同じ栃木県にある塩原温泉と鬼怒川温泉、どちらも行ったことがあるよ!という方は、どのくらいいらっしゃるでしょうか?
知名度が高い2つの温泉地ですが、それぞれの特徴を私なりにまとめてみました。関東でも有数の温泉地となるまでの歴史、そして残された廃墟は何を物語っているのでしょうか。
高度成長期を背景に、銀行や旅行代理店のプッシュで大ブレイク。その後に得たもの、失ったものとは何だったのか...私なりに検証してみました。
ぜひ最後までお付き合いください。
まずは塩原温泉と鬼怒川温泉について、基本的な情報を紹介します。
アクセス
塩原温泉
塩原温泉のアクセスは、お世辞にもスムーズとは言えないのが、良くも悪くも大きな特徴です。そのため、大勢の観光客が押し寄せるというよりは、温泉街の風情を楽しみたい方にピッタリなイメージです。
JRの最寄りの駅、那須塩原駅からは25km(約40分)離れています。
野岩鉄道、会津鬼怒川線もありますが、上三依塩原温泉口から12km(約20分)離れており、バスを使うにしても、ちょっと下調べが大変な感じです。
マイカーであれば、西那須野塩原ICから15km(約30分)です。シーズンによっては那須高原に向かう渋滞と重なりますが、途中の景色も緑に囲まれて自然たっぷりです。
その他にも、高速バスを利用するなど移動手段はいくつかあるのですが、基本的にはマイカーで行くのがおすすめのロケーションです。
鬼怒川温泉
鬼怒川温泉のアクセスは、鉄道の発展と二人三脚だったこともあり、東武鬼怒川線の利便性が高いことが特徴です。線路が鬼怒川温泉を縦断しており、駅からのダイヤルバスを使うことで温泉ホテルまでスムーズに移動することができます。
マイカーの場合でも、もっとも近い今市ICからは14km(約30分)、渋滞を避けて土沢ICや大沢ICから一般道を使っても、鬼怒川温泉の中心地まで20km未満です。
誰と行くのか、どこに寄るのか、旅行の中身によって移動手段が選べるのは、塩原温泉と比較すると大きな武器だと感じます。
温泉地としての歴史
塩原温泉
塩原温泉の歴史は古く、今から1200年以上前の806年頃に発見されたと伝わっています。塩原温泉は全部で11ある温泉の総称なので、塩原温泉郷という呼び方の方が正確かもしれません。そのうちの1つ、元湯地区で狩人(または修行僧)が最初の源泉を発見しました。
場所が場所なので、人々が集まるようなことがないまま19世紀後半まで続きますが、1884年に塩原に通じる道路、1886年に那須塩原駅まで鉄道が通じるようになると、徐々に温泉旅行を目的に足を運ぶ人が増えました。
有名なところでは、夏目漱石や与謝野晶子が喧騒を忘れて執筆に専念するために、塩原温泉に滞在しています。
11の異なる泉質の温泉は、保養地として知られるようになりましたが、大きな転機が訪れたのは、昭和27年(1952年)の塩原東京ホテル(現在のホテルニュー塩原)が開業したあたりからでしょう。
保養地としての塩原温泉、ひっそりとした塩原温泉において、徐々に大型ホテルが増えていくようになります。マイカー時代が訪れた波にも乗って、首都圏から3時間で行ける温泉地ということで注目を浴びました。
この頃には高度成長期を迎えて、バラエティに富んだ温泉や豊富な湯量を誇っていた塩原温泉の看板は傾いてしまいました。社員旅行に便利な、大勢で泊まれる割と近い温泉、そのイメージが前面に出てしまったと感じます。
鬼怒川温泉
鬼怒川温泉の歴史は比較的浅く、1691年に沼尾重兵衛によって源泉が発見されました。場所が日光山領だったこともあり、江戸時代は湯治場として一部の大名や僧侶しか使えない温泉でした。この背景には、沼尾一族だけが温泉の恩恵を受けて裕福になってしまったので、周辺のやっかみによって幕府に取り上げてもらった、という説もあるようです。
そんな感じで、あまり認知されていなかった温泉でしたが、江戸時代が終わったことを機に、一般開放されるようになります。
明治6年(1873年)星次郎作が新たに源泉を発見します。
明治21年(1888年)には、鬼怒川温泉で最初の旅館である麻屋旅館が開業します。
大正時代に入ると、鬼怒川上流でダム工事を行ったことによって水位が下がり、源泉が次々と発見されるようになりました。さらにダムや発電所の建設のために馬車鉄道が敷かれたことも鬼怒川温泉にとって追い風となります。
源泉を発見した星次郎作の尽力によって、馬車鉄道を活かして藤原軌道が誕生、その後に下野電気鉄道と改称します。大正14年には星野屋旅館を開業したことで、電車を使って温泉旅行に行く、という必勝パターンを完成させていきます。
昭和2年の鬼怒川温泉には、麻屋旅館(現在のあさや)、大滝館(現在の鬼怒川温泉ホテル)、星野屋旅館(その後の元湯星のや)の3軒が建っていましたが、源泉の発見、鉄道網が比較的早くから整ったことで、昭和5年には9軒に急増しました。
昭和10年(1935年)には、浅草から鬼怒川温泉までの特急運転が開始しました。こうして、鬼怒川温泉は大正時代から昭和の高度成長期にかけて、大勢の団体客が押し寄せる一大温泉地として迷うことなく突き進むことになります。
塩原温泉と大きく異なるのは、東武鬼怒川線が開業したことで、マイカー時代が訪れる前から急拡大したことです。浅草から2時間台で行ける大宴会場を武器に、鬼怒川の両岸に大型ホテルが建ち並び、社員旅行全盛の高度成長期、バブル期を迎えることができたわけです。
温泉旅館から巨大ホテルへ
塩原温泉、鬼怒川温泉ともに、日本が高度成長期を迎えた1950年代には大ブレイクして、大型ホテルが立ち並ぶイメージが定着しました。この大ブレイクを実現するために、栃木県の足利銀行の存在がかなり大きかったのは間違いありません。
当時の足利銀行は、急成長の地銀として全国的にも注目されていました。
積極的に栃木県内の温泉旅館に融資することで、温泉旅館は増築したり、大宴会場を追加したり、巨大なロビーや大浴場を整備して、洋風の巨大ホテルへと変わっていきました。収容人数が増えたことで、社員旅行のような団体客が入って売上が激増、銀行にとってもホテルにとっても、WINーWINの関係です。
この融資の実態は、当時「折り返し融資」と呼ばれたほどで、温泉旅館に数億円単位の融資を行って増築、返済できたらそのお金をまた貸し付ける、という自転車操業に近い攻めすぎ手法によって、ごく普通の温泉旅館は異次元のスピードで巨大ホテルへと成長したわけです。
アクセスが弱い塩原温泉、新興温泉地として歴史が浅い鬼怒川温泉でしたが、数十人、数百人の社員旅行を収容できる巨大なホテルが乱立したことで、乱暴な表現ではありますが、見た目も中身も同じような発展の仕方になりました。
特色を忘れた温泉地
塩原温泉、鬼怒川温泉が巨大な温泉観光地となるまでの流れを解説しましたが、2000年代に入って大きくつまずくことになります。バブル崩壊の後遺症です。
バブル経済の崩壊自体は、1990年~91年に起きていましたが、サービス業の現場には時間差で影響が出てきていました。景気が悪化しても、客足がゼロになるわけではないので、毎日ちょっとずつは入金があり、さらに資金繰りが苦しくなっても足利銀行がとりあえずの融資をしてくれて、どうにか生き延びていたような構図です。
客数が減っている状況では、ホテルにしてみたら融資を受けられたとしても返済できるかどうかわかりません。同じ自転車操業でも、「折り返し融資」とは比べものにならないくらい深刻です。
景気が悪化したことで、日本中の会社が社員旅行どころではなくなり、それと同時に個人旅行のスタイルがどんどん広がっていきました。会社と社員が一心同体の時代が終わったのです。
そうなると、社員旅行のような団体客を迎えるために増築した巨大なホテルは、個人旅行にはまったく不向きになります。大宴会場はいらないですし、そもそも大きいハコがあるから塩原温泉、鬼怒川温泉を選んでいた背景がありましたので、こういった団体客をターゲットにしていた温泉ホテルは、時代の変化に対応できなくなりました。発展が早すぎたこともあって、古くて大きい建物だけが残された状態です。
もちろんホテル側だって、そのままでいいはずはないので、できる限りの対応はしていたでしょう。しかし残念ながら、変化に乗り切れず思考停止になってもしょうがない背景はありました。
塩原温泉、鬼怒川温泉が大きく発展したのは、東京から近い立地、それを武器に増築戦略にアクセルをかけた足利銀行の存在が大きいのですが、もうひとつ大きな要因となったのは旅行代理店の存在です。
黙っていても旅行代理店が、どんどん団体客を送り込んでいた時代です。
巨大ホテルにとっては、どうしても個人客は後回しになってしまいます。さらには、ホテル側が独自のサービスやプランをやろうとすると、旅行代理店から「余計なことをやらないでください」とクレームが入っていたそうです。
こうして、ホテルが新しい挑戦をする芽がどんどん失われて、牙を抜かれた状態が温泉地一帯に広がって、当然ながら「特色ある温泉街にしよう」という機運もきっかけもなくなってしまいました。
もちろん、銀行や旅行代理店の存在を全否定するわけではなく、その勢いがありすぎて迷子になってしまったと感じています。
東京の言うことを聞いていればどうにかなる...そんな姿勢は、ひょっとしたら今でも残っているかもしれません。
難しい地域全体復活
こうして塩原温泉と鬼怒川温泉は、地域全体の特色を出すどころでなく、個人競技を走ってきましたが、その復活に向けてもたくさんの難題が待っていました。
その最たるものは、足利銀行の国有化です。
足利銀行の国有化によって、とりあえず運転資金を融資してもらう自転車操業すらできなくなり、銀行は自分の建て直しに注力することになります。
さらに追い討ちをかけたのが、温泉ホテルの再建方法が大きく分かれてしまったことです。それまでの足利銀行は、地域全体の再建を目指して支援していたわけですが、ホテルが100軒以上ある状況では支援するにあたって、どうしても選択と集中が必要になります。
かなりざっくりと分けると、産業再生機構の支援を受けるホテル、民事再生法の適用を申請するホテル、自力再建を目指すホテルの3パターンに分かれます。
特に産業再生機構の支援を受けるホテルは、厳しい経営責任を問われる代わりに、過剰投資に使った借金が帳消しになるので、経営的にはメリットが大きいです。塩原温泉では1軒、鬼怒川温泉では4軒のホテルが産業再生機構の支援を受けて、数十億レベルの借金が穴埋めされました。
鬼怒川温泉では、約10軒は支援自体を拒否、その他の約10軒は支援を求めたが基準をクリアできませんでした。
私の解釈ではありますが、産業再生機構の支援を受けるホテルは、バブル期に強気で大型投資をしたことで、返済できなくなったけど今後成長するだろうホテル、という選ばれ方だったと感じます。
銀行にとっても、どうせ借金が帳消しになるなら、大きいホテルが産業再生機構の支援を受けてくれた方が、銀行の財務状況改善に繋がりやすいのはしょうがないことです。
そうすると、無理な借金を背負って増築せずに、コツコツと堅実経営をしてきたホテルとしては、なかなか納得できない感情があると察します。そもそも帳消しにする借金がないのは良いことですが、一方で過剰投資をしてきたホテルの借金だけは帳消しになって、同じエリアでハンデなしの勝負を挑むことになります。
とはいえ、せっかくの支援を拒否したホテルがあるように、産業再生機構の支援を受けるダメージも非常に大きいものでした。地元の名士としては、経営の第一線から身を引くことは相当な抵抗感があったと思います。
ここで表現したいのは、支援を受けるホテル、そうでないホテルがあり、その分断を強調したいわけではありません。こういった経緯があったことで、塩原温泉や鬼怒川温泉が、温泉街として一体感を持って復活できなかったのは、不景気になったこと以上に長期的なダメージになりました。
温泉街として進化するには?
塩原温泉、鬼怒川温泉ともに、廃墟のようなネガティブなイメージで有名になってしまいましたが、個々のホテルの努力はありますし、もっともっと魅力的な温泉街になると感じます。
まったくの素人目線ではありますが、それぞれの温泉地が目指す方向性を考えてみました。そのヒントはランドマーク、つまりそのエリアのシンボル的な建物にあります。
塩原温泉
塩原温泉には日本最大級の足湯「湯っぽの里」があります。行政が主導して、2006年に開業したこの足湯施設は、閉館したホテルの跡地に建てられました。
見た目にも存在感があり、温泉の種類が豊富、湯量もたっぷりの塩原温泉を象徴する存在になっています。
願わくば5億円以上の予算をもう少し建物以外にも配分して、この場所だけで11種類の泉質を体験できたり、周辺の景色も情緒ある温泉街を演出できたら、かなり人が集まるスポットにできたのかな…と感じます。
とにかく温泉の種類と量では、他の温泉地には負けないと思いますので、その魅力が伝わり切っていないのはもったいないことです。見せ方が良くなれば、塩原温泉はもっとブランド力がある温泉街になりそうです。
鬼怒川温泉
あなたは鬼怒川温泉をイメージする時に、何を思い浮かべるでしょうか。
そんなデータはないのですが、私の独断では、ある固有のホテルだったり、日光江戸村、東武ワールドスクウェアなど、アミューズメント施設ではないでしょうか。
鬼怒川温泉を温泉街として魅力を爆発させるためには、ファミリーに特化して「遊べる温泉街」を前面に出してみたらいかがでしょうか。
現在でも、そのようなアミューズメントはたくさんあるのですが
「鬼怒川といえば〇〇」
といった共通のイメージ戦略はないように感じます。
絶叫型の体験系、大自然に飛び込む系、山と川に囲まれて飲み歩き、温泉が主役の水遊びなど、ホテルに宿泊する以外の大きなキーワードが欲しいところです。
まとめ
塩原温泉と鬼怒川温泉を比較しながら、共通する歴史と背景にも触れてみました。
どちらも栃木県民が誇りに思えるような温泉地です。振り返れば何とでも言えますし、私の解釈も入っていますので、そのあたりも踏まえて楽しんでもらえると幸いです。