日本が高度成長期に入った頃、団体旅行ブームの申し子となった岡部ホテルグループをご存じでしょうか。
経済成長、人口増加、団体旅行の広がりを背景に、大ブレイクした温泉ホテルです。
その歩みを振り返りながら、なぜ大ブレイクできたのか、そしてなぜ現在は廃墟になってしまったのか、原因を考察してみます。
塩原東京ホテルの誕生
岡部ホテルグループの成り立ちは、戦後の混乱が多少は落ち着き、朝鮮戦争による特需が起きた1952年までさかのぼります。
東京で機械関連の会社経営をしていた岡部脇太郎氏が、塩原温泉に塩原東京ホテルを建設したことから歴史がはじまりました。現在の場所で表すと、湯仙峡が建っている場所が創業の地ということになります。
業界が全然違うこともありますし、なぜ遠く離れた塩原に進出したのか、この背景は謎ではありますが、翌年の1953年には鬼怒川温泉に、鬼怒川観光ホテル(水明館)を建設しました。
何かしら栃木との繋がりがあったか、誰かにホテル経営を提案されたのか、わかりませんが、このホテル業への進出は結果的には大成功を収め、塩原東京ホテル、鬼怒川観光ホテルを拠点として、どんどん拡大していきます。
増築や別館が正解だった時代
塩原東京ホテルは、1965年から「東京」のキーワードを外したホテル名に変更します。当初「東京」が付いたホテル名だったのは、東京にあるようなレベルのホテルだよ...というアピールだったのかな?と勝手に考えています。
新しいホテル名は、一躍有名になったホテルニュー塩原です。
高度成長期、そして第2次ベビーブームという、現在の日本がどうしても欲しい2つの追い風があり、1972年にホテルニュー塩原の西館がオープンしました。
現在も残っている西館、当時は新館と呼ばれていたようで、ボウリング、巨大宴会場、ショーステージまで揃っていました。収容人数は1200名に達し、ある意味、この新館の大成功がそれ以降の岡部ホテルグループの方向性を決めてしまったと考えます。
その勢いは凄まじく、1978年に鬼怒川ホテルニュー岡部が誕生します。
さらに少し離れた鬼怒川観光ホテルは、1981年から西館(水明館)、東館、別館の3館体制となります。
まるで同じグループ内で競うように、1991年、ホテルニュー塩原に、ビューティー&ヘルシー館(B&H館)が追加され、1992年には、鬼怒川ホテルニュー岡部にクイーンタワーが追加されます。
もうこの時点で、ホテルニュー塩原は3館体制、鬼怒川温泉のホテルニュー岡部は2館体制、鬼怒川観光ホテルは3館体制と、東京の高層ビル街のように建物が乱立している状態になりました。
このあたりの感覚は、東京でビジネスを展開していた岡部脇太郎氏にとっては、自然な成り行きだったのかもしれません。
伊東温泉にも後発で進出
実はこの頃、後発で静岡の伊東温泉にも進出しています。
現在の伊東園ホテルズのお膝元、さらに聚楽やハトヤでも知られる伊東温泉に、中途半端な600名規模の伊東ホテルニュー岡部がオープンします。後発にも関わらず進出を決めたのは、なぜだったのでしょうか。
ひょっとしたらこれまでと同じような戦略で、小さく進出してからどんどん増築したり、別館を追加するような計画だったのかもしれません。
残念ながらこのタイミングでバブル崩壊が起きて、日本の温泉街は大苦戦するわけですが、岡部ホテルグループも同様でした。
バブル崩壊後に低価格路線で拡大した伊東園ホテルズ、飲食サービスも展開している聚楽、様々なスタイルのホテルを持つハトヤ、各社の独自カラーを出して生き残りを図ったわけですが、岡部ホテルグループには、これら3社とは違った運命が待っていました。
鬼怒川温泉で廃墟となるまで
バブル崩壊の波は、1990年から徐々に厳しい荒波になっていきます。
1996年には、460名収容の西伊豆ホテルニュー岡部をオープンさせますが、岡部ホテルグループが蘇ることはありませんでした。
2005年に鬼怒川観光ホテルの西館(水明館)が閉館、2007年に解体。
2008年に同じく鬼怒川観光ホテルの東館が閉館、こちらは残念ながら、有名な鬼怒川廃墟群の一角として放置されています。
2009年には、鬼怒川温泉で大きな存在感を放っていたニュー岡部を、ホテル三日月グループに売却。
2010年には、創業の地であるホテルニュー塩原、鬼怒川観光ホテルの残された別館、伊東温泉のニュー岡部が相次いで、大江戸温泉物語に売却。
最後にオープンした西伊豆のニュー岡部は、現在は伊東園ホテルズとなっています。
岡部モデルの終焉
これだけの規模で拡大したホテルでしたので、実は債務超過になった際に、債権放棄、金融支援を受けることに成功しました。採算が合わない建物を閉館して、立ち直るチャンスは何度もありました。
債権放棄などの施策によって、現在は復活しているホテルも数多いのですが、岡部ホテルグループの最大の武器は、そのまま致命的な弱点に変わっていきます。
当時のパンフレットにおいても、全力でアピールしていることがわかります。
とにかく大きいことが、競合との差別化ポイントでした。
どれだけ借金が帳消しになっても、不要な建物をスクラップしても、社員旅行の激減、自由なプライベート旅行の広がりには対応できなかったわけです。
サービス面で対応できないばかりか
・建物が大きすぎて固定費(人件費、光熱費、建物管理費、税金等々)がかかる
・大きいことはホテルを選ぶ理由にならない
これによって、最終的には岡部ホテルグループは消滅していくことになりました。
いかがでしたのでしょうか。
廃墟となって残ってしまった建物はあるものの、巨額を投じた多くの建物は、現在はリーズナブルなホテルとして活躍しています。
建築費用の投資回収がない分、宿泊料金の安さに反映できるわけで、岡部ホテルグループが残したものを否定するつもりはありません。
岡部ホテルグループが、時代の寵児として急拡大して、今は消えてしまった経緯から、社会の変化にいち早く対応する重要性を学べると思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。