すでに廃線から90年が経過している塩原電車は、ほとんど資料も写真も残っておらず、戦前のうちにいち早く消えてしまった路線です。
開業してからは、塩原温泉までの延伸を計画したり、矢板線と接続する構想もあり、実現していたら面白かったのですが、マイカー時代と競合する前に廃線となってしまいました。
塩原温泉への移動手段として大いに期待されていた塩原電車、どのような歴史を歩んできたのでしょうか。
廃線跡を追いかけながら、振り返ってみたいと思います。
- 塩原軌道の誕生
- 塩原電車の可能性
- 塩原電車の不運① 完成しなかった水力発電所
- 塩原電車の不運② 観光のキラーコンテンツがなかった
- 塩原電車の不運③ 昭和金融恐慌
- 塩原電車の不運④ 乗合バスが前提の鉄道路線
塩原軌道の誕生

西那須野駅(上写真)を出発して、終点の塩原口まで向かいます。
塩原電車は明治45年(1912年)に、西那須野駅から関谷までの区間で開業しました。1000年以上の歴史をもつ塩原温泉(下写真)は、多くの文豪や著名人に愛されており、かねてから鉄道のニーズがあったようです。

鉄道建設に並行して、険しい地形を利用した水力発電所を建設する計画もあったようですが、こちらは撤回になってしまいました。
発電事業がうまくいけば、電車として開業することができたのですが、蒸気機関車で「塩原軌道」として走り出すことになりました。

蒸気機関車ということで、安全性に対する地元の反対運動もあったのですが、営業時間の制限を設けるなど対策して、どうにか開業することができました。
ところが開業直後には社長の不正経理が発覚、蒸気機関車の能力不足、そして関谷から肝心の塩原温泉までが遠いこともあり、当初から苦難続きだったようです。
塩原電車の可能性

しばらく経った大正9年(1920年)あたりから、反転攻勢がはじまります。
より塩原温泉の近くまで延伸することが決定、さらには、蒸気ではなく電気で走ることになりました。
こうして「塩原電車」となってからは、塩原口まで延伸して、そこから塩原温泉までは連絡バスを使ってアクセスすることができるようになりました。この頃には塩原温泉の中心街までさらに延伸する計画もあり、これが実現していたら電車に揺られて塩原温泉に旅をする光景が見られていたわけです。

6代目社長として就任した植竹龍三郎によって、矢板駅への接続を構想したり、発電所を開設したり、経営が上向きかけていましたが、昭和金融恐慌によって観光客が激減。その少ない観光客を乗合バスにも奪われてしまい、昭和7年(1932年)に休止となってしまいました。
開業から約10年で塩原口まで延伸して、その約10年後には休止ということで、本格的なマイカー時代になる前に、早々に表舞台から消えてしまいました。

すでに廃線から90年が経ち、実際に利用した方は数える程度でしょうし、ほとんど形跡が残っていません。同じ栃木県の鬼怒川温泉のように、鉄道が温泉街の中心街まで延伸していれば、また違った歩みだったかもしれないのは本当に残念です。
塩原電車が早々に廃線となった要因はいくつもあると思いますが、主なものをピックアップしてみます。
塩原電車の不運① 完成しなかった水力発電所
水力発電所とダムを建設するために、一気に馬車鉄道が普及した鬼怒川は、その廃線跡を鉄道に転用することでアクセス良好の一大温泉地となりました。その一方で、塩原温泉でも発電所建設の計画はあったのですが、おそらく地形的な難易度によって見送られたのだと察します。
塩原電車の不運② 観光のキラーコンテンツがなかった
初代社長の退陣を引き金に、わずか20年強の歴史で何度も社長が入れ替わりました。
6代目の植竹龍三郎が就任したのが大正14年(1925年)、翌年には日光から矢板を結ぶ矢板線の社長も務めて、関谷から矢板に接続する構想もありました。さらに兄は、西那須野駅から東に進む東野鉄道の社長を務めていましたので、栃木県北の一大ネットワークを築いていた状態です。

しかしながら当時の県北は、塩原温泉を除くと観光地といえるものが皆無で、その一大ネットワークが実力を発揮することはなかったようです。特に日光における中禅寺湖のような、外国人からの支持を集めるキラーコンテンツがないことは致命的でした。
塩原電車の不運③ 昭和金融恐慌
昭和時代になってすぐに起きた金融恐慌は、塩原電車にとってはタイミングが最悪でした。塩原温泉の中心街まで延伸しようとしていたり、矢板線との接続を試みたり、反転攻勢をかけていた頃に観光客が激減してしまいます。
沿線住民の数も少ないことは、先行きに希望が見えない状態でした。
塩原電車の不運④ 乗合バスが前提の鉄道路線

塩原電車にとって最大の壁になっていたのは、間違いなく塩原温泉の立地です。現在でこそトンネルを使って直線的に通り抜けられますが、線路を引くにはあまりに険しく、終点の塩原口からは乗合バスを使うことが前提でした。
当然のように、本格的に乗合バスが普及してきたことで、西那須野駅付近からバスを使えば乗り換え不要で塩原温泉にたどり着きます。

塩原電車も最初からあと数キロ延伸していれば、バスと充分に競合することができたでしょうが、当初から乗合バスと連絡する前提だったことで存在感は下がっていきました。
こちら塩原口です。


この付近は乗り換えポイントということで、賑わっていた時期もあったようです。
90年という長さは、3世代くらい前の時代ですので、形跡が何も残っていないのはしょうがないですが、もし塩原温泉に足を運ぶ際にはこういった歴史も思い出してもらえたらうれしいです。