tochipro

キャリア・短編小説・NIKKO・Fukushima

伊香保温泉vs鬼怒川温泉【後編】廃墟が並んだ名湯はどうなる?

群馬県において、草津温泉と匹敵するほどの知名度、歴史のある伊香保温泉、その現在を追ってみたいと思います。

 

 

後編では、古くから湯治場として地域の方々に愛されていた伊香保温泉が、バブル崩壊以降にどのように変化したのか、そしてその後の廃墟が並んだ現状とこれからの取り組みについて紹介します。

ぜひ最後までお付き合いください。

 

他にはない小間口制度

1950年代の高度成長期を迎えて、日本全体で旅行ブームが盛り上がった頃、それに応えるように伊香保温泉でも温泉旅館が増えていきます。

伊香保温泉の温泉供給の仕組みは、他の温泉地とはまったく異なっていました。

源泉が坂の上にあって、そこから石段の下を走るトンネルを通って、各温泉旅館に温泉を分配していく「小間口制度」と呼ばれるシステムです。

このシステムが、江戸時代には完成していたというから驚きです。

坂を利用して温泉を分配する仕組みは、効率が良かったのですが、温泉旅館の位置が高いほど湯量が豊富で湯温も高いので、経営的に有利な旅館、そうでない旅館で差が生まれていきました。

また小間口制度によって、限られた源泉を支配的に管理していたのは、当初は大家14軒のみでした。それ以外の温泉旅館は使用量を支払って、源泉を分けてもらう必要があったわけです。

この独特な小間口制度が根付いていたおかげで、伊香保温泉は乱開発されることもなく、ある意味温泉街としての秩序が保たれていました。高度成長期が終わり、その後にバブルの好景気を迎えても、なかなか外部から新規参入するのが難しい時代が続きました。

 

黄金の湯と白銀の湯

伊香保温泉の人気を支えていた理由のひとつは、黄金の湯と呼ばれた質の高い温泉です。

伊香保温泉は、鉄分が酸化した独特の色と匂いが特徴であり、長い歴史と傾斜に沿った味わいのある雰囲気に寄せられて、多くの文豪も訪れてきました。

小間口制度が完成されており、地元以外からの参入を歓迎しない雰囲気のあった伊香保温泉は、爆発的なリゾート開発をされることもなく、ゆっくりと成長していきます。

 

伊香保温泉のピークは、バブル経済が崩壊した直後の平成3年(1991年)でした。年間173万人が訪れており、高度成長期の3倍以上の数字に膨れ上がりました。

こうなると、源泉の総量にも限界が訪れます。源泉を管理していた小間口権利者は、他の温泉旅館に源泉を割く余裕もなくなり、いよいよ伊香保温泉のキャパシティに限界が訪れようとしていたタイミングで、まさかの救世主が現れます。

平成8年(1996年)白銀の湯が発見されました。

この白銀の湯が発見されて、湯量についてはいったん落ち着きを取り戻しますが、また次なる難題が訪れます。今度は、バブル崩壊による景気低迷です。

平成3年から徐々に宿泊者数が減少していき、平成15年(2003年)には126万人にまで落ち込みました。

そして翌年の平成16年、そんな苦しい状況に追い討ちをかけるような問題が発覚します。

 

温泉偽装の発覚

小間口制度によって、限られた黄金の湯を厳しく管理していた伊香保温泉に、新たな源泉として白銀の湯が発見されました。ひとつの温泉地で2種類の温泉が楽しめるようになり、伊香保温泉は次のステージに進んだかと思われました。

しかしこの白銀の湯には、2つの大きな爆弾がありました。ひとつは、いかにも特徴が尖っていた黄金の湯とは異なり、白銀の湯は無色透明だったので、素人には水道水と見分けるのが不可能でした。

また源泉を分配する際の取り決めは、源泉を分ける側、分けてもらう側の二者間のみで契約していたため、どの温泉旅館がどの源泉をどれくらい使っているのか、外部からはまったく見えずブラックボックス化していました。

その結果、発生したのが温泉偽装です。

長野県の白骨温泉が発端となった温泉偽装問題は、伊香保温泉でも行われており、信頼を大きく落としました。水道水を温泉と偽って使うだけでなく、入湯税も徴収しており、長い年月にわたって観光客を欺いていたという大きな事件となりました。

客数はさらに減少していき、平成時代の終わり頃の宿泊者数は100万人前後で推移しました。

 

バブル崩壊によって宿泊者数が激減する傾向は、2000年代以降、全国どこの温泉地でも見られました。栃木県の鬼怒川温泉も、団体旅行が最盛期を迎えた平成5年(1993年)には年間341万人とピークを迎えましたが、平成23年には(2011年)148万人と、半分以下まで落ち込みました。

その背景は一概には言えませんが、バブル崩壊と個人旅行の広がりによって、古くて大きい建物だけが残ってしまったことが大きいです。言葉は悪いですが、銀行と旅行代理店に踊らされているうちに、いつの間にかショーが終わっていたようなイメージです。

さらには東日本大震災の風評被害が追い打ちをかけて、閉館する大型ホテルは増加の一方でした。

 

地元の湯治場として発展してきた伊香保温泉は、好景気の流れに乗って、いつの間にか大型ホテルが立ち並んで、団体客を迎え入れるようになりました。

バブル崩壊が訪れて団体旅行ブームが終わり、その逆境でも伊香保温泉は、個人旅行に舵を切りやすい環境だったと察します。そのチャンスを自滅のように失ってしまったのは、個人的には本当にもったいない出来事だったと感じます。

 

伊香保温泉の現在地

時代が移っても愛され続けた風情のある石段、そこに並ぶ賑やかな街並み、石段以外にも一帯に広がる石畳、質の高い温泉と静かな山間の景色、他の温泉街にとって喉から手が出るほど欲しいような魅力が伊香保温泉には溢れています。

この伊香保温泉の魅力を活かして、温泉街の再生に取り組んでいるプロジェクトを紹介します。

村松旅館は2006年頃までは営業していたようですが、石段に面した場所でかなり目立つ廃墟となってしまいました。

現在は観光客の目線で石段を歩くと、意外と廃墟であることに気づきません。1階部分がスイーツを中心とした飲食店として活用されており、賑わいを演出しています。

 

同じような取り組みはすぐ隣の廃墟旅館でも進んでおり、築100年以上の市川旅館を活用する動きがはじまっています。廃業してから40年以上も放置されていたようですが、この各階に飲食店やセレクトショップが出店して、情報発信の拠点としても活用される予定です。

群馬銀行の子会社が中心となって、地元企業が協力して出資した「石楽」というまちづくり会社を設立、耐震工事や内部のリノベーションを行っています。

この取り組みは、クラウドファンディングによって資金を集めたことも大きな特徴です。早々に目標金額を達成、私も微力ながら協力させていただきました。

 

伊香保温泉を特集するにあたって、たくさんの動画やブログを見ましたが、実際に行ってみると言われているほど廃墟のイメージはないな...という印象です。

むしろ、味わいのある石畳の街並みが伊香保温泉全体に広がって、老舗旅館も数多く建っているので、パッと見ではどれが廃業している旅館なのかわからないくらいです。

メイン通りから一歩入ると、確かに放置されている建物も多いのですが、個人的にはこの風景も歴史の長さが感じられますので、防犯上や防災上で問題なければ、急がずとも自然と新たな活用方法が見つかるような気がします。

 

そんな伊香保温泉に、10年以上振りに訪れたのですが、あちこちで解体工事やリニューアル工事が行われ、リノベーションが進んでいる建物も見られます。

射的や輪投げなど遊べる場所が多いので、泊まるホテル以外で過ごす時間も楽しそうです。夏休みと紅葉の合間という、中途半端な時期に行ってみたわけですが、平日にも関わらず人通りも多く、とにかく動きがある温泉街という印象でした。

 

前編では栃木県の鬼怒川温泉と比較しながら、伊香保温泉の歴史をまとめましたが、伊香保温泉の強みや実力をもっとも理解しているのは地元民の方々で、このままじゃいけない…もっと良くなるはず…という実際の活動に繋がっていると思います。

参考になる温泉街は多いのではないでしょうか。

 

伊香保温泉がこれからどのように再生していくのか、今後さらに人気の温泉観光地になっていくのか、注目していきたいと思います。