて本当に良かった。

そういえば、赤ちゃんロボットは、カメラで撮影することが禁止されていたんだよ。

そんな説明を受けたし、実際に撮影しようとしても、うまく写真に映らない素材になっているんだって。アイちゃんに会う前は「どうせロボットでしょ」と思っていたけど、ちょっとずつ大きくなって、何でもできるようになるアイちゃんを見ていたら、パパもママもアイちゃんの姿を残したくなっちゃった。

あんなにかわいかった顔が、いつの日かぼんやりしてきて、思い出せなくなっちゃうのかな。そんなの嫌だったから、アイちゃんの似顔絵を色えんぴつでたくさん描いたんだ。育児休暇中に、アイちゃんのお世話だけじゃなくて、実はママはすごく絵が上手になったんだ。

今日はここまで。来週になったら、最後まで書ける気がするんだ。アイちゃんの「もうちょっとだよ」っていう声が聞こえているよ。

 

最終日のことは、昨日のことのように覚えているよ。

何かの間違いで、アイちゃんがずっとこの家にいてくれたらなぁ、そんなことを考えながら、前の日はパパもママも寝られなかった。

午前中のうちに連絡があって、すぐに赤ちゃんヘルパーが来たよ。やっぱり来ちゃったって感じだった。お互いに慣れてきて「こんにちは」なんて挨拶していたけど、この日は赤ちゃんヘルパーの顔を見るのが辛かった。

赤ちゃんヘルパーは大きなトランクを持ってきていて、借りていた赤ちゃん用品を確認しながら回収していったよ。

何も言わずに、何も聞かずに、淡々と手を動かしていたのは、赤ちゃんヘルパーの優しさだったかもしれないね。少しだけ余ったミルクとオムツ、音が鳴るおもちゃ、着替えセット、ベビーカー、ひとつひとつに思い出がある。

ミルクを飲ませる時の、グーにした小さな手がかわいかった。

オムツを替える時の、ママを見る真剣な表情がかわいかった。

足の裏にキスした時の、ケラケラ笑った顔がかわいかった。

湯船で眠った顔も、ずっと見ていられるほどかわいかった。

ベビーカーに乗せると、小さな手を口に持っていく姿もかわいかった。

「もし捨ててしまうなら、思い出にひとつもらえませんか?」

ママは、ヨダレかけを指さして言ってみたんだけど

「申し訳ありません。それはできないことになっています」

やっぱり断られちゃった。ママはすごく悲しかったんだけど、なぜか笑っちゃったんだ。全然面白くないのにね。パパはずっとママの手を握ってくれた。

「大変お疲れ様でした」

ママの気持ちも知らないで、アイちゃんはすやすや寝ていたよ。アイちゃんを起こさないように、パパがアイちゃんを抱っこして、ママがアイちゃんを抱っこして、それから赤ちゃんヘルパーに渡したんだけど、ママは最後の最後、アイちゃんに声をかけられなかったんだ。アイちゃんに何か伝えたい気持ちはあったんだけど、夢の中にいるみたいで、勝手に話が進んでいく感覚だった。何もできなくて、自分が自分じゃないみたいだった。

赤ちゃんヘルパーともそれっきり。振り返ってみると、赤ちゃんヘルパーは最初から最後まで、アイちゃんを本当の赤ちゃんのように話を聞いて、心配して、一緒に喜んでくれたよ。赤ちゃんヘルパーがいなくて、パパとママだけだったら、アイちゃんはもっと大変な思いをしたかもね。

その日の夜、部屋中にあったアイちゃんのものがなくなって、ぽっかり空いたスペースをずっと見ていた。もうアイちゃんはいないのに、自然と両手が赤ちゃんを抱っこの形になっちゃう。腰痛にも慣れちゃった。ママは夜中に目が覚めると、アイちゃんの寝息が聞こえそうだったよ。そのまま朝までアイちゃんのことを考えたりもした。

あの日から、パパとママはアイちゃん中心の毎日だった。

早く梅雨が明けないかなぁ。

パパはまた仕事をバリバリに頑張っているよ。すごいね。

パパはすごく変わったと思う。

アイちゃんやママに優しくなっただけかと思ったら、アイちゃんがいなくなってからもっと優しくなった気がする。電車にベビーカーを乗せようとする人を手伝ってあげたり、泣いてしょうがない赤ちゃんに困っているお母さんがいても「気にしなくて大丈夫ですよ」なんて声をかけたり、アイちゃんに会うまではこんなことは絶対になかったよ。

ママも仕事に復帰したけど、たまにアイちゃんを思い出して、どうしても涙が止まらなくなっちゃった。あの毎日は何だったんだろう。夢だったような気もして、何回も自分で描いたアイちゃんの顔を見て確かめた。

それからしばらく、ママは自分が何をしたいのか、わからなかった。

アイちゃんに会いたいのか、子どもが欲しいのか、何もなかったかのようにパパと楽しく暮らしたいのか、混乱した挙句「アイちゃんに会いたい」って言うもんだから、パパには随分と心配をかけちゃったんだ。

 

パパの提案で、カウンセリングの先生に相談してみたら「アイちゃんに手紙を届けましょう」って提案された。アイちゃんはまだ手紙を読むどころか、話すこともできないですよ、って先生には言ったんだけどさ。

「大丈夫、届きますよ。アイちゃんと過ごした半年間を、ちゃんと言葉にして残して、大変だったこと、感じたこと、幸せだったことを全部アイちゃんに届けましょう」

たぶん、最後の日に、ちゃんとアイちゃんにお別れの挨拶ができなかったから、ママの中でモヤモヤが残っていたんだと思う。

こうやって手紙を書いてみると、ママの気持ちも落ち着いてきたよ。

赤ちゃんが生まれてくることって約束されたことではないし、いつも一緒にいる人がずっといてくれるわけでもない。どれだけ愛していても、どれだけ大切にしても、必ずお別れはあるわけで、だからこそ、今ここにある毎日の人生を大切にしようって思うようになったんだ。

こんなすごいことをアイちゃんは教えてくれたんだよ。

ママはもう大丈夫。

アイちゃんに会えて良かったし、ありがとうの気持ちでいっぱい。アイちゃんにまた会えたら嬉しいけど、会えなくても大丈夫。本当の子どもができたら嬉しいけど、できなくても大丈夫。パパとママは、誰が何と言おうとアイちゃんのパパとママだった。AR法のおかげ。

 

アイちゃんと出会ってから、この社会の見え方が変わって、日本は子育てがしやすい国なのかなって考えるようになったんだ。

パパとママには赤ちゃんヘルパーが来てくれたけど、本当の赤ちゃんには来てくれない。ひょっとしたら、赤ちゃんがいるお母さんは、いろいろ社会に対して要望を言いたいんだろうけど、忙しすぎて毎日それどころじゃないのかもしれないね。これじゃ子どもの数が減ってしまうのも当たり前だって気づかされたよ。

AR法は、結婚したら子どもを産んでもらいたい、という単純なものだと思っていた。

この国にいるたくさんの大人に、子育ての大変さ、楽しさを知ってもらうこと、そして、赤ちゃんや子どもに優しい国にするために、全国民で取り組みたいっていうメッセージが込められていると思うんだ。この気持ちを忘れないようにしたいな。

ありがとう、アイちゃん。

明日は経理スペシャリストの試験だよ。ママは元気に頑張っているからね。