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伊香保温泉vs鬼怒川温泉【前編】まったく異なる戦略で成功した歴史

その起源がはっきりしないほど、古くから湯治場として有名だった伊香保温泉、その歴史は近代になって急激に発展した温泉観光地とはまったく異なるものでした。

今回の記事では、伊香保温泉の歴史や特徴をより明確にするために、栃木県の鬼怒川温泉との比較で紹介します。

前編では、2つの温泉地の源泉発見から、戦後になって全国的な知名度を得るまでのストーリーを紹介します。

ぜひ最後までお付き合いください。

 

伊香保温泉の起源

伊香保温泉の源泉発見は、発見当時の記録ないほど古いものでした。残っている資料から、少なくとも鎌倉時代や室町時代にはあったことがわかっていますが、もっと前から存在していた説もあったりして、何にしても1000年以上の歴史があるわけです。

現在のように、集落として形になったきっかけは、武田氏から土地を与えられた木暮下総守祐利(こぐれしもうさのかみすけとし)でした。1576年に、傾斜を利用した街並みが造られました。

長篠の戦いによる、たくさんの負傷者を癒すために、武田勝頼によって、有名な石段も造られ、温泉地の都市計画としては日本初の試みだったようです。

この地形にも要因があると思いますが、1784年、1793年、1878年、1920年と江戸時代から大正時代にかけて何度も大火災が発生して、温泉街の大部分が焼け落ちてしまった歴史もあります。

明治中期には、日本有数の温泉として知られており、明治20年(1887年)の記録では、年間32,000人が宿泊に訪れています。この頃の平均滞在日数は約6日だったので、わざわざ伊香保温泉まで足を運んで、ゆっくり過ごしながら治療をしたり療養したい方が集まっていたことがわかります。

 

伊香保温泉の性格

一度時間を巻き戻して、戦国時代の終わりまでさかのぼります。

1590年に源泉の扱いに関して、大家制度が導入されました。簡単に表現すると、伊香保温泉の大家14軒が、限られた源泉を独占的に支配するイメージです。

そんな大家も火災などを機に数が減っていき、明治20年(1887年)には4軒が残ったのみでした。軒数が減った分、県内の有力者が進出してきて、こういった世代交代をしていきながら、地元資本が中心となって湯治場として順調に発展します。

明治35年には44軒の温泉宿があり、湯治場だけでなく政界財界、さらには皇室関係者の避暑地としての使われ方をしてきました。

 

一方の鬼怒川温泉は、明治末期になっても温泉宿は1軒、麻屋旅館のみでした。

この背景には、元禄5年(1692年)に源泉を発見したものの、幕府管轄の日光山領であったために一般の人の利用が禁じられていたことが大きいです。

明治時代になってやっと誰でも利用できるようになったものの、湯量を増やそうと源泉付近を爆破したが大失敗、むしろ川の冷たい水が流れ込んでしまい、温泉自体が放置される事態になってしまいました。

このように鬼怒川温泉は、明治時代の終わりまではまったく知名度がない状態、伊香保温泉は、地元民によって湯治場としてのブランディングに成功、という対照的な歴史を歩んできました。

大正時代の末期には、伊香保温泉の近隣に、県立榛名公園という一大自然公園が建設される計画がありましたが、この計画に東京資本が参入することを全町一丸で反対、閉鎖的な性格を強めていくことになります。

 

東京資本との関係性

明治維新以降の近代化の波は、伊香保温泉にも訪れます。

明治42年(1909年)に、旧大家が中心となって伊香保電気軌道が計画され、翌年には渋川~伊香保温泉の路線が開通します。この鉄道は、大正2年(1913年)には高崎水力電気、大正10年(1921年)には東京電灯に統合されていきます。

最終的には東武鉄道に経営が移って、浅草から渋川まで直通運転をする計画もありましたが、これに地元資本は反対。それと並行して、昭和4年(1929年)伊香保温泉自動車を設立、バスによるアクセスが広がっていきます。

東武鉄道は日光・鬼怒川方面に注力していたこともあり、結果的に伊香保温泉までのアクセスは廃止されてしまいました。大正時代から昭和初期にかけて、伊香保温泉は東京に頼らずに、独力で発展していく選択を続けていきます。

 

同じく大正時代の鬼怒川温泉は、大きな転機を迎えていました。

東京一帯の電力需要の爆発に応じて、水力発電所の建設が急がれていた時代です。ここで鬼怒川が水力発電所の建設候補地として大抜擢されました。

これによって、鬼怒川の上流に黒部ダムを建設して、鬼怒川温泉の付近に下滝発電所を建設するという、巨大な事業がスタートします。さらに日光での鉱山開発も盛んだったこともあり、資材の運搬のために馬車鉄道が引かれ、交通網の整備が進みました。

大正2年(1913年)に、ダムが完成したことで馬車鉄道は廃止されることになりましたが、当時の有力者星藤太が奔走して、下野軌道として復活しました。この背景には東武鉄道の支援もありました。

下野軌道は下野電気鉄道を名称を変え、時代の変化に合わせて東武鉄道が経営に参入するようになり、昭和4年(1929年)には、東武鬼怒川線として浅草から鬼怒川の直通運転が開始されます。

東武鉄道は、鬼怒川温泉での洋風ホテルの建設も進めていき、鬼怒川温泉は「東京から直通の温泉観光地」として発展していくことになりました。

乱暴な表現ではありますが、鬼怒川温泉は、伝統や歴史といった部分が浅く、東京資本が中心となって最初から観光地を目指して発展してきたわけです。明治末期には1軒しかなかった温泉旅館は、昭和5年(1930年)には9軒まで急増しました。

 

観光温泉地として完成

伊香保温泉は地元資本が中心となり、歴史ある温泉街の雰囲気を活かしながら成長してきました。高度成長期を迎える1955年までは、旅館やホテルの軒数が増えてきたわけではなく、翌年から新たな進出や別館の建築など、28軒が増加しました。

その28軒のうち、21軒は伊香保町民、6軒は群馬出身による経営だったので、相変わらず地域色、地元色が強い温泉街でした。集客エリアも比較的狭く、群馬県内や関東エリアの利用者が大部分を占めていました。

 

温泉観光地として急発展した鬼怒川温泉は、収容人数1000名クラスの大型ホテルが乱立するようになりました。鉄道会社や旅行代理店が主導となって、東海地方や近畿地方から訪れるツアーも組まれるようになりました。

団体旅行ブームになる頃には、旅行代理店が送客装置となり、鬼怒川温泉全体がその受け皿になる、強力な連携が完成したわけです。

 

 

伊香保温泉と鬼怒川温泉は、どちらも知名度が高く、同じ関東エリア、東京から2時間強で行ける温泉地です。むしろ共通点はそれくらいしかなく、発展する経緯を紹介した通り、その歴史や考え方はまったく異なるものでした。

温泉自体の実力や歴史を武器にして、地元民が中心となった戦略で成長してきた伊香保温泉。大正時代になってから、東京と連携して「いかにも温泉観光地」という大規模開発がされてきた鬼怒川温泉。

それぞれの魅力を発揮しながら、バブル経済の時代に突入します。

 

後編では、衰退の歴史と廃墟問題、次の世代に向けた取り組みを紹介します。

最後までお読みいただきありがとうございました。