日光世界遺産エリア、この大きな木が立っていることで、観光客にとっては歩くスペースがほとんどありません。しかもこの木があることで、道路はどうしても片側一車線になってしまい、右折レーンすら増やすことができません。
なぜこんな、危険で不便な状況が続いているのでしょうか?
観光地日光の歴史は、社会の変化や政治的な動きに振り回されながら歩んできました。
前回は「観光編」として、明治維新以降の交通網の発達を中心として、どのように観光地日光が変化してきたのか解説しました。
今回は「社会・政治編」として、明治維新以降の150年を振り返ります。明治~大正~昭和、と激動の時代だったわけですが、日光に大きな影響を及ぼした出来事を、勝手に5つに絞ってみました。
ぜひ最後までお付き合いください。
出来事① 神仏分離令が発令される
奈良時代に仏教が伝わるまでは、日本に元々根付いていた、あらゆるものに神が宿っているという、神道が広がっていました。日光の山岳信仰も、そのひとつです。
仏教が日本で広がったことにより、神々を信仰する神道と、修行や輪廻転生に基づく仏教、それぞれの考えを混ぜ合わせた神仏習合が、江戸時代まで続いていました。
そして明治維新です。それまでは徳川将軍を頂点とした政治が行われてきましたが、明治の新政府は天皇を中心とした国造りを進めようと考えました。神々の流れを受け継ぐ天皇を中心とするためには、神道と仏教をはっきりと分ける必要があったわけです。
こうして明治4年(1871年)に、今で言う世界遺産エリアも、神社と寺を明確に分けて、しかも神社の敷地から寺を移すように命じられます。当然ながら、日光の二社一寺のうち、神社である日光東照宮や日光二荒山神社よりも、寺である輪王寺は大きな影響、というかダメージを受けることになります。
役人が立ち会って、建物はもちろん、彫刻や道具のひとつひとつまで「これは神社のものか、寺のものか」と調査した結果...
三仏堂(さんぶつどう)
相輪塔(そうりんとう)
鐘楼(しょうろう)
本地堂(ほんじどう)
五重塔(ごじゅうのとう)
護摩堂(ごまどう)
などを、輪王寺(当時は、満願寺)に移転することになりました。しかも輪王寺の敷地は大幅に減ってしまいます。
輪王寺は輪王寺で、本坊(ほんぼう)が火災に遭ったり、大名への貸付金が返ってこなかったので、移転費用を捻出することができず、2度の延期を願い出ており、まったく神仏分離が進みませんでした。
そうこうしているうちに、明治政府の方針転換があったり、地元の反対もあったことで、移転は三仏堂と相輪塔だけで収まりました。
こうして、本当は分けようと思った神社と寺が中途半端に入り混じった、現在の世界遺産「日光の社寺」の姿となりました。
わかりやすいところでは、神道である日光東照宮の目の前に、仏教のシンボルである五重塔が建っているのは、こういった政治的な流れと偶然、そして地元の働きかけがあったためです。
出来事② アーネスト・サトウが日光を訪れる
アーネスト・サトウと聞いて、ピンとくる方は少ないのではないでしょうか。
私なりに一言で表すと、日光の価値を爆アゲした通訳、外交官です。ちなみに「サトウ」というのは、日本の名字「佐藤」とは関係がなく、ヨーロッパ系の珍しい名字です。
幕末から明治時代の重要な場面で活躍してきた一方で、日本国内あちこちを旅行しており、明治5年(1872年)に日光の様子を、英字新聞「ジャパンウィークリーメール」で4回にわたって紹介しました。
これがきっかけで、多くの外国人に景色が美しい避暑地として、日光が知られることになります。奥日光の景色が本当に気に入ったようで、明治29年(1896年)には中禅寺湖の湖畔に別荘を建てます。
この別荘は、やがて英国大使館の別荘となり、中禅寺湖は海外から来た要人が集まる政治的な場所にもなりました。
アーネスト・サトウが日光を訪れたことによって、日光が外国人に広く知られるきっかけとなり、中禅寺湖が「夏の外交は日光に移る」と言われるほどの国際避暑地となりました。
出来事③ 足尾鉱毒事件が起こる
観光編では、足尾銅山の光の面を紹介しました。
古河財閥が誕生して、足尾町が賑わうだけでなく、機械の進化、交通網の発展に繋がり、中禅寺湖のアクセスが抜群に改善されました。
その一方で足尾銅山は、足尾鉱毒事件として日本初の公害認定を受けたことでも知られています。あまり、足尾鉱毒事件・田中正造・日光が繋がっているイメージはないかもしれません。
足尾銅山を原因とする鉱毒は、大気汚染や水質汚染など影響が大きかったわけですが、当時の日本は近代化に向けて全力疾走している状態で、公害という考え方がなかった時代です。
ざっくりな説明ではありますが、足尾銅山においては、とにかく鉱山を掘り進めて、鉱石を運び出し、熱を利用して銅を取り出し(製錬)、さらに電気分解を利用して銅の純度を高める(精錬)という工程があります。
これらの工程を通じて、有害ガスが煙となって大気汚染に繋がり、銅を取り出す際の排水が川を汚し続けました。結果、周辺の森が枯れていき、渡良瀬川の流域では魚や農作物、地域住民の健康に深刻な影響を与えました。
森が枯れたことで、山は水を蓄えられなくなり、特に洪水になると、広い地域で健康被害が発生したわけですが、足尾銅山との因果関係が認められるまでには長い年月がかかりました。
渡良瀬遊水地は、ハート型のキャッチ-な形が印象的ですが、洪水を防ぐとともに、川を流れる鉱毒を沈下させる目的で造られました。この遊水地建設にあたっては、激しい反対運動が行われ、実際の工事現場では座り込みを行うこともありました。
一方の建設する側は、建設予定地だった谷中村を強制買収、強制退去や取り壊しを行って、谷中村は消えてしまうことになりました。ハートの形になったのは、旧谷中村の中心地を避けた結果です。
失われた谷中村は戻りませんし、足尾銅山周辺や渡良瀬川流域の自然が元通りになる日がいつになるのか、忘れてはならないと考えます。
出来事④ 太郎杉裁判が起こる
日光太郎杉事件とも呼ばれるこの裁判は、昭和48年(1973年)に行われ、日光の観光やアクセスに大きな影響を与えた裁判でした。
冒頭に紹介した、神橋と二社一寺の間で大きな存在感を放っている大木ですが、栃木県の道路拡幅計画によって伐採する案が出たことがありました。道路幅が狭く、交通渋滞の元凶になっているという主張であり、この土地を強制的に取り上げようという狙いでした。
日光東照宮は「一度伐採してしまうと、二度と元には戻せない」などの理由で、宇都宮地裁に行政訴訟を起こしました。
その結果は、日光東照宮の全面的な勝訴。東京高裁も同様の判決でした。
この大木があることで現在も渋滞は続いていますし、見る人によっては、この道路の狭さは異様な光景かもしれません。
もし日光東照宮の訴えが退けられていたら、太郎杉をはじめとして周辺一帯を伐採。複数車線にして、右折レーンや専用歩道を整備することができて、観光面では大きなプラスになったことでしょう。
しかし実際には、太郎杉は保存されることになり、現在に至っています。
ここで改めて振り返りたいのは、この判決の考え方です。
「太郎杉を避ける方法の議論が不十分であり、他に方法があるのではないか」
確かに、世界遺産エリアを避けた有料道路が開通したり、国道を避けた場所に歩道も整備されました。しかし、肝心の世界遺産エリアの交通渋滞は変わっておらず、マイカーやバスのアクセスが不便なことは変わっていません。
インバウンドで訪れる方は、これからも増えていくことでしょう。今こそ改めて、太郎杉を避ける方法について、グローバルな視点で議論をするべきかもしれません。
出来事⑤ 足利銀行が国有化される
1990年代のバブル崩壊によって、鬼怒川温泉を訪れる団体旅行、特に社員旅行は激減しました。
今となっては信じられない光景ですが、社員数十名、数百名が一斉となって鬼怒川温泉に訪れ、大型ホテルに泊まることが大切な会社行事でした。そのニーズに応えるために、温泉ホテルは増築を重ねて巨大化、全員が収まる宴会場を完備していました。
バブル崩壊によって、そんな時代が終わりに向かいました。
会社目線で見ると、福利厚生として計画されていた社員旅行を行う余裕がなくなり、社員目線で見ると、個人で思い思いに旅行を楽しむ時代にゆっくりと移りつつありました。
個人的な見方ですが、この「ゆっくりと移った」というが、最大のポイントだったと思います。
日本が徹底的にどん底に落ちたらわかりやすかったのですが、テレビではトレンディドラマが大ヒット、Jリーグの発足やガラケーの進化など、表面的にはバブル崩壊のダメージは限定的のようにも感じていました。
鬼怒川温泉も、社員旅行の減少によって徐々に経営的に苦しくなるものの、どうにかやっていた、そんな感じだったのではないでしょうか。
どうにかやっていけたのは、個々のホテルの努力もあったでしょうが、最大の要因は、鬼怒川温泉一帯のメインバンクであった足利銀行が、その状況でも貸出を続けていたためと考えられます。
当時の足利銀行は、トップダウンによる拡大戦略、1350億円に及ぶ公的資金の注入、4000億円を超える不良債権、1000億円を超える債務超過、バブル崩壊から10年以上にわたって様々な問題が明るみになって、自力再建はいよいよ難しくなりました。
国有化される2003年には、栃木県内の貸出金の49%、半分近くを足利銀行が占めている状態。地域経済に与える影響が大きすぎて破綻させられない、という状況に陥っていました。しかしこの年の11月に国有化が決まり、足利銀行の株は、まさに紙クズとなってしまいました。
借金でどうにかしていた、鬼怒川温泉をはじめとする栃木県内の温泉ホテルは、2005年あたりから閉館が目立つようになり、倒産や廃業に追い込まれることになります。
温泉ホテルにとっては、メインバンクの破綻によって、社会構造の変化に対応するどころではありませんでした。
旅行スタイルの変化、デジタルへの移行、インバウンドの拡大など、巨大ホテルが立ち並ぶ鬼怒川温泉こそ、思い切った方向転換が必要だったわけですが、個々の努力でどうにかするしかなかったことは、相当な苦労があったと察します。
日光の歴史が動いた出来事を、社会・政治編として私なりにまとめてみましたが、いかがでしたでしょうか。
観光編と比較すると、重い内容が多いのですが、それらも含めて現在の日光に大きく影響を与えたであろう5つに絞りました。
観光地日光の歴史、150年を振り返るきっかけにしてもらえると幸いです。