tochipro

キャリア・短編小説・NIKKO・Fukushima

東北本線旧線を追いかける【黒磯駅~白河駅】30年足らずで廃線となった難所

今回の記事では、明治24年(1891年)に開通した頃の東北本線を追ってみたいと思います。

明治中期の開通でしたが、当時はまだトンネル技術や橋梁技術が未熟であったため、急な坂や難しい川を避けるために大きく遠回りをして線路を引く必要がありました。

わずか30年程度でルートが変更となり廃線となった、東北本線の旧線は現在どのようになっているのでしょうか。

ぜひ最後までお付き合いください。

 

今回紹介するルートは、栃木県黒磯駅から福島県白河駅まで、約30km程度の区間です。現在の道路をクルマで走れば、60分もかからない距離ではありますが、途中には険しい山や川があるため、ここを線路で結ぶのはかなり大変であったと察します。

当初の東北本線(旧線)と現在の東北本線、そして東北新幹線のルートを比べてみると、明らかに直線的に進化していることがわかります。

 

黒磯駅→高久駅

黒磯駅を出発して、かつての東北本線をたどってみます。

黒磯駅(下写真)は、栃木県以外の方には馴染みがないかもしれませんが、JR首都圏エリアで suica が使える最北端の駅です。

走り出すとすぐに那珂川に遮られて、遠回りをすることになりますが、この場所で旧線の橋梁の形跡を見ることができます。

現在の東北本線とほぼ同じルートではありますが、旧線で使用していた橋梁の土台部分(上写真)が赤いブロックとなって残っています。

高久駅までのルートは、現在はショートカットして直線的になっていますが、旧線の当時は大きく膨らんで走っていました。

 

高久駅→黒田原駅

高久駅の位置は、旧線の時代からほぼ変わっていないと思われます。

旧線は現在の東北本線より、少し東側を走っていました。そちらまで回り込んで旧線を追いかけてみます。

もうすぐ黒田原駅という場所に、余笹川橋梁があります。

こちらも旧線の形跡が残っています。

少しわかりにくいのですが、橋桁の下の部分に赤いブロック(上写真)が残っています。このあたりは完全に、現在の路線と旧線は重なっていることがわかります。

 

旧黒田原駅を目指すと、途中から現在の路線と旧線が分かれていきます。旧線は緩やかに右に曲がっていきます。

当時は、現在の那須町役場(下写真)の場所に黒田原駅がありました。

 

黒田原駅→豊原駅

那須町役場の裏側に、かつては資料館もあったようですが、現在は跡形もなくなってしまいました。

この区間は、ほぼ完全に旧線だったルートが道路に転用されていますので、当時の景色をイメージしながら走ることができます。

当時はまだ珍しかった蒸気機関車で緩やかにアップダウンしながら、当時も静かな農村を眺めていたのかな、と思うと感慨深いものがあります。

 

豊原駅→白坂駅

現在の豊原駅(下写真)です。

現在の路線と旧線は大きく様変わりしており、現在の駅を新設する際に高台に移転したようです。

少し進むと、豊原駅があったであろう場所を通り過ぎて、栃木県と福島県の県境になります。

この場所、現在の東北本線の下を通り抜けるとても豪快な景色ですが、鉄道マニアの撮影スポットとして有名なようです。

このあたりの東北本線も、現在はかなりショートカットして直線的に走っていますが、当時は遠回りをしていました。それでも坂を登り切れなくて人力で押したり、なかなか大変だったようなので、アップダウンをなるべく減らすためのトンネル工事、橋梁工事が急がれていたことでしょう。

白坂駅は、旧線の当時とほぼ変わらない場所に建っています。

ここを出発すると、すぐに白河の市街地に入り、目的地の白河駅です。

 

白坂駅→白河駅

白河駅までのルートは、土木工事の影響で廃線になったわけではなく、新白河駅の開業や住宅街の整備によって、跡形が消えてしまったように感じます。

一度完全に旧線の形跡が切れながらも、現在の白河駅を目指します。

白河駅(下写真は大正時代)は、明治20年8月19日の皆既月食の観測するために急ピッチで建設されました。

蒸気機関車の航続距離が100km程度なので、およそ100kmごとに石炭や水を補給する機関区が必要となるわけですが、開通後の白河駅は機関区の役目を担っていた重要拠点でした。

やがて時代は変わって、白河駅は在来線列車と貨物列車が行き交うだけの駅になってしまいましたが、2009年にリニューアルされてオシャレな駅舎の駅(下写真)として注目されるようになりました。

瓦屋根が特徴の、大正時代を彷彿とさせる外観です。

 

開業時は現在よりも東側に位置していました。その後大正9年(1920年)に、白坂駅からのルートが変更になることに伴って、現在の場所に移転しました。

開業時、白河駅が建っていた場所に行ってみましょう。

おそらく、右側の高台になっている部分が旧白河駅だった場所と思われます。

 

わずか30年で線路を付け替えするなんて、当時の土木工事の技術は、ものすごいスピードで進化していたでしょうし、もっともっと早く安全に、という近代日本の勢いを感じますね。

 

白河市について

最後に、みちのくの玄関口として知られる、白河市について紹介します。

古代より白河の関として、交通や文化の要所となっていた白河市ですが、現在の姿になるきっかけとして、江戸時代の名君、松平定信の影響がかなり大きかったようです。

徳川吉宗の孫として誕生した定信は、松平家の養子となって白河藩主に就任、その手腕を幕府に高く評価されて、1787年から寛政の改革を行いました。

江戸幕府の財政を赤字から黒字に転換した功績が有名ですが、その手腕は元々白河藩で発揮されていたわけです。

寛政の改革後は、再び白河藩に戻り、隠居生活をしながらも様々な取り組みを進めました。

・冷害に強いそばの栽培を推奨

・伊丹から杜氏を呼んで日本酒造りを推奨

・白河だるまの普及

・茶道や和菓子文化の普及

・日本最古の一般庶民も楽しめる公園の築造

こういった、白河が後世にわたって栄えるように、産業の原型を残していきました。

南湖公園(上写真)は、その享和元年(1801年)に松平定信が手掛けたものです。

武士も庶民も分け隔てなく楽しんでほしい、という想いで造られた公園、武士社会だった当時の感覚では、かなり画期的な取り組みだったと察します。現在も大切に残されているこの姿や精神を、今後も引き継いでいきたいものです。

 

 

東北本線の変遷から、白河市の歩みまで紹介させていただきました。

最後までお読みいただきありがとうございます。