福島第一原発で水素爆発が起きたことにより、その周辺に住んでいた方々は避難指示が出されて、立ち入り制限が何年も続いたり、現在も帰還困難区域が数多く残っています。
避難生活を体験した方、現在も避難生活を続けている方、大変な苦労や思いがあると察しますが、震災12年が経ち、私たちは何ができるでしょうか。
そもそも前提条件として、日本全国、多くの方々が現状を理解するにあたり
・福島の各市町村の位置関係がわからない
・警戒区域、計画的避難区域など、言葉がいろいろ出てきてわかりにくい
といった課題があると思います。
ここではどのような区域が存在して、どのような意味だったのか、2011年から2023年にかけてどう変化したのか、に絞ってまとめてみます。
- 2011年4月22日~【警戒区域の決定】
- 2011年9月30日~【緊急時避難準備区域の廃止】
- 2012年4月1日~【復興に向けた細分化】
- 2013年3月22日~【帰還困難区域の変化】
- 2013年8月8日~【避難指示解除準備区域の縮小】
- 2016年6月12日~【避難指示解除準備区域のさらなる縮小】
- 2017年4月1日~【居住制限区域と避難指示解除準備区域の廃止】
- 2022年6月12日~【特定復興再生拠点区域の設置】
- 2023年~【帰還困難区域と再生拠点区域】
福島に住む方々や住んでいた方々が、どういった経緯で避難生活を強いられて現在に至っているのか、知っていただく参考になれば幸いです。2023年8月現在でまとめています。福島県資料(経済産業省HPへの追記)を引用しています。
2011年3月11日~4月21日【震災直後】
3・11東日本大震災が起きました。
双葉郡大熊町にある福島第一原発では、津波による電源喪失、原子炉冷却ができなくなった結果、翌3月12日15時36分に水素爆発を起こすことになりました。その当時は被災地にとって、どれほどのダメージになるのか想像もできませんでした。
3月11日19時03分、原子力緊急事態宣言が発令されて
・20時50分 県が半径2km圏内に避難指示
・21時23分 国が半径3km圏内に避難指示、半径10km圏内に屋内退避指示
3月12日に原発事故が起きたことにより
・18時25分 国が半径20km圏内に避難指示
が出されました。
外に漏れた放射性物質の分布や量がわからなかったため、当初は福島第一原発から半径何kmという、大雑把な円で、避難指示、屋内退避指示のエリアを区切っていました。
(実際には、福島第二原発でも原子力緊急事態宣言が発令されましたが、第一に絞ってまとめています)
・避難指示区域「立入制限、退去命令」
→大熊町全域(福島第一原発がある町)
→双葉町全域(第一と北側で隣接)
→富岡町全域(第一の南側)
→浪江町、南相馬市の一部(第一の北側)
→葛尾村、田村市の一部(西側)
→楢葉町、川内村の一部(南側)
・屋内退避指示区域
→避難指示区域の外側、20~30km圏内まで対象
→広野町全域
→飯館村の一部
→いわき市の一部
2011年4月22日~【警戒区域の決定】
福島第一原発の水素爆発から少し時間が経ち、放射能汚染の状況が見えてくるようになると、その被曝状況は、地形や風向きの影響を受けて歪な形になっていることが明らかになってきました。
ここから「~区域」という分け方が変わり、以下の3パターンとなりました。簡易的に表現していますが、「避難指示区域」と「計画的避難区域」については、住民は避難しなければならない状況でした。
・警戒区域(避難指示区域)
→大熊町全域
→双葉町全域(第一の北側)
→富岡町全域(第一の南側)
→浪江町、南相馬市、葛尾村、田村市、川内村、楢葉町の一部
・計画的避難区域「20km圏外のうち、年間被曝量が20m㏜に達する可能性」
→飯館村全域
→浪江町の一部
→南相馬市の一部
→葛尾村の一部
・緊急時避難準備区域「20~30km圏内」
→広野町全域
→南相馬市、田村市、川内村、楢葉町の一部
2011年9月30日~【緊急時避難準備区域の廃止】
原発事故が起きた2011年の9月末になると、原子炉の状況や放射線量の調査が進み「緊急時避難準備区域」は廃止されました。
これで「警戒区域」と「計画的避難区域」の2つが残されたことになります。
2012年4月1日~【復興に向けた細分化】
原発事故の翌年、2012年4月1日になると、原子炉がある程度の冷却停止状態であることが確認できて「警戒区域」と「計画的避難区域」について、段階的に見直しが行われました。
より、住民の帰還と復興を念頭にした細分化でした。
・警戒区域
→そのまま「警戒区域」として残るエリアがあり、さらにその他のエリアが細かく分かれて、2012年12月10日になると、次のような状況でした。
・帰還困難区域「年間50m㏜を超えて、5年後も20m㏜を超える可能性」
→南相馬市、飯館村の一部
・居住制限区域「年間20m㏜を超える可能性」
→南相馬市、飯館村、川内村、大熊町の一部
・避難指示解除準備区域「年間20m㏜以下になることが確実で、一部事業の再開や立ち入りも可能」
→南相馬市、飯館村、田村市、川内村、楢葉町、大熊町の一部
2013年3月22日~【帰還困難区域の変化】
原発事故から2年が経過して、2013年3月から警戒区域の見直しが進み、5月28日には「警戒区域」という分け方が廃止されます。
もっとも復興から遠いエリアは「帰還困難区域」として表示されています。
・帰還困難区域
→双葉町全域
→浪江町全域
→南相馬市、葛尾村、飯館村、大熊町、富岡町の一部
双葉町と浪江町については、全町避難が続いていました。
2013年8月8日~【避難指示解除準備区域の縮小】
2013年8月8日には、最後に川俣町に残っていた「計画的避難区域」が「避難指示解除準備区域」に変わり、一歩前進したことで「計画的避難区域」は廃止となりました。
田村市、川内村、楢葉町における「避難指示解除準備区域」が段階的に狭くなっていきました。
2016年6月12日~【避難指示解除準備区域のさらなる縮小】
原発事故から5年以上が過ぎて、2016年6月12日以降はさらに見直しが進みました。
葛尾村については、避難指示解除準備区域と居住制限区域が全域で解除したが、帰還困難区域は継続。
川内村は、避難指示解除準備区域を解除。
南相馬市は、避難指示解除準備区域と居住制限区域が全域で解除。
2017年になると
川俣町は、避難指示解除準備区域と居住制限区域が全域で解除。
飯館村は、避難指示解除準備区域と居住制限区域が全域で解除したが、帰還困難区域は継続。
浪江町も同様に、避難指示解除準備区域と居住制限区域が全域で解除したが、帰還困難区域は継続。
避難指示解除準備区域と居住制限区域がどんどん縮小していくなかで、帰還困難区域は変わらず手が付けられない状況が続きました。
2017年4月1日~【居住制限区域と避難指示解除準備区域の廃止】
同じく2017年4月1日には
富岡町の避難指示解除準備区域が全域で解除、帰還困難区域は継続。
2019年4月10日には
大熊町は、避難指示解除準備区域と居住制限区域が全域で解除、帰還困難区域は継続。ここで「居住制限区域」というエリアがなくなりました。
双葉町の避難指示解除準備区域だったエリアが、2020年3月10日に解除されて「避難指示解除準備区域」というエリアも廃止となりました。
これで「帰還困難区域」だけとなり、住民が帰ることができるエリアが増えていったことになりますが、帰還困難区域はまだまだ(南から)富岡町、大熊町、双葉町、浪江町、葛尾村、飯館村と広い範囲で残っています。
その一部では「特定復興再生拠点」として「帰還困難区域」の解除も進みました。
2022年6月12日~【特定復興再生拠点区域の設置】
2022年6月12日以降も「帰還困難区域」のうち、避難指示を解除して居住を推進するエリア「特定復興再生拠点区域」が設置されました。
6月12日 葛尾村の「帰還困難区域」の一部。
6月30日 大熊町の「帰還困難区域」の一部。
8月20日 双葉町の「帰還困難区域」の一部。
このように「帰還困難区域」のなかでも、再生拠点を設置して復興を進める取り組みが開始しました。
2023年~【帰還困難区域と再生拠点区域】
2023年に入ってからも、特定復興再生拠点の設置は進みました。
3月31日 浪江町の「帰還困難区域」の一部。
4月1日 富岡町の「帰還困難区域」の一部。
5月1日 飯館村の「帰還困難区域」の一部。
これにより、福島第一原発の周辺にある6つの市町村(大熊町、双葉町、葛尾村、浪江町、富岡町、飯館村)で特定復興再生拠点が設置されて、他のエリアよりも先行して除染やインフラ整備が行わることになりました。
この特定復興再生拠点に注目して、福島を応援するのもアリだと思います。
避難解除を心待ちにして、前向きに捉える方々もいるでしょうし、複雑な心境、整理がつかない方々、様々な受け止め方があると思います。
放射性物質には境界線なんて関係ないわけですが、それでも少しずつ生活できるエリアを決定して拡大を続けることで、生活を取り戻したり、新しい取り組みも増えています。
被災された方の気持ち、そして復興に至る想いを理解するうえで、これまでに国が主導してどのように避難区域が変化したのか、知ってもらいたく整理してみました。
参考にしていただけると幸いです。