最寄りのインターチェンジから1時間、東京から200キロ弱も離れた「湯西川温泉」をご存じでしょうか?現在は日光市の最北端のエリアですが、合併する前は栗山村という栃木県最後の村でした。
アクセスはお世辞にも良いとはいえず、周辺だけでなく途中の道路にもファミリーで遊べる施設は皆無の、あまりにストイックで渋すぎる温泉観光地です。
その湯西川温泉、他の温泉とはまったく異なる歴史を歩んでいます。知名度の高い鬼怒川温泉、川治温泉をわざわざ通り抜けてまで足を運ぶ価値が、どこにあるのでしょうか。
今回の記事を通じて、少しでも魅力を感じていただけるとうれしいです。
平家の末路
湯西川温泉の源泉発見は、平安時代後期、源平合戦の頃までさかのぼります。
平家物語の序盤の主人公、平清盛は太政大臣、実質的な最高権力者となり政治を思うがままにしていました。「平家にあらずんば人にあらず」という、炎上確実な表現が有名ですが、1181年に亡くなったあたりから勢いを失っていきます。
1185年、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いなど大きな戦いにおいて、源氏のルーキー、源義経の大活躍により、平家の時代は終わりを告げました。
平家は壊滅的な状況となりましたが、一族はバラバラに日本各地で散って、平家の落人(おちうど)として定着しました。落武者というのは、武士を指すので、武士以外も広く指す言葉として落人が使われています。
平安時代の絶頂期を築いた平清盛、その長男の重盛(しげもり)、その重盛の五男(六男?)である平忠房(ただふさ)が、湯西川温泉の物語に関わってきます。
清盛の孫にあたる忠房ですが、歴史の資料では紀州(現在の和歌山県)で囚われてしまいますが、この忠房が実は身代わりであったという設定が、この物語のポイントです。
忠房は身を隠すために、名を忠実(ただざね)と変えます。ちなみに、忠実は忠房の子であるという説もあります。
かつて平家との縁があった宇都宮朝綱を頼り、下野国(現在の栃木県)に200人程度でたどり着き、鬼怒川温泉のさらに北、鶏頂山に隠れ住むようになりました。しかし、男子が生まれたことを機に、のぼりを上げて祝ったところ、源氏に発見されて奇襲を受けます。
さらに40km前後も山奥へと進み、たった40人で湯西川に着きます。のぼり1つで相当な大ダメージでした。
地元で聞いた話でも、湯西川エリアでは現在も、大々的に鯉のぼりを上げたり、煙を立てたり、鶏を飼うことはないようです。
そんな逃避行の末に、平家の落人が湯西川にたどり着いたことは、歴史の大きな転換点になりました。
源泉の発見
平家の落人が湯西川で暮らしはじめて、ある冬のことです。雪が降っても積もらない場所があることを発見しました。このように、源泉の発見は平家によるものでした。
この発見が忠実によるエピソードなのかは不明ですが、多くの温泉地とは異なり、たまたま後から流れ着いた平家が源泉を発見したのは面白いところです。
湯西川温泉は800年以上の歴史があるので、鬼怒川温泉などと比較してもかなり歴史は古いのですが、場所が場所なだけに、湯西川温泉は注目されることなく数百年の年月が過ぎていきました。
1573年、平忠実から11代、伴忠光(ばんただみつ)が同じように雪が積もらない部分を掘り起こし、改めて源泉を発見しました。大昔に平家が埋めた財宝も発見して、療養目的で湯西川温泉が活用されるようになります。
観光という考え方がなかったので、一帯の住人は狩猟や木彫り工芸で生計を立てていました。その様子は「平家の里」の復元でも見ることができます。
温泉街の雰囲気が出てきたのは、江戸初期の1666年です。伴忠光の子孫によって、湯西川温泉に本家伴久(ほんけばんきゅう)という温泉旅館が創業しました。栃木県内でも歴史の長さトップ10に入る会社として、現在に至っています。
話は脱線しますが、1994年に「平家の里」において、源氏と平家の和睦イベントが行われました。
平家物語の舞台、源平合戦は日本史上初めて、国内を二分するような大きな争いが行われました。そのまま和解するきっかけもなく、800年以上が経っている状態でした。
源氏の末裔と平家の末裔が「平家の里」に会して、過去の清算が行われました。平家末裔の代表は、本家伴久の25代です。
ちなみに、伴忠光が温泉を再発見した頃から、平家の末裔は「伴」の姓を名乗っています。これは身を隠すために「平家の人」の「人」を「にんべん」にして「平」を崩した「半」を合わせて「伴」とした経緯があったようです。
旧栗山村について
この湯西川温泉のある場所、現在は日光市にありますが、合併する前は栗山村でした。福島県に接しており、群馬や新潟にも近いエリアです。
明治22年(1889年)に9つの村が合併して、栗山村となりましたが、2006年の平成の大合併で日光市の一部となります。旧栗山村には、蕎麦をはじめ農作物、林業、加工業、数々のダムや温泉地がありますが、人口減少、過疎化が進んでしまっている地域です。
自然に囲まれた名湯
湯西川温泉は、良くも悪くも他の観光地とは離れています。
せっかく同じ市になった日光東照宮は、道一本で行けますが、50kmも離れています。
遊べる施設が多い鬼怒川温泉からも30km離れていますので、本当に静かな環境で温泉旅行を楽しみたい方にピッタリです。冬はかまくら祭り、新緑や紅葉の季節、夏の避暑地としてリピートする方も多い印象です。
日光には、日光街道、いろは坂、霧降高原など美しい道路が多いのですが、個人的には湯西川温泉に繋がる道路も素晴らしいと思います。坂を登りまくる、というよりは比較的平らな道路を奥へ奥へ進む感じです。大自然やダムに囲まれてトンネルも多く、他では味わえないドライブを楽しめます。
ちなみにこの日は7月下旬、日光市街地は35℃、鬼怒川温泉は30℃、湯西川温泉は28℃でした。
湯西川の伝説は本物か?
教科書で教わるような平家物語、その続きが湯西川まで繋がっているなんて、とてもロマンのあるストーリーです。このストーリーについては、懐疑的な見方が多いのも事実です。
平清盛の孫にあたる忠房が捕らえられた際に、実は身代わりだったという前提がかなり無理があるかな…というのが正直なところです。実際に、記録によって平家に関する記述が微妙に違っています。平家の落人伝説は湯西川だけでなく、栃木県内だけでもあちこちに残っていて、どこからがフィクションなのかわかりません…
この忠房が、宇都宮朝綱を頼りに現在の栃木まで移動したというのも、時代背景を考えるとちょっと無理があります。源氏のホームが関東であることを考えると、リスクが大きすぎます。
なんとしかし、同じようなエピソードが記録に残っています。
同じ時代の平家、平貞能(たいらのさだよし)が、宇都宮朝綱を頼って栃木に来た記録が残っています。かつて貞能は、宇都宮朝綱を平清盛の手から救ったり、母方が宇都宮氏であり、那須塩原などにも記録も残っていますので、こちらの精度は高いと感じます。
湯西川との接点は、残念ながら記録として残っていません。
ここからは勝手な想像ですが、個人的には湯西川に残る伝説は、貞能のエピソードのスピンオフだったのかな、と捉えています。貞能の一行のうち、一部が湯西川に残ったのかもしれないですし、あえて湯西川を目指した者がいたかもしれません。
湯西川に至る道には、大きな滝もなく、急勾配を登山をするような場所はありません。ひたすら奥へ奥へ、という場所なので、そういった意味では要塞のような場所だったと察します。
何かしらの経緯で湯西川に定住した平家の落人が、源泉発見に関わり、さらにその末裔が温泉旅館を創業して発展した湯西川温泉、いかがでしたでしょうか。
温泉地としての素晴らしさもありますが、平家物語の最終章ともいえる伝説に想いを巡らせていただければ幸いです。