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完成時は高さ日本一!【五十里ダム】荒れ狂う鬼怒川を200年後に沈めた歴史

かつて日光北部、海尻橋付近(下写真)に存在した五十里村は、土砂崩れによる天然ダムに沈み、その規模は現在の五十里ダムより大きかったようです。

会津に向かう街道ごと消えてしまい、景色を一変させましたが、その天然ダムは40年後に決壊、一気に押し出された洪水によって、広い地域に壊滅的なダメージを与えました。

そんな激動の歴史を経て建設された五十里ダムは、男鹿川、鬼怒川、利根川の治水において重要な役割を果たしています。

五十里ダムが誕生するまでの経緯を振り返って、終盤では五十里ダムに直結する高規格道路の建設計画も紹介したいと思います。

 

五十里ダムとは

五十里ダムは、栃木県日光市の北部に位置しており、北から流れる男鹿川にあります。男鹿川は、西から流れる湯西川と合流、五十里ダムを経て、鬼怒川に注いでおり、五十里ダムは山や川が複雑に絡み合った地形に造られています。

昭和に入ってから五十里ダムだけでなく、鬼怒川上流に川俣ダム、川治ダムが相次いで造られて、比較的最近の平成24年(2012年)湯西川ダムが完成しています。これら4つの大型ダムは、鬼怒川上流ダム群として連携しながら治水を管理しています。

現代からさかのぼって考えると、これほどの規模のダムを集中的に建設しなければならないほど、この地域の水量が豊富で、ひとつ間違えると大洪水が起きてしまうということがわかります。

 

天然ダムに沈んだ五十里村

古くから関東平野の貴重な水源として、男鹿川、鬼怒川は流れていました。しかしそのあまりに豊富な水量は、時には破壊的な存在になってしまいました。

そのなかでも、歴史的に大きなインパクトがあったのは、今から342年前、1683年の天和日光地震の影響です。現在の暦でいう6月17日から10月20日にかけて何度も発生した地震は、この五十里ダムからわずか数キロ離れた場所が震源でした。

このほぼ震源直下の地震によって大規模な地滑りが発生して、葛老山(かつろうざん)の一部が崩壊、その岩の塊が男鹿川や鬼怒川をせき止めてしまいます。

これが壁となって、現在の五十里ダムより北の位置、海尻橋(うみじりばし)の付近に天然ダムが形成されました。非常に硬い岩の塊がまるごと滑り落ちてきたような感じでしたので、この天然ダムは壊れることなく150日後には満水となり、周囲30km以上の巨大な湖が誕生しました。

一見すると雨降って地固まるのように、鬼怒川の氾濫が収まるようなメリットを感じますが、この天然ダムによって周辺の景色や生活は大きく変わりました。日光と会津を結ぶ街道が水没して、五十里村をはじめ、いくつかの村が湖底に沈みました。156人の五十里村民は農業主体から、筏による船代を稼ぐようになり、生活はかなり困窮していました。もちろん、離れた場所に移住する村民も多かったようです。

上流側の会津地方にとって、交通や物流が遮断されたダメージは大きく、川をせき止めていた岩盤を切り落とす工事に着手しました。

天然ダムの誕生から24年後、会津藩から送り込まれたのは、高木六左衛門という藩士です。地元村民も協力して工事は進められましたが、途中で非常に硬い一枚岩に阻まれてしまいます。

当時としては破格の予算で工事を試みたわけですが、結果的には失敗に終わってしまい、工事責任者であった高木六左衛門はこの地で切腹してしまいます。

このことからも、天然ダムの水抜きがどれほど重要なミッションだったのか、察することができます。

ちなみに天和日光地震では、少し離れた男体山でも崩落を起こしており、現在も続いています。340年以上続く地震の爪痕は、まさに大自然の脅威です。

 

天然ダムの決壊

会津方面の物流を考えると、致命的なほどの障害物となった天然ダムですが、下流側にとっても、目の上のタンコブにしてはあまりに大きすぎでした。現在の五十里ダムも相当な大きさですが、当時の天然ダムにはこれ以上の水量が溜まっており、もし決壊したら壊滅的なダメージを与えることは明らかでした。

その悪夢は天然ダムの誕生から40年後、享保8年(1723年)に現実のものとなります。

9月4日から9日まで豪雨が降り続き、9日の14時半、ついに40年間溜めていた湖水や土砂が押し出されました。天然ダムの形成時に流れ込んだ土砂が、残らず流出するほどの威力だったようです。

15時頃、11km下流の藤原(現在の鬼怒川温泉付近)は、周りを山に挟まれているため、壁のような濁流が押し寄せました。その様子を遠くから発見した村民は、最初は水だとは思わずに黒い雲に見えたというので、相当な高さで大洪水が起きたことがわかります。

その後は轟音を響かせながら、道路や建物を跡形もなく流していき、32km下流の小林に17時頃、45km下流の氏家には18時頃に流れ着きます。被害の広さも規格外であり、現在のさくら市や宇都宮市の広いエリアに洪水が流れました。

被害の状況に大きな影響を与えたのは、意外にも羽黒山(下写真)の存在です。

洪水が羽黒山にぶつかって、その勢いのままにさくら市方面に進んだことで、東側の被害が大きくなりました。氏家周辺でも溺死する人馬があったようです。通信方法が無かった時代でしたから、豪雨のなか、何事が起きたのか相当な混乱もあったと思います。

現在の宇都宮市にあたるエリアでは、羽黒山によって勢いは失われたものの、洪水による浸水被害は広がっていき、岡本、石井、インターパークの付近まで土砂の侵入が起こり、田畑は使い物にならなくなりました。中心部に近い長岡、竹林などは山田川、田川の氾濫も加わって、泥の海と化したようです。

後にこれが、五十里洪水と呼ばれました。天然ダムがなくても氾濫することで知られていた鬼怒川が、5日間の豪雨によって、巨大ダム1個分の水量が暴走して、推定12000人の命と多くの牛馬を飲み込んだ大災害でした。

こうして、かつては壊して水抜きをしたくてしょうがなかった天然ダムは、一瞬で崩壊して、半日で下流を壊滅させたわけです。

 

五十里ダムに沈んだ五十里村

天然ダムの決壊によって得られた数少ない産物は、大洪水であらゆる物が流された後に、川治温泉の源泉が見つかったことです。大正昭和になると、もう少し下流では、東京資本による近代化が押し寄せて、鬼怒川温泉が温泉観光地へと変身するようになります。

この大きな時代の流れのなかで、洪水対策としてダム建設の計画が持ち上がります。五十里洪水からすでに200年以上が過ぎていました。

大正の終わりから昭和にかけて、天然ダムがあった付近、現在の海尻橋付近にダムを建設しようと調査を開始しましたが多数の断層が発見されて、昭和8年に断念。

昭和16年(1941年)にも工事が再開しましたが、こちらは戦争の影響で中断しました。

この間、昭和13年には2度にわたる洪水が起きます。

昭和23年(1948年)に、当初予定していた建設地点は、工事の難易度や予算の観点から計画が見直されて、現在の位置に変更してダム計画が再開します。

人工ダムの建設によって、五十里村はまた湖に沈むことになりました。

この人工ダムは、当時では高さ日本一、建設する立地的な厳しさだけでなく、まだまだ技術や機械が充分ではない時代でした。ダム建設の経験がない集団に、さらに現地採用も加わって、徹夜作業が続いて完成しました。完成の3年前には台風による氾濫で、作業現場一帯が倒壊、流出する悲劇も起きています。

こうして総工費48億円、殉職者28名、障害の残った99名をはじめ、多くの人々の尽力によって、昭和31年に重力式コンクリートダムとして五十里ダムは誕生しました。

今日まで水害を防ぐと同時に、発電や灌漑用水といった多目的ダムとして活躍しています。

 

また日本初の試みとして、地下トンネルで川治ダムと接続する工事が行われました。

五十里ダムは貯水能力に限りがあり、また隣の川治ダムは水位が下がるとなかなか回復しないことから、五十里ダムで余った水を川治ダムに流し込む狙いです。

余計な放流を防いで貯水効率を高めたことで、男鹿川や鬼怒川の水量が安定して、景観の改善、魚のつかみ取りといったイベント実施に貢献しています。

 

会津直通のバイパス計画

栃木西部・会津南道路という構想があることをご存じでしょうか。

日光と会津を結ぶ会津西街道は、古来から重宝されてきましたが、関東と東北をもっとも西側で接続しており、さらに日本列島の中央を通るルート、山形や新潟に通じる窓口として現在も重要性は変わっていません。東日本大震災の際には迂回ルートとして活用されました。

この会津西街道の利便性、安全性を高めるために、川治温泉の手前から五十里ダムまでトンネルで貫く計画(上写真:宇都宮国道事務所)があります。これが実現すると、首都圏から会津地方への旅行が格段にスムーズになることが期待できます。もちろん、五十里ダムや湯西川温泉へのアクセスも短縮して直線的になるので、かなり足を運びやすくなります。

個人的には、川治温泉を通過するだけのクルマが激減するでしょうから、風情ある温泉街としてリブランドする大チャンスだと感じています。

このトンネル工事については、先ほどの川治ダムと五十里ダムを結ぶトンネル、地上では野岩鉄道のトンネルと葛老トンネルに囲まれて、かなりの難工事が前提のようですが、五十里ダム周辺の観光が、これからどうなっていくのか注目してもらえるとうれしいです。

 

 

未曽有の被害を出した五十里洪水、その前後で湖底に2回沈んだ五十里村、そして五十里ダム完成までの歩みを紹介しました。機会があれば、ぜひこの歴史を思い出しながら観光に立ち寄ってみてください。