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全線開通から100年!【東野鉄道】わずか15年で廃線となった現在

この道はかつて東野鉄道の一部として、西那須野駅から那須小川駅までを結んでいたSLが走っていました。

2024年は全線開通からちょうど100年。東野鉄道は東野バス(下写真)へと姿を変え、関東自動車と合併した現在は、宇都宮の次世代路面電車LRTに出資しています。

大きな産業があるわけではないこの地域に誕生した東野鉄道、どのような歴史だったのでしょうか、そしてどのようなルートをたどっていたのか、紹介したいと思います。

ぜひ最後までお付き合いください。

 

西那須野駅→乃木神社前駅

西那須野駅(下写真)を出発します。

東野鉄道は、最初は西那須野駅から黒羽駅が開通して、その後に那須小川駅まで延伸しており、東に向かってから、大きく向きを変えて南に進むようなルートでした。

かなり珍しい例だと思いますが、東野鉄道の最初の4km程度は現在「ぽっぽ通り」という遊歩道として整備されており、当時のルートや資料をわかりやすく解説してくれています。

自転車を使って進んでみます。話は逸れますが、西那須野駅では観光目的であれば、無料で自転車を借りることができます。予約不可で台数制限があるのですが、それでもありがたい仕組みです。

 

最初の停車駅、乃木神社前駅に到着しました。

当時のホームとは場所がずれているようですが、東野鉄道の歴史について解説をしてくれています。

 

乃木神社前駅→大高前駅

乃木神社(下写真)は日露戦争など数々の戦場で、優秀な指揮官として評された乃木希典(のぎまれすけ)とその妻、夫婦を祀っている神社です。

乃木神社という名は日本各地にありますが、この地は乃木が何度も休職した際に、農業を営んでゆっくり暮らしていた地として知られています。

 

続いては大高(だいこう)前駅です。

大高駅前の大高は、地元の大田原高校の略称というか愛称です。かつては生徒が無理にSLを停車させて、そこに乗り込んだものだから、しょうがなく駅を設置したという、ホントですか?というエピソードも残っています。

 

さらに進むと、途中に迫力あるモニュメント(下写真)もあります。

この通りには「ぽっぽ」という言葉がついた幼稚園やクリニックもあり、廃線跡として地元でも定着しているのだと感じます。

 

大高前駅→大田原駅

4.2kmほど進むと、遊歩道は終わってしまいます。

ここからはクルマで廃線の形跡を追ってみます。

遊歩道が終わって、少しだけ進んだ場所に大田原駅はありました。

現在はドラッグストアがありますが、中心街に近く、何度もテナントが入れ替わっているのでまったく駅だった形跡はありません。

 

大田原駅→中田原駅

大田原駅があった場所を出発します。

すぐにお寺や川によって途切れてしまうのですが、この一帯ではSLが走っていた様子を垣間見ることができます。

生活道路から1本隣の道ですが、ここを進むと入口を赤レンガで囲まれたトンネルが現れます。単線だったのでこの幅で充分だったのでしょうが、住宅に囲まれてかなり不思議な雰囲気に包まれます。

このトンネルの出口側には行けないのですが、その先では蛇尾川(さびがわ)を渡っていた橋梁の土台(下写真)を見ることができます。

現在の橋から少しずれていますが、ここを渡ってさらに先の中田原(なかだわら)駅を目指していました。

中田原駅の形跡は残っておらず、場所も不明確ですが、おそらく上記地図のあたりだっと思われます。

 

中田原駅→金丸原駅→白旗城址前駅

中田原駅の次は、重要拠点であった金丸原(かねまるはら)駅です。

東野鉄道は最初の段階では、西那須野駅から次の黒羽駅までが開通しました。

当初は農作物の輸送だけでなく、金丸原にあった陸軍飛行場の物資輸送を目的として、1918年に開通しました。

その前の1908年には、西那須野から大田原までは人力で貨車を押す人車軌道があったので、元々物資を運ぶルートとしてニーズはあったのだと思います。

西那須野駅から黒羽駅の区間は、1968年までの50年間にわたり活躍しました。最終的には客数や貨物量の減少、災害復旧の負担が重く、廃線となってしまいました。

白旗城址(しらはたじょうし)前駅は、形跡が残っていません。

室町時代から戦国時代にかけて、白旗城はこの一帯の拠点でしたが、やがてその役目は黒羽城に移っていきました。

 

白旗城址前駅→黒羽駅

その先には、黒羽(くろばね)駅があった場所があります。

黒羽駅の周辺も店舗や住宅が並んでおり、残念ながらその跡形はまったく残っていません。

 

黒羽駅→狭原駅

黒羽駅を出発して、ここから方角を変えて南の方に向かいます。廃線跡はまた途切れてしまうのですが、細いルートでたどることができます。

黒羽駅から那須小川駅までは、少し遅れて1924年に開通しました。この延伸には大きな狙いがあり、那須小川駅から東に伸ばして茨城県まで繋げようという構想がありました。残念ながらその後の恐慌によって、茨城までの延伸計画は撤回となります。

そのような背景で黒羽駅より先が開通しましたので、この追加ルートは存在意味がなくなり、1939年たった15年で廃線となってしまいました。

 

湯坂川(ゆさかがわ)を渡る場所でも、橋梁の形跡(下写真)が残っています。

狭原(せばはら)駅は形跡が残っていませんが、下記地図のあたりだったのだと思います。

 

狭原駅→湯津上駅→笠石前駅

湯津上(ゆづかみ)駅、笠石前駅も残っていませんので、だいたい上記地図のあたりだと推測するしかありません。

笠石というのは笠石神社(下写真)のことを指しているのでしょうが、なぜ乃木神社前駅のような駅名になっていないのでしょうか。

笠石神社に祀られている石碑が、笠を乗せているように見えるので、笠石と呼ばれています。西暦700年頃に作られ、約1000年後に水戸黄門で知られる徳川光圀が、倒れている笠石を見つけて堂をこしらえたそうです。

ひっそりした存在感ですが、なんと国宝に指定されております。地元の方々にとっては笠石は特別な存在で、笠石前という駅名の方がハマったということではないでしょうか。

 

笠石前駅→佐良土駅

現在の「なかがわ水遊園」の近くに佐良土(さらど)駅はありました。

何とか形跡が残っています。

廃線から85年経っていることを考えると、よく残ってくれていると感じます。

 

佐良土駅→那須小川駅

佐良土駅を出発して、箒川を渡るところで、また橋梁の土台部分(下写真)を見ることができます。

このあたりは良くも悪くも、ほとんど開発や道路工事が行われなかったことがわかります。ここから南に進むと、終着駅の那須小川駅です。

那須小川駅のあった場所は、現在は小川中学校となっています。当時から駅と学校が同時に存在していたようなので、おそらく駅舎が不要となってから学校が移動したのだと思われます。

 

いかがでしょうか。

途中の黒羽駅までが開通してから106年、全線開通してから100年が経過しました。今の時代にこの線路が茨城まで接続して、常磐線や真岡線とも連絡していれば、北関東北部のアクセスはかなり変わっていたのではないでしょうか。

東野鉄道は、その先に観光資源となるものが皆無だったことが不運としかいいようがありません。

後半の線路は廃線から85年が経過していますが、その割には廃線の形跡がどうにか残っていて追いかけることができました。ポッポ通りだけでなく、この歴史を残してもらいたいと思う次第です。

 

 

最後までお読みいただきありがとうございます。