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キャリア・短編小説・NIKKO・Fukushima

【リカセン】

【第1章 ミツバチが絶滅する世界】

 

「いいね。そしたら、次いこうか」

残り15分あるので次の分野に少しだけ入っておこう。

先週から中学生は夏休みに入り、夏期講習が徐々にはじまったところだ。外は今日も35度の暑さだったらしい。生徒はこのビルに到着すると一目散に教室目がけて入ってくるが、明らかに勉強のためではなくて、教室内が涼しいからだろう。一日中エアコンが効いた教室なので、自分にとっての最高気温は夜10時の25度くらいになりそうだ。

「1年生で習った花のつくりを復習するよ。このへんは楽勝かな?」

と言ってテキストのまとめページを開いてあげる。15分しかないので、ささっと終わりそうな分野をささっと終わらせる作戦だ。

「このアブラナの図を見ながら説明するよ。どういうつくりになっているか覚えているかな。外側から順番に言ってみよう」

「えっと、なんだっけ?」

とあやめは考えるような返事をする。

理科を除けば優秀な生徒なので、本当に考えているのかどうかわからないが、少しだけ間があってから答える。

「外側から、がく、花弁、おしべ、めしべ、その中にあるのが胚珠です」

「いいね、さすがだね。植物の分野は言葉の確認ばっかりなので、問題をどんどん解いてみよう」

もう4年もこの個人塾でいろいろな生徒に理科を教えている。しかし、教えておいて言うのも変な話だが、自分が隣で教えなくても、ものすごくわかりやすい参考書を買って読めば充分勉強になると思う。今どきはネットで神授業なんかを見てもらった方が勉強がはかどるんじゃないかと本気で思っている。

あやめはどんどん問題を解いている。

あやめは今回の夏期講習で久々に担当になったが、受験生なので中1、中2の復習が中心だ。このまま残りの15分を過ごしてもいいのだが、自分の存在が、問題を出してマル付けをして、最後に「いいね」と言うだけの存在になりそうな気がして少し雑談を振ってみた。

「なんで、おしべとめしべは離れているのか知ってるかな?」

どこまで話が膨らむかわからないけど聞いてみる。

「離れていた方が競争の原理が働くって聞いたことがあります」

「いいね、よく知ってるね」

結局「いいね」と言っているので一緒だ。

あやめは問題を解き終わってしまったので、チャイムまで5分余ってしまった。

「少し時間が余ったけどどうしようっか。宿題を進めていてもいいし、何か他にやっておきたいことはあるかな?」

「んー、別に、リカセン先生に任せます」

中学生とは親子ほども歳が離れているので、5分も時間つぶしができないので大変だ。あやめから見たら私は理科を教えるおじさんにしか見えないだろう。生徒には理科専門で教える先生なので「リカセン先生」と呼ばれている。おそらく友達同士では呼び捨てでリカセンと呼んでいるのだろうが、教室ではリカセン先生だ。最初は恥ずかしくて、うまく返事ができなかった。

「花粉がめしべの柱頭について受粉するには、何が必要かな?」

「花粉が風で運ばれたり、虫の助けが必要です」

「いいね。虫もいろいろいるけど、蜜蜂についてもう少し考えてみようか…」

あやめはテキストを片付けながら、どっちでもいいような顔をしている。

「もしも蜜蜂だけが地球上で絶滅してしまったら、どんなことが起きるかな?」

「えー、何それ」

と言いながらも、しばらく経ってあやめは考えはじめた。

「たぶん、ハチミツの値段が高くなるかな」

考えていた方向と全然違う答えだが、相変わらずこの子は面白い発想をする。

「いいね。確かにハチミツが貴重な食べ物になって、手に入らなくなるね。そしたら次にどうなるかな?」

「ニセのハチミツが出回ったり、どうにかしてハチミツそっくりの食べ物を開発するんじゃないかな」

自分の聞き方が悪いのだろうか。ハチミツから離れない。

「ハチミツが完全になくなったらどうしようか?」

「んー」

あやめは何もなくなった机を見ながら真剣に考えている。

「たぶん、蜜蜂のロボットができるんじゃないかな」

今どきの中学生は発想が違うと思い知らされる。事前の想定が意味がない。確かに蜜蜂の小型ロボットが発明されて受粉を手伝えば、世界は何も変わらないのかもしれない。

「もし、ロボットの開発が間に合わないとすると、例えばこんなことが起きるんだ。世界中の農産物の3分の1くらいは蜜蜂が受粉を助けてるって言われているよ。その受粉がまったくされなくなると、野菜だけではなくて家畜のエサも足りなくなる。やがて人類の滅亡につながるんじゃないか、という説もあるくらいなんだ。3年生の理科でも食物連鎖の話が出てくるけれど、そうやっていろんな生き物同士がつながっているって覚えておくといいよ」

別に言わなくても良かったのかもしれないが、最後は時間が足りなくなって、自分で用意していた内容を一気に話して終わってしまった。 あやめは「へー、そうなんだ」と答えていたが、自分の授業にどれくらい満足しているのかまったくわからない。

別に理科の先生がいなくなったら、ロボットが教えてくれればいいや、と思っているのかな。人間同士のつながりは食物連鎖よりも強いのだろうか。授業が終わって自分の片付けをしながらそんな心配をした。

 

【第2章 光の性質】

 

次の週になり、水曜日はまたあやめの夏期講習の日だ。

この塾は完全個別指導というスタイルの塾なので、生徒の隣に座り、ほとんど家庭教師みたいな距離感で勉強を教えている。一応、他の授業ブースとはパーテーションで仕切られているので、自分の勉強に集中できる環境だが、10人くらいの講師や生徒の声がいつも混じり合っている。大学生の講師は人気があり、生徒と楽しそうな声で盛り上がっている。そんなときはなんとなく隣の生徒に申し訳ない気持ちになる。

「今日は光の分野を復習するよ。これも1年生で教わった内容だけど覚えてるかな?」

6月に行われた模試の結果を確認したので、光の分野がものすごく苦手なことは把握している。だいたいどの生徒も模試の結果が悪かった教科を中心に、夏期講習のカリキュラムを選んで申し込む。

「光はできると思っていたけど、このあいだの模試は全然でした」

今回は想定通りの答えが返ってくる。

「光の性質って言えるかな?」

「光は明るいとか。あとは、なんだろ…」

あやめは考えてる。

「確かに、明るいね。ただ受験のことを考えると光の性質はまっすぐに進む。これだけで充分なんだ」

「でも、光ってレンズで曲がったりするからよくわかんない」

やっぱりそうか。今日はずいぶん思っていた通りに確認が進む。いつもこうなら教える自分も楽しいだろうが、ほとんどの場合はそうならない。そのたびに自分は教えることが向いてないのではないか、という自問自答を4年以上繰り返している。

「いいところに気がついたね。光はまっすぐにしか進まないけど、レンズのせいで曲がってしまうんだ。つまりね、光の分野ってレンズの仕組みの問題だってわかれば楽勝だよ」

自分のなかでは決め台詞が決まる瞬間なのだが、生徒はいつも無反応だ。あやめは真剣に聞いてくれるだけありがたい。

「レンズにぶつかった光は、レンズの向こうにある焦点を目がけて曲がるようにできているんだ。レンズは焦点のために作っている、とも言えるね」

「焦点が目に見えるといいのに」

「確かに見えるといいよね」

いい観点だ。本当に見えたらかなり教えやすいだろう。

「レンズは窓ガラスと違ってふくらんでるね。光が焦点に向かって曲がることが大事なんだ。レンズの上側でぶつかった光は焦点を通ってそのまま真っ直ぐ下に向かっていく。だから、レンズ奥のスクリーンでは実像が上下逆さまに映るんだ」

「そっかあ。なんとなくわかってきた」

「いいね。例えば、先生の眼球の奥、瞳の奥の方がいいかな。瞳の奥にはあやめさんは上下逆さまに映っているんだよ。瞳がレンズのはたらきをしているからね」

「リカセン先生には、あやめが上下逆さまに見えるんですか?」

「まさか。瞳の奥の神経がもう1回正しい向きに直してるっていうイメージかな。実はスマホのカメラとかも同じ仕組みだよ。レンズは拡大したり光を集めるために必要なんだけど、やっぱり上下左右が反対になっているから機械が直しているんだ」

本当はカメラの仕組みを積極的に話してもいいのだが、そうしない理由が2つある。

ひとつは、詳しく話すとさすがに中学生は退屈するんじゃないかと思っている。もうひとつは、自分の本職が写真屋であることが、うっかりばれないようにするためだ。写真屋が休みの水曜日はここで塾講師としてアルバイトをしているが、本業は写真屋で勤めている。勤めているといっても、父親の自営業を手伝っているだけだ。 

「だんだんわかってきたね。ロウソクの場所が変わるとスクリーンの実像がどのように変わっていくのか考えてみよう」

あやめは問題を解きながら、なぜ実像は上下逆さまになるのか、大きさが変化するのかわかってきたように見える。

カメラのレンズの奥では、風景が上下逆さまに映っている。昔も今も基本的にカメラは同じ仕組みだ。昼間の写真屋ではお客さんの家族写真を撮ることもあるが、スマホに対抗してそんなにきれいに撮る必要があるのかまったく自信がない。

デジカメを使って安く撮影できて、衣装のレンタルもできる今風の撮影スタジオが増えてきた。年々お客さんの数が減っているのが実感できる。おやじはこの先の経営をどうしようと思っているのだろうか。息子でなかったらとっくに辞めていただろう。実は将来の心配もあってアルバイトで塾講師をはじめていた。

「リカセン先生はカメラとか好きなの?」

問題を解きながら急にあやめが聞いてきた。

「別に好きではないかな…」

とっさに答えてしまった。

自分が写真屋で働いていることをカミングアウトする日は来ないだろう。塾に来る生徒に「先生は昼間は何やっているんですか?」なんて聞かれたことがない。昼間はやりたい仕事をやっているんだよ、と答えられたらいいのだが、そんな大人はどれだけいるのだろうか。

外ではセミが一所懸命鳴いている。ひょっとしたら自分よりも必死に仕事をしているのかもしれない。

 

【第3章 音の性質】

 

また1週間経ち、今日はお盆前の最後の夏期講習の授業だ。

生徒は、高校見学や部活の最後の大会で毎日忙しく、夏期講習に来るだけで機嫌が悪そうな生徒もちらほら見える。あやめも機嫌悪いまではいかないが、頬杖をついているときは疲れているのかなと若干心配してしまう。 

「音の大きさと高さは何によって決まるか覚えているかな?」

オシロスコープという音の様子を表すグラフを一緒に見ながら答えを待ってみる。

あやめは別に急ぐこともなくマイペースで考えている。

「音の大きさは振幅で、高さは振動数」

「いいね。音が大きくなることと高さがキーンって高くなることは、まったく違うから混乱しないようにしよう」

あやめは理科だけが平均くらいの点数で、他の4教科はあまり心配のない成績だ。国語や数学の成績が良くて、理科だけ苦手な生徒はやればもっと伸びるはず、と塾長も保護者も考えているだろうからプレッシャーを感じてしまう。正直、全然できない生徒の方が安心して授業に臨める。

「音の性質は大丈夫そうだから、少し飛ばして受験によく出るカミナリの問題を復習してみよう」

遠くでカミナリが光って、何秒後に音が鳴ったから何キロ離れているという問題だ。あやめは計算問題をスイスイ解いている。

「よし、いいね。答えも合っているよ。音が進む速さはだいたい秒速340メートルくらいって覚えていたかな。自信持って答えを書けるから覚えておくといいよ」

「リカセン先生、秒速340メートルってことは3秒で1キロくらい進むってことですか?」

「そうだね。カミナリが光って3秒でゴロゴロ聞こえたら、1キロしか離れてないから結構危ないね」

「もし、1キロ離れたところからカメラで撮るにはどうすればいいんですか?」

「えっ、どういうことかな?」

なんでカメラの話になったのかびっくりした。先週の続きだろうか。

「1キロ離れていたら、ハイチーズってシャッター押しても声が聞こえる前にバシャって撮られてしまうんですよね?」

「本当だね。3秒待ってからシャッターを押さないとポーズが決まらないね」

「へえ、面白いね」

別に私の解説が面白いわけではなく、音の性質が面白いようだ。あやめは残りの問題を解いている。

だいたい自分は、写真屋で10mメートル前後離れて撮影している。ハイチーズ、の声は0.03秒でお客さんに届くから良かった。あやめには言わないが、そんなことをひとりで考えていた。

 

【第4章 火成岩の覚え方】

 

お盆が終わって、運動部の生徒は部活引退だ。

朝から夕方まで夏期講習の授業が可能になるので、カリキュラム上はここからが本番なのだが、生徒は部活ロスだったり、夏期講習に飽きはじめて、なかなか雰囲気は本番にならない。

「そしたら、次いこうか」

自分が中学生のときには、部活ロスみたいな感覚を味わったことがないので、部活で燃え尽きた生徒のことをうらやましいと思っている。そして、気の抜けた生徒をどう励ましていいのかわからない。あやめがそういうタイプの生徒でなくて本当に良かった。

今日は大地の分野だ。生徒には圧倒的に人気がない。分野として地味すぎるのでなんとなく自分と重ねて同情してしまう。

「知っている火成岩を言ってみようか」

我ながらどうでもいい質問をしていると思う。火成岩6種類とも言えたら確かに点数は取れるかもしれないが、今の自分にとっては教える以外の使い道がない知識だ。

「カコウ岩、ゲンブ岩。あとはリュウ、何だっけ。ハンレイ岩、アンザン岩」

「ひとつ足りないんじゃないかな?」

こういうパターンは本当に多い。単語をひとつずつ覚えている生徒が理科を嫌いでもしょうがないと思う。つながりでまとめて覚えればもう少し簡単になる。

「まとめページを見ながらでいいから、今日はこの6種類の名前を何とか覚えよう」

あやめなりに自分のノートに書き写して覚えようとしている。頬杖をつくのは部活で疲れているからだと思っていたが、今日もついている。

カコウ岩、センリョク岩、ハンレイ岩、リュウモン岩、アンザン岩、ゲンブ岩。

お経のようにあやめは小さい声で唱えている。

「まずは、それぞれの名前を覚えるよ。それからどのようにつくられるのか、見た目はどうなのかを合わせて覚えるようにしていこう」

道端を歩いていて「あっ、火成岩だ」なんてことはまず起きない。火成岩は深成岩3種類と火山岩3種類に分類されるわけだが、興味のない生徒にとってはお経よりもどうでもいい内容だろう。

カコウ岩、センリョク岩、ハンレイ岩、リュウモン岩、アンザン岩、ゲンブ岩。

カコウ岩、センリョク岩、ハンレイ岩、リュウモン岩、アンザン岩、ゲンブ岩。

あやめは相変わらず唱えている。本当に真面目な生徒だ。

「ひとつひとつの岩石の名前を思い出したと思うから、つなげて覚えちゃおう」

あやめは覚えることに集中している様子でこちらを見ようとしない。

「深成岩がカコウ岩、センリョク岩、ハンレイ岩の3種類なのでシン、カ、セン、ハをつなげてシンカンセンハ、だ」

あやめが頬杖をやめて、こっちを見ている。

「火山岩がリュウモン岩、アンザン岩、ゲンブ岩の3種類なのでカ、リ、ア、ゲをつなげてカリアゲ、だ。新幹線はカリアゲ、これで覚えよう」

「リカセン、おもしろーい!」

あやめは爆笑している。覚え方としては有名だが、初めて聞いたのだろう。とにかく塾講師としては覚えてくれればどうでもいい。

「カリアゲって何?」

「えっ、そっち?」

あやめはまだ笑っている。

まさか語呂合わせよりも、カリアゲという言葉だけに反応しているとは思わなかった。

「カリアゲっていうのは、男子の髪型で。えっと…」

考えてみれば、カリアゲの男子なんていない。女子中学生が知らなくても当然だ。しょうがないので、自分の後頭部の髪を上に持ち上げてみた。

「こんな髪型だよ」

「そんなヤツいないよ」

あやめは笑いすぎて顔が赤くなってきた。

新幹線がカリアゲになるっていうところがインパクトの覚え方なのに、おそらくあやめにとっては新幹線でも先生でも何でもいいのだろう。

カリアゲでこんなに盛り上がるなんて想定外だった。あやめに限らず、生徒がこんなに笑っている姿は初めて見た気がする。なんか自分もおかしくなって、違う意味で火成岩なんてどうでもいいと思ってしまった。

 

【第5章 津波てんでんこ】

 

夏休みは終盤になり、セミの鳴き声が少し減った気がする。毎年こうやっていつの間にか聞こえなくなる。

「そしたら、次いこうか」

今日は地震の話だ。今日の授業で1年生の範囲はだいたい復習が終わるだろう。

「音の分野でカミナリの速さを求めたけど、覚えているかな?」

「だいたい秒速340メートル」

「いいね。今日は地震の伝わる速さとか震源地までの距離が求められるか復習しよう」

この問題もグラフの読み取りや計算が多いのだが、数学が得意なあやめは解説不要で解いている。理科の大地の分野で扱っているが、実際は数学で出題されてもいいような内容だ。今日の自分はいなくてもいいのかもしれない。

「こうやって問題を解いてみると、初期微動で地震に反応するってことがとても大事だってわかるよね」

「うん。地震って揺れている間は怖いんだけど、止まってからワクワクするっていうか友達と盛り上がったかな」

「そうなんだ。先生は苦手かな。先生のお父さんは青森県出身で、津波てんでんこの話を聞かされていたんだよ。津波てんでんこって知ってるかな?」

「つなみてんでんこ?」

首をかしげて考えている。

「また語呂合わせですか?」

と若干笑いながらあやめが聞いてくる。

「津波、天気、電気。あとは、んー、昆布巻き」

昆布巻きは謎だけど、相変わらず面白い発想だ。

「語呂合わせではなくて、東北の方言らしいよ」

実際、自分も「てんでんこ」なんて言葉を使ったことはないが意味は聞かされていた。あまり詳しく知っているわけではない。おやじが小さかった頃に三陸沖地震があったらしく、そのときの教訓らしい。東日本大震災でも改めて話題になっていたので、東北ではかなり知られた方言なのだろう。

「てんでんこというのは、てんでばらばら、各自一目散に、ということらしいんだ」

想定以上に計算問題が早く終わりそうなので、多少脱線しても大丈夫だろう。

「つまり、津波がきたらひとりひとり一目散に逃げなさい、ということだね」

「そんなの当たり前じゃないんですか?」

「そりゃそうなんだけど、昔から何度も被害を受けてきた地方の教訓みたいだよ。あやめさんは、もし海の近くで津波が来るぞって聞いたらどうする?」

理科の質問としてはかなり非現実的だ。津波をイメージしにくいし、ここは栃木県なので、そもそも津波の心配をする必要がない。自分はいったい何の話をしたいのかわからなくなりそうだ。

「津波が来るぞって聞いてもウソでしょ、と思っちゃうかも…」

「そうなんだよ。ウソでしょ、って思って1回遅れる。次にどうするかな?」

「どうしようって周りの人たちを見ちゃうかも…」

「そうだよね。どうしようと思ってまた遅れる。さらに大人だったら誰かを助けなきゃと思って、逃げられない人を探したりするだろうね。これで相当遅れちゃう」

「津波が来ちゃう…」

「そう。そうやって本当は助かる命がたくさん失われたらしいんだ」

「そうなんだ…」

あやめは真剣な目で聞いている。

「海の近くに住んでいる人たちは、これまでの悲劇を教訓に、津波てんでんこという合言葉を考えたって話らしいよ」

あやめは動かない。

「別に海じゃなくても、本当に緊急事態のときにはみんなが一目散に逃げていたら、それを見た人も一目散に逃げるよね。みんなの第一歩が早くなるんだ。他にも津波てんでんこのいいところがあるんだけどわかるかな?」

無茶な質問だろうと自分でも思った。あやめは珍しく一言も言わない。

「お互いが信頼関係で結ばれていなかったら、この津波てんでんこは成り立たないんだ。あいつも逃げているはずだから大丈夫だ、と自分の身を守ることだけを考えればよくなるね」

あやめは何かを想像しているんだろう。自分の周りのことかもしれないし、東日本大震災のニュースを思い出しているのかもしれない。小学3、4年生の頃のはずだ。

「もし自分の命だけが助かったとしても、そのときの心のダメージが少なくなることもあるらしいね。お互い助け合うことが前提だとどうなるかな。自分だけが助かってしまったら、なんで助けられなかったんだろうって何年も後悔することになるんだ」

本当はもう少し話の続きがあったのだが、あやめが喋らなくなってしまったのでもうやめよう。こんなに津波の話を真正面から聞いてくれるとは思っていなかった。本当にいい子だ。

あやめは確かバレー部だったと記憶している。

「バレーはいつからはじめたの」

空気を変えようとしているのがバレバレかもしれない。

「中学校に入ってからだよ」

「そうなんだ。高校でもやるつもりなのかな?」

「リカセン先生は、中学生のとき何の部活だったの?」

質問に質問で返してくるなんて珍しい。ちょっと変な間をつくってしまった。

嘘を言うわけにはいかない。

「写真部…」

「えー、似合ってるー。やばい」

あやめは笑顔になった。

似合ってると言われても、意外と言われてもうれしくない。これは自分のせいではなくて間違いなく写真のせいだろう。そんなことよりあやめが笑顔になったのでほっとした。

「なんで写真部だったの?」

「おやじがカメラ関係の仕事をしているから、昔からカメラで遊んでいたんだ」

 カメラ関係って何だろう、と我ながら不思議な回答だった。

「でもさ、最近のスマホのカメラもすごいけど、昔ながらのカメラもいいよ。プロのカメラマンの写真って見たことあるかな。色とか奥行きが全然違うんだ」

「七五三とか卒業写真とか…」

プロのカメラマンの写真、ではなくて、アルバムの写真みたいな言い方の方がわかりやすかったかもしれない。

それにしても写真の話なんて珍しい。

「そうそう、先生が見ればスマホで撮った写真か、プロがバズーカみたいなカメラで撮った写真か、一発でわかるよ」

望遠カメラで撮る構えをしてみせる。

「へー、先生すごいね」

女子中学生はこんなことで驚くのか。こっちこそびっくりだ。

「先生はあれだよ。実はね、昼間は写真屋さんでカメラマンをしているんだ」

なんでこんなことを言ったのかわからない。聞かれてもいないのに話したのは初めてかもしれない。

「へー、リカセン先生頑張ってよ。昼間はカメセン先生だね」

どういう思考回路なのかよくわからないが、馬鹿にしている様子はなくうれしかった。

「あやめさんもあと半年、受験まで頑張りなよ」

「カメセン先生もてんでんこだよ」

使い方が違うような気もしたが、思わず笑ってしまった。

写真屋の仕事、塾講師の仕事って中学生の目から見たらどんな仕事なのだろう。自分が勝手に大した仕事ではない、と決めていたけど仕事の種類ではないのかもしれない。自分の仕事が誰かに影響を与えるなんてことがあるのだろうか。気温20度くらいの帰り道もずっと考えていた。

 

【最終章 2分の1成人式】

 

今日は日曜日なので塾は休みだ。

「それでは、次はこちらに移動してください」

写真館に家族4人で来ている。

お姉ちゃんの10歳の誕生日なので、2分の1成人式の家族写真を撮りに来ていた。困ったのは5歳の弟くんだ。窓の外を見たり、無表情で「おやつ」と言ったり、早く帰りたいことは明らかだ。両親はお姉ちゃんで盛り上がっている。弟くんもちょっとしたフォーマルを着ているので暑いらしい。エアコンは効いているが、堅苦しい雰囲気も居心地をさらに悪くしているんだろう。

おやじはご指名を受けて町内イベントに駆り出されており、今日は自分ひとりで写真館を担当している。

お姉ちゃんの単独写真はスムーズに撮影が終わり、あとは家族4人そろっての写真を2パターン撮って終了だ。スクリーンの前に移動してもらう。

その10メートル手前でカメラの準備をする。

弟くんはまったく笑顔がない。

こういうときはご家族に任せることにしている。弟くんの笑顔の写真が欲しいようなら、お母さんあたりが機嫌をとるだろうし、別に気にしないなら強行突破で撮ってしまうご家族もいる。おやじもだいたいそのような対応をしていた。どちらにしろ、写真館自体が忙しくないので、のんびりと準備がいろいろあるふりをして様子を見るようにしている。

とりあえず4人がカメラの前に並んだ。お姉ちゃんも若干飽きているようだが、弟くんのノリが悪いことは気にならないらしい。

「はい、では1回撮ってみましょう。ハイ、チーズ!」

この1枚は今日しか撮れない1枚だ。

本当は弟くんに笑ってほしいが。

「もう1枚いきますよ。ハイ、チーズ!」

写真としては悪くない仕上がりになるだろう。ただ、どうしても突っ立っているだけの弟くんが気になる。10年後、20年後に今日の写真を見たときに、お姉ちゃんはどう感じるだろうか。弟くんはどうだろうか。家族っていいなあ、と感じる可能性はあるけれど、写真館の写真っていいなあ、となるだろうか。2分の1成人式よりもそんなことの方が気になってきた。

「どうだい、お兄ちゃん。ニッコリいってみよう」

試しに言ってみた。誰かになりきっている感じで言ったが、スムーズに言えた気がする。弟くんが微妙にも愛想笑いをしてくれた。

「夏休みは何が楽しかったのかな?」

少し話を振ってみよう。

「新幹線」

「へえ。新幹線はカッコよかったかい?」

「うん」

弟くんの声が大きくなってきた。

「どこにお出掛けしたの?」

お母さんは弟くんをずっと見ている。行き先をちゃんと言えるかどうか、内心ハラハラしているのだろう。

「わかんない」

即答だ。お父さんとお姉ちゃんは笑っている。どこに行ったかよりも、新幹線の方が楽しかったらしい。なんだ、弟くんは慣れない環境にどうしていいのかわからなかったのだろう。喋ってみればとてもいい表情じゃないか。結局どこに出掛けたのかな。

まあいいや。

「いいこと教えてあげるよ」

横を向いて、後ろの髪を持ち上げた。

「新幹線はカリアゲ!」

弟くんは、私につられて笑っている。

 

 

【第40回宇都宮市民芸術祭(文芸部門)奨励賞】