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明治末期まで旅館1軒!【鬼怒川温泉】奇跡的な大ブレイクを振り返る

今でこそ日本有数の温泉観光地、鬼怒川温泉は江戸時代に発見されましたが、明治末期までは温泉旅館が1軒あるのみ、会津に行く途中のポツンとした湯治場というポジションでした。

近隣を見渡すと、塩原温泉、草津温泉、伊香保温泉、飯坂温泉、東山温泉といった1000年以上の歴史がある温泉街が軒を連ねており、完全に後発になった鬼怒川温泉には勝ち目はゼロかと思われました。

しかし大正時代から昭和初期にかけて、まさに神風のような追い風に背中を押されて、あれよあれよと巨大観光地へと成長しました。この急展開には、当時の方々もかなり驚いたのではないでしょうか。

 

今回の記事では、そのポツンとした湯治場が、どうやって温泉観光地として大ブレイクしたのか、その主な秘密を3つに分けて解説します。

ぜひ最後までお付き合いください。

 

一般人はNG!の江戸時代

鬼怒川温泉の歴史は、330年前、徳川綱吉の時代までさかのぼることになります。

元禄4年(1691)下滝村の沼尾重兵衛をはじめ、村民6人が鬼怒川の西側に源泉を発見します。この源泉を利用して共同浴場を作ったところ、とても繁盛したようです。

この源泉を独占的に使って儲けていたことで、村民の関係がギクシャクするようになります。これを治める方法として、村民から

「温泉は日光の奉行所が没収するべき」

という提案があり、江戸幕府直轄となりました。

鬼怒川の西側に発見された温泉は「滝温泉」と呼ばれ、大名や僧侶だけが利用することができる由緒ある温泉だった...という表現が多いですが、一般人が使えなかった背景にはこういった様々な事情がありました。何にしても、せっかく発見された源泉は、スポットライトを浴びることなく、100年以上が過ぎていきました。

 

年間数百人が利用した明治時代

明治時代になると、滝温泉は一般開放されます。

明治2年(1869)鬼怒川の東側では、釣りをしていた星次郎作によって、さらに源泉が発見されました。こちらの温泉は「藤原温泉(ふじはらおんせん)」と呼ばれましたが、発見したタイミングについては、資料によって明治4年、明治6年のように、若干の誤差はあるようです。

明治10年~19年の平均ですが、滝温泉の年間利用者は565人、藤原温泉もわずか225人でした。宿泊でゆっくり過ごす場所ではなく、あくまで行き交う人々が傷を癒すための湯治場として賑わっていたようです。

 

明治21年(1888)に2つの転機が訪れました。

滝温泉は湯量が少ないことに、村民の不満が爆発していたのでしょうか。

湯量を増やすために本当に源泉の爆破を行いましたが、まったくの失敗だったようです。湯舟が壊れただけでなく、鬼怒川の冷たい水が入り込んでしまい、滝温泉は一時まったく価値のないものになってしまいました。

おそらくですが、この背景には宇都宮から白河に続く鉄道が整備されていき、会津西街道の重要性が下がってきたこともあったのではないでしょうか。鬼怒川に沿って会津まで続く会津西街道は、物流に使われる重要なルートでしたが、その地位が失われようとしていました。

 

同じ年に藤原温泉では、炭や麻の問屋を営んでいた八木澤善八が「麻屋」という名の旅館を開業します。明治時代の唯一の温泉旅館だった、この「麻屋」が、後に西側に移って、東の横綱と呼ばれる「あさやホテル」となるわけです。

「麻屋」が開業した当時の東側付近では「あさや支店」が開業、運営会社が変わり「鬼怒川第一ホテル」として営業していましたが、現在は廃墟となって残っています。

 

栗本義喬という救世主

あまり知られていませんが、栗本義喬(くりもとよしたか)という人物が、鬼怒川温泉の発展に大きく関わります。

栗本義喬は、旧制第一高等学校(現東京大学)で漢文教師を勤めて、その後に栃木尋常中学校(現宇都宮高校)でも漢文を教えていました。

滝温泉の景色に魅了されて、明治27年(1894)に爆破失敗で放置されていた滝温泉の権利を取得します。源泉をうまく移動させることによって滝温泉を復活させました。

その後療養のために、大正6年(1917)に滝温泉から身を引きますが、滝尋常小学校の移転のために土地を寄付したり、藤原温泉で「麻屋」を営む八木澤善八に、滝温泉の権利を譲渡しました。

栗本義喬は教師という肩書ではありましたが、鬼怒川温泉の歴史を振り返ると、西側の滝温泉が現在の中心地になるうえで欠かせない役割を果たしました。

 

明治末期の重要な出来事としては、明治44年(1911)に、下滝発電所と黒部ダムの建設がはじまりました。この2つの大きな土木工事が、鬼怒川温泉の歴史に大きな影響を与えることになります。


大ブレイクを予感させた大正時代

大正元年(1912)には、日本初の発電専用コンクリートダムでありながら、2年弱という驚異的なスピードで黒部ダムが完成、大正3年(1914)には、滝温泉の近くに下滝発電所が完成します。

当時は東洋一の発電量を誇り、東京の夜を照らした下滝発電所ですが、このダムと発電所を同時並行で工事したことによって、2つの大きな変化が起きました。

ひとつは、蒸気機関車が走る前から、いち早く馬車鉄道が敷かれて、建設のための大量の資材を運んだことです。その後の鉄道時代に移行するための下準備が、強制的に進められたことになります。

発電所を建設した後も、星次郎作の子孫である星藤太が、熱心に鉄道開発に動いたことは、東武鬼怒川線が開通する大きなきっかけになっています。

もうひとつは、源泉が次々に発見されたことです。

黒部ダムが完成して鬼怒川の水量を調整したことで、鬼怒川下流の水位が大きく下がりました。これによって、さらに源泉が数多く見つかりました。

【鬼怒川西側】

下滝温泉・鬼怒川温泉・大滝温泉

【鬼怒川東側】

湯ノ滝温泉(甲・乙・丙・丁・戊)・宝ノ湯・蔦ノ湯

【鬼怒川北側】

元湯・新湯

これらの源泉が、現在の鬼怒川温泉を形成しています。

 

大正6年(1917)には「麻屋」の八木澤善八が、滝温泉にあった下滝温泉と鬼怒川温泉の管理者となり、鬼怒川の西側に「麻屋旅館」を開業します。東側の藤原温泉では、星藤太が滝ノ湯温泉の管理者となります。

大正14年に藤原温泉では、星藤太によって「星野屋旅館」が開業されます。さらに同じ年に「大滝館」が開業します。

 

方程式が完成した昭和時代

昭和2年(1927)に、西側の滝温泉、東側の藤原温泉が統一されて、現在のように「鬼怒川温泉」と呼ばれるようになります。

この当時に鬼怒川温泉で経営されていたのは、麻屋旅館、大滝館、星野屋旅館の3つでした。その後に

麻屋旅館→あさやホテル

大滝館→鬼怒川温泉ホテル

星野屋旅館→元湯星のや

に変化していく旅館です。

当時の東武鉄道の社長、根津嘉一郎の提案により、収容規模1000人の「鬼怒川温泉ホテル」が開業します。

根津嘉一郎には、鉄道を整備することにより、鬼怒川温泉が一大温泉地になる確信があったようです。開業については、地元の大きな反対があったようですが説得して、鬼怒川温泉ホテルは、金谷ホテル一族の金谷眞一が経営することになりました。

昭和5年には、鬼怒川温泉駅が開業して東京方面からのアクセスが大幅に改善されました。時代の流れに乗って、翌年には営業している温泉旅館は9軒に増えます。

 

この東武鉄道の参入があった頃、競うように「星野屋旅館」を開業した星藤太は、下野軌道、昭和自動車、スキー場など、数々の事業に着手しています。最終的には、東武鉄道に吸収される事業も多いのですが、地元資本として鬼怒川一帯の発展を加速させた功績は大きいです。

このタイミングの鬼怒川温泉は、東武鉄道によって

東京から近い+鉄道+大型ホテル=巨大観光地

という方程式を完成させました。

 

鬼怒川温泉が大ブレイクした3大要素

明治時代には存在感が薄かった鬼怒川温泉ですが、大正~昭和時代の出来事を振り返って、日本有数の温泉観光地となったポイントを、3つにまとめてみます。

①距離感と規模感がちょうどいい

首都圏から鬼怒川温泉に遊びに行くことを考えると、マイカーでも電車でも2時間台で行ける距離感は非常に足を伸ばしやすいと感じます。

1泊2日の旅行であっても、午後の出発でチェックインに間に合いますし、チェックアウトしてからも、どこかに寄り道できる距離感です。

関東平野の最北端のロケーション、平面から斜面に変化する途中にあり、市街地から遠すぎず、四方を山に囲まれているローカル感は絶妙だと思います。山と川の調和、四季の変化など、人の手では演出できない魅力があることも見逃せません。

鬼怒川の両岸に温泉が湧いており、この景色に心を奪われた栗本義喬が、源泉爆破で使いものにならなくなった滝温泉を蘇らせた功績も大きいです。

 

②下滝発電所の建設

下滝発電所を建設するために、馬車鉄道が引かれたことは、まさに追い風となりました。使用済みになった馬車鉄道の線路が、東武鬼怒川線が開通する大きなきっかけになっています。

忘れてならないのは、発電所を造るにあたり上流にダムを建設したことです。これによって鬼怒川の水位が下がり、さらに源泉が数多く発見されたことは、タイミングも含めて奇跡的でした。


③東武鉄道の進出

鬼怒川温泉が発展する前、明治初期から日光・中禅寺湖方面では海外からのゲスト向けに、いくつかの洋風ホテルが開業していました。

東武鉄道の根津嘉一郎は、その日光・中禅寺湖方面だけでなく、鬼怒川温泉にも着目していました。

まだ、麻屋旅館・大滝館・星野屋旅館しか建っていない鬼怒川温泉を訪れて、1000人規模の温泉ホテルを提案をしたことは、よほど成功の確信があったのか、鬼怒川温泉のポテンシャルを見抜いたのだと感じます。

日光・中禅寺湖だけに注力するのではなく、鬼怒川温泉の開発も推進して、地元もそれを受け入れた環境はこれもまた奇跡的な相乗効果だったと感じます。

 

 

昭和時代の前半までの歴史を振り返って、鬼怒川温泉の歩み、そしてここまで発展したポイントをまとめてみましたが、いかがでしたでしょうか。

年間200万人前後が訪れる鬼怒川温泉も、つい100年前までは温泉旅館がたった1軒という湯治場でした。そこからの歩みを感じてもらいながら、楽しんでもらえたらうれしいです。