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なぜここばかり?鬼怒川温泉【2026年版】次の方程式は完成するか?

この通りはかつて、数多くの宿泊客が行き交う鬼怒川温泉の中心街でした。

(上:AI再現 下:現在)

すぐ隣には鉄道と国道が走り、反対側には鬼怒川の渓谷が続いています。

一見するとアクセスと絶景に恵まれた、理想的なロケーションですが、残念ながらこの一帯には閉館して何十年も経過した温泉ホテルが並んでいます。

南北3キロに広がる鬼怒川温泉において、なぜこの一帯だけ衰退して時代に取り残されてしまったのでしょうか。その歴史を振り返ってみたいと思います。

 

 

ぜひ最後までお付き合いください。

 

遅咲きだった鬼怒川温泉

鬼怒川温泉の源泉発見は330年前、徳川綱吉の時代までさかのぼります。

沼尾重兵衛ら村民6人が源泉を発見して、その温泉で独占的に稼いでいたところ、周囲の村民から妬まれることになり、結果的にその源泉は幕府の管轄になってしまいます。

こうして鬼怒川温泉は、良く言えば、大名や僧侶だけが利用できる由緒ある温泉だったわけです。

もしここで鬼怒川温泉が江戸時代から一般開放されて、会津に移動する商人が立ち寄ったり、湯治場として治療目的の方が集まっていたら、鬼怒川温泉の歴史はまったく異なっていたことでしょう。明治時代になって鬼怒川温泉は一般開放されましたが、日光と会津を結ぶ会津西街道にありながら、年間利用者は数百人という本当にひっそりとした湯治場でした。

日本各地に鉄道が敷かれ、旅行という文化が広がった明治末期になっても、宿泊できる温泉旅館は1軒のみ。少し離れた塩原温泉は、明治時代から文豪や著名人に愛されて、塩原鉄道が開通していたことを考えると、鬼怒川温泉がいかに遅咲きであったか感じてもらえると思います。

 

ついに表舞台に立った鬼怒川温泉

そんな鬼怒川温泉にも、明治末期から大正にかけて大きな転機が訪れます。東京の電力需要が急激に高まり、水力発電所の建設計画が浮上しました。ここで白羽の矢が立ったのが鬼怒川上流です。

水力発電所を建設するということは、上流には大型ダムを建設する必要があります。物資を運ぶために、明治末期になって急激に馬車鉄道が引かれ、驚異的なスピードで発電専用のコンクリートダムが完成しました。

このダムの完成によって、馬車鉄道が不要になるかと思われましたが、地元の有志が積極的に活用に動きます。こうして下野電気鉄道として復活して、現在の東武鬼怒川線の原型となるアクセスが完成しました。

このタイミングで、鬼怒川温泉にとってはさらに2つの追い風が吹いてきます。

ひとつは、鬼怒川上流にダムを建設したことで、下流の水位が大きく下がったことです。これによって、鬼怒川の両岸でいくつもの源泉が発見されて、温泉ホテルを数多く建設することが可能となりました。

さらに、東武鉄道の根津嘉一郎社長によって、鬼怒川温泉に1000名規模の温泉ホテル(現在の鬼怒川温泉ホテル)を建設しようという計画が持ち上がります。

こうして明治末期まではひっそりとした湯治場だった鬼怒川温泉は、鉄道の整備、源泉の発見、大型ホテルの登場によって急激にスポットライトを浴びるようになり、巨大な温泉観光地となる土台ができてきました。

 

勝利の方程式が完成

昭和時代になって下野電気鉄道を東武鉄道が買収、戦後には鬼怒川温泉駅まで特急が走るようになりました。戦後から奇跡の復興を果たした日本は高度成長期に入り、人口がどんどん増えて消費も需要も爆発的に拡大する、いわゆる人口ボーナス期に突入します。

福利厚生の一環として社員旅行が盛大に行われるようになり、その社員旅行の行き先の絶対条件として数十人、数百人が一度に収まる宴会場が必要でした。

こうなると、東京から2時間台のアクセス、都会では見られない渓谷、そしてまだ開発途中の温泉地、ということで再び鬼怒川温泉にスポットライトが当たり、爆発的に大型ホテルが増えていきました。

明治末期に1軒、昭和初期でも3軒しかなかった温泉旅館は、たった50年程度で数十軒に増え、しかも宴会場を備えた大型ホテルが乱立するようになりました。

この背景には、観光ホテルやゴルフ場など、リゾート分野に積極的に融資して、全国的にも注目を浴びていた足利銀行の存在もありました。さらには大きな箱がどんどん増えると同時に、東京の旅行代理店が社員旅行を送り込む好循環が生まれ、鬼怒川温泉は巨大な受け皿として成長していきました。

こうして「鉄道+大型ホテル=社員旅行の受け皿」という方程式が完成して、これを足利銀行と旅行代理店が加速させる、この構図で1990年代まで突っ走ることになります。

 

方程式が崩れた日

勝利の方程式を得た鬼怒川温泉は、1993年には過去最高の年間340万人の利用者がありました。単純計算で、ほぼ毎日1万人が訪れていたことになり、泊まる方もすごい数ですが、鬼怒川温泉にはそれほど大型ホテルが集まっていたことがわかります。

しかし、日本中がどうにかしていた好景気はいつまでも続きませんでした。

1990年前後のバブル崩壊によって、各企業の業績は急激に悪化。社員旅行どころではなくなりました。どこまでも値上がりすることが前提だった、土地の値段が暴落したことは、各企業の経営状況を一気に悪化させました。そしてそれは、土地を担保に拡大路線を走っていた大型ホテルにとっても大ダメージでした。

社員旅行の激減によって経営が厳しくなるだけでなく、銀行への返済も難しくなってきました。社員旅行のような団体客が減ったことで、持て余すほどの客室、広すぎる宴会場、維持費ばかりかかる巨大建物、個人旅行には対応していない構造、マイカー時代への対応の遅れ、鬼怒川温泉の武器だったものが、いつの間にか輝きを失ってしまいました。

 

「鉄道+大型ホテル=社員旅行の受け皿」という方程式は、鉄道、大型ホテル、社員旅行、そのどれもが前提から崩れてしまい、ちょっとやそっとの軌道修正ではどうにもならなくなってしまいました。

 

ただ時が流れた10年

実は、バブル崩壊で一斉に鬼怒川温泉が弱体化したわけではありません。鬼怒川温泉の大型ホテルが閉館したり、倒産したりしたのは、バブル崩壊から10年以上経った2005年から目立つようになりました。

その間の10年は、足利銀行を中心にどうにか地域まるごと再生しようという動きがありました。良く言えば、鬼怒川温泉が再び主役になるまで奮闘していたことになりますが、悪く言えば、税金を投入してまで鬼怒川温泉の延命を図っていた状態です。

もちろん、その状況において最善の判断をしてきたであろう足利銀行でしたが、不良債権は膨らむ一方で、ついに2003年に国有化。鬼怒川温泉を陰から支えていた運命共同体は、強制的に退場することになり、残された鬼怒川温泉の戦いはそこからが本当の戦いとなりました。

 

ここからは、いくつかの取り残された温泉ホテルを紹介します。

きぬ川館本店

きぬ川館本店は戦時中の1942年に、地元の名士によって開業しました。

この一帯ではかなり早い時期に開業して、その後どんどん増築したことがわかります。どこがどの順番で大きくなっていったのか、今となってはまったくわからない状態です。

閉館したのもかなり早く1999年に、夜逃げ同然で経営者が消えてしまいました。残された従業員にとっては悪夢のような急展開ですが、自転車操業でその後もしばらくは営業を続けていたようです。

すでに閉館から四半世紀が経過して、建物自体は相当傷んでいます。地面やベランダから木が生えてきて、床が崩れ落ち、野生のサルが出入りしています。

他の大型ホテルと同様に、鬼怒川の岸壁に沿って建てられており、古さを考えても巨大台風や地震が来たら、最初に崩壊するのではないかと心配になってしまいます。

 

鬼怒川第一ホテル

その積み木のように巨大になったきぬ川館本店からわずか2,3m離れて、鬼怒川第一ホテルが建っています。

もともとは「あさやホテル」の支店として、高度成長期の1956年に開業しました。隣のきぬ川館本店と比較すると、最初から大きなサイズで建築されており、とにかく大きく、とにかく広く、各ホテルが個人競技のように拡大路線を走っていたことがわかります。

やがて経営的にはまったく切り離されて、1980年から鬼怒川第一ホテルとして営業していましたが、2008年に閉館してしまいました。

泊まるホテルを選べない社員旅行ならまだしも、自分でプライベートな旅行をするのであれば、閉館して放置されている「きぬ川館本店」の隣は避けたいのが正直なところでしょう。「きぬ川館本店」が閉館したことで、ライバルが減ったというよりは、より選ばれにくくなってしまったのではないでしょうか。

 

鬼怒川観光ホテル西館(跡地)

こちらは「鬼怒川第一ホテル」より、少しだけ早い1953年に「鬼怒川観光ホテル水明館」として開業。この当時はすぐ近くに鬼怒川温泉駅があり、一世風靡した岡部ホテルグループの鬼怒川進出第1号でした。

こちらも増築してどんどん大きくなっていきましたが、1981年には鬼怒川観光ホテルの西館となり、同じく東館、別館と合わせて強力な3館体制となりました。

しかしバブル崩壊によって好景気が終わり、客室があまりに多すぎることが問題視されたのでしょう。

2005年に閉館、2007年に取り壊しとなりました。

基礎がある程度残っていますが、ここまでキレイに撤去したのは珍しいのではないでしょうか。当時を想像して跡地を見ると、目の前には崖しかないこの場所に、なぜホテルを建設できると思ったのか、不思議な感じがします。

 

鬼怒川観光ホテル東館

さきほどの西館の拡大路線の一環で、シンプルな外観の東館が建てられました。

高度成長期が一息ついて、バブル経済の前夜である1981年に開業しましたが、わずか27年の営業を経て、2008年に閉館、こちらは建物が放置されたまま現在に至っています。

平べったい外観だけ見ると、大宴会場があるようには見えないので、西館と共用していたのかもしれません。

いわゆる鬼怒川廃墟群と呼ばれる一連の建物のうち、もっとも南側に位置していますので、ロケーションが抜群な分、どこからでも目に入ってしまいます。もしかしたら買い手が見つかる可能性があり、取り壊しが遅れてしまったのかもしれません。

 

放置されて廃墟化しているホテルを紹介しましたが、なぜこのエリアに集中しているのか、原因を大きく3点にまとめてみました。

 

原因①あまりに急速に発展してしまった

鬼怒川温泉が他の温泉観光地と決定的に異なるのは、その異常な成長スピードでした。

まるで目立たなかったキャラに、いきなりフォーカスが当たって大ブレイクしたようなものなので、街づくり、ブランドづくりという観点がまるでなく、個人競技で大型ホテルが乱立する環境だったことが裏目に出ました。

当然いつかは飽和状態になることは、誰だってわかっていたと思いますが、そのブレーキをかけるような歴史や伝統が皆無だった弱点は、現在にも続いていると感じます。

 

原因②鉄道時代に巨大化が完成してしまった

放置されているホテルは、鬼怒川温泉の北東部に集中しています。昭和に入ったタイミングで数多くの温泉ホテルが建設されましたが、対岸にある「あさやホテル」や「鬼怒川温泉ホテル」と同様に、もっとも早くから発展してきたエリアでした。

人口ボーナス期を迎え、拡大路線を走るのが正解だった時代ですから、電車で来た団体客を迎え入れる箱を、とにかく巨大化するゲームだったと思います。バブル崩壊によって社員旅行のニーズが激減した後は、言い方は悪いですが大きくて古いだけのホテルが取り残されてしまいました。

 

原因③鉄道・国道・渓谷に挟まれて再利用が難しい

鬼怒川温泉に100以上あった旅館ホテルのうち、バブル崩壊後に再建したホテル、大手資本に買収されたホテルもたくさんあったのですが、鬼怒川温泉の北東部に残っている大型ホテルは残念ながら誰の手にも渡らず、現在まで放置されています。

鉄道時代に全力で拡大した巨大迷路のような大型ホテルは、再利用しようにも目の前には鉄道と国道、背中には鬼怒川の岸壁という立地です。取り壊すにもリニューアルするにも、工事をする費用も難易度も高いですし、駐車場を確保できない立地は、何の事業をやったとしても明らかに厳しい戦いになります。

 

一枚岩になれなかった地域再建

鬼怒川温泉がバブル崩壊、そして足利銀行国有化によって大ダメージを受けた後に、各ホテルの再建方法がバラバラになってしまったことは、不景気以上に復活を難しいものにしてしまいました。

再生の見込みが高いと判断されたいくつかのホテルは、産業再生機構の支援を受けて負債が帳消しになりました。言ってみれば、大型投資をした費用を回収する必要がなく、さらに次の手を打ちやすくなったことは、雑な言い方をするとずるいくらい経営的には有利になりました。

そのように、強気の投資がそのまま武器となって再建に向かうホテルもあれば、投資が多額の負債となって、自力で再建をしなければならないホテルもありました。もちろん再建を断念するホテルは閉館、倒産を選ぶしかありません。

100以上あった旅館ホテルのすべてを、産業再生機構が支援できるはずもなく、支援するかどうかの選別があったのはしょうがないことですが、この経緯によって鬼怒川温泉が一枚岩になって復活を目指せなかったことは、本当にもったいない出来事でした。

 

それぞれの進化

1990年代のバブル崩壊からの延命処置、2000年代に入って閉館が目立つようになり、2010年代になると鬼怒川温泉の各ホテルは様々な進化を遂げるようになります。コンセプトを明確に打ち出すホテル、女性をターゲットにしたホテル、そして今度は長い不況時代の受け皿となるような格安ホテルチェーンの台頭が目立ってきました。

社員旅行ばかりが押し寄せた鬼怒川温泉は、ファミリー、カップル、ゆっくり温泉旅行を楽しみたい層など様変わりしました。

季節限定のイベントが行われ、そしてどの季節に訪れても美しい鬼怒川の渓谷は、相変わらず栃木県を代表する観光スポットのひとつです。

 

これからどうする?

鬼怒川温泉の北東部に取り残され、廃墟化した大型ホテルをどうするのか?費用や工事の難易度などは度外視して、勝手に4つのアイデアを考えてみました。

 

案①高齢者福祉施設にリニューアルする

豊富な源泉、目の前には渓谷が広がり、あまりクルマの出入りの必要がない活用方法として、高齢者福祉施設への転換はいかがでしょうか。

豊富な源泉が垂れ流しになっている、もったいない状態を解決することができます。

全国的にはうまくいった実例も多く、これからの高齢化社会、そして終活の多様化にマッチするアイデアだと考えます。開業さえできれば採算が合いそうな気もしますが、やはり取り壊す費用が最大の壁になりそうです。

 

案②コワーキングスペースとして活用する

鬼怒川公園駅から歩いても行けるこのエリアは、都会の喧騒から一時離れて創作活動やリモートワークをするのにピッタリな環境です。

先の高齢者福祉施設と似たようなアイデアですが、かつて文豪が執筆活動に勤しんだ塩原温泉や伊香保温泉のように、静かに自分だけの時間を過ごすことができます。

結局、現在の建物を取り壊さなければならない課題は大きいのですが、多様な働き方がますます広がる時代において、温泉観光地の新しい価値を提供できるのではないでしょうか。

 

案③鬼怒川公園駅を中心とした大規模開発

あまり知られていないかもしれませんが、廃墟群のすぐ近くには鬼怒川公園駅があります。現在の中心街となっている鬼怒川温泉駅の隣駅ではありますが、その周辺環境は大きく異なります。

駅を降りても、特に観光スポットはなく、近隣のホテルへのアクセスくらいしか使い道がないような駅です。

このまったく陽の当たっていない鬼怒川公園駅を中心に、周辺を大規模開発するアイデアはどうでしょうか。県と一緒に取り組むような規模になると思いますが、ショッピングモール、イベントステージ、自然を活かしたアクティビティ、とにかく遊べるファミリー施設、そして首都圏まで直結するマンションなど、人が集まる仕掛けを詰め込む案です。

国立公園内であることが最大のネックになりそうですが、そもそも国立公園がこんな状態で放置されていていいのか...という問題はあると思います。良くも悪くも、まったく手が付けられていないエリアなので、何でもできそうな気がします。

 

案④少しずつ解体する

最後はかなり現実的な話ですが、とにかく可能な範囲で目に見える部分から解体してもらいたい案です。権利関係や費用など、解体するにあたってのハードルはいくつもあると思いますが、複数年の計画で少しずつ進めてほしいと本気で思っています。

なかなか進めるのが難しいのはわかりますが、現在の「放置されている」という状態は観光客としては最悪です。極端な表現ですが、財源がない、関心がない、アイデアがない、と思われてしまうかもしれません。

とにかく少しずつでもいいから進めていると、外部の人からも「これからどうなるんだろうね」と関心も集まるのではないでしょうか。

現在はバリケードも壊れてきている状態、バス停の名称も何十年前のまま、どんどん崩壊が進んでいるので、まずは当面のゴールを決めませんか?という案でした。

 

まとめ

毎年この時期に訪れている鬼怒川温泉ですが、どんどん変化するエリア、数十年放置されているエリアに分かれている状況について解説してみました。

特に放置されている廃墟群については、崩落する危険性、イメージダウンを本当に心配しています。どうか多くの方に知ってもらいたいと思っています。

廃墟群の問題に先行きが見えて、次の勝利の方程式が完成する日を楽しみにしています。