2021年度、第75回栃木県芸術祭の創作部門(短編小説)で準文芸賞を受賞した作品「ゴン」です。受賞した原作から言い回しを修正して、横書きで読みやすいように改行を増やし、感嘆符を付ける等、少しだけアップグレードした作品です。栃木県で上位3名に入ったことは大きな自信になりましたが、より良い作品を生み出せるよう、また新たに視野を広げたいと思います。
ペットが関わる生活の移り変わりをヨコ軸、世代を超えて繋がる想いをタテ軸として自分なりに描きました。一読いただけると幸いです。
平成8年の秋、祖父の葬儀のため、哲也は夫婦で栃木に戻っていた。祖父は75歳で亡くなったので、健康に長生きした方ではないだろうか。きっと心残りもなかっただろう。巷で聞いたことのある理想的な亡くなり方「ピンピンコロリ」だったらしい。いつものように犬の散歩に出掛けて途中で倒れ、そのまま救急車で病院に送られ、その夜に息を引き取った。一緒に散歩していたフレンチブルドックのゴンは、倒れた祖父の異変に気づいて珍しく吠えまくったおかげで、通りすがりの人が救急車を呼んでくれたと聞いている。本当にゴンはお利口だ。哲也はゴンに会うなり、何も言わずにしゃがんで両腕で抱きしめることで感謝を伝えた。栃木県内に住んでいる哲也の両親も駆けつけたが間に合わず、本当に誰の世話にもならずにコロリと亡くなってしまった。
5年前に祖母を病気で亡くして、祖父は元気がなくなった。この時すでに70歳、哲也の目には背中がより小さく感じられた。哲也と祖父、祖母の3人で話す状況では、いつも祖母が会話のきっかけをつくってくれたので、祖母が亡くなり哲也と祖父の2人きりになってしまうと何を話したら良いのかわからず、哲也は随分と気を遣って祖父が好きそうなテレビチャンネルに変えてやり過ごしていた。祖父から話しかけてくることはなく、哲也の「体調はどう?」という質問にも「まずまずだな…」みたいな一問一答で終わるパターンが定着していた。平成3年、テレビでは連日のように湾岸戦争の様子を伝えており、哲也も祖父もニュース番組に見入っていたが、だからといって戦争について会話するということは一度もなかった。哲也の感想は「戦争ってホントに起きるんだ…」という程度で、まるでゲームのような映像に非現実感を覚えた。祖父はただ黙ってテレビの画面を見ていた。何を思っていたのだろうか。
祖母が亡くなったことで、祖父の暮らしはどうする、という話になった。哲也の両親が祖父と一緒に暮らす選択肢もあったが、自分のことくらい自分でやれる、と祖父が遠慮した。祖父がそれなりに元気なうちは慌てなくてもいいだろうと無難な先延ばし案が採用された。独身の哲也は都内の会社に勤めているが、特に用事のない週末には祖父の家に顔を出した。月に1回は祖父の家に立ち寄ってあげようという両親との約束だった。しかし、どう考えても顔を出す理由が見当たらない時は困ったものだった。どこかに出張に行ってお土産がある時は、祖父に会うそれなりの理由があるのだが、ほとんどの場合は理由もなく立ち寄って、最新鋭ミサイルが飛び交っているニュース番組を一緒に見ることになっていた。
祖母が亡くなって祖父が1人ぼっちになり、何事もなく初盆が終わった。やはり今の祖父には、誰か話し相手がいた方がいいのではないか…と哲也は思っていた。8月下旬の金曜日。哲也は仕事帰りに、葵と宗和の同期3人で軽く飲む機会があり、週末に何をして過ごすかという話題になった。哲也は栃木まで足を運んで祖父に会いに行き、淡々と2人で過ごす予定。葵は美容室の予約を入れてしまっており、あいにく雨の予報なのですでに落ち込んでいる。雨が降るとさらに、ワンルームのアパートで犬と遊ばなければならないから大変という話だった。犬を飼っていることは知っていたが、晴れたら晴れたでアスファルトが熱すぎて犬の散歩に行けず、雨が降ると部屋の中だけでストレスを発散させながら過ごすので大変らしい。葵は一人暮らしで室内犬、トイプードルを飼っているので夜遅くまで遊んでいたなんて話を聞いたことがない。そんな葵のことを哲也は気になっていた。ショートカットでブランド物など持たず、仕事中もほとんどおしゃべりをしない。でも何かを聞いてみると、丁寧に最後まで話を聞いて答えてくれる葵からは滲み出る優しさが感じられた。
宗和はこの週末もジムに行って体を鍛えるらしい。宗和とは入社以来の付き合いだが、ジムに行く前は釣りに夢中になり、その前はダーツの練習をしていた。さらにその前は日本酒を極めたいと言い出してあちこちの飲み屋、酒蔵に足を運んでいた。宗和はとにかく色々なことに興味を持って動き出して楽しそうにしている。そのたびに哲也に「なぁ、一緒にやろうよ」と誘ってくれるが、その誘いに乗ったことは一度もない。おそらく同期という関係性がなかったら、こんなに仲良く飲むこともなかっただろうし、2人の間に穏やかな葵がいることで、ちょうどいい3人組になっているように感じていた。哲也はこの時25歳。入社3年目で異動になり同期の葵と同じ部署になった。哲也と葵は、入社式や社内イベントで何度も顔を合わせているはずだったが、お互い目立つキャラクターでもなかったので、一緒に働くようになって「あ、初めまして」のような挨拶をしたものだった。積極的に絡んでくる宗和のおかげで仕事帰りに飲むことも増えて、上司に対する愚痴を言ったり聞いたり、哲也がイメージしていたサラリーマン生活に近くなってきた。
葵のトイプードルの話に戻った。
「それでもやっぱりいてくれると癒しになるし、自分も散歩できるからいいんだけどね」と幸せそうな目で話してくれた。飼ってみないとわからない幸せがあるらしい。散歩とか日常の手入れなど大変な部分があったとしても、犬と一緒に暮らして楽しそうに話してくれる葵は確かに幸せそうだ。手帳に写真まで挟んでいる。
「俺はさ、全然犬に詳しくないんだけど、もしもだよ、70超えたおじいちゃんみたいな人が飼うとしたら大変かな?」唐突に哲也は葵に聞いてみた。祖母が亡くなって数ヶ月が経ち、残された祖父にペットをプレゼントしたらどうかな…そんなことを哲也は考え始めた。哲也は祖母が亡くなったこと、残された祖父が1人で暮らしていて毎月栃木まで会いに行くこと。祖父が元気がなくなったと感じていること。祖父と会っても2人でニュース番組を見て、特に盛り上がる話題もなく過ごしていることなどを相談した。葵は手放しでペットのプレゼントに賛成した。何にでも手を出す宗和は意外と「おじいちゃん1人で世話するのは大変じゃないかな?」と慎重な意見だった。
「明日時間があるならペットショップに行こうよ」と葵から誘ってくれた。葵は宗和にも「宗和くんはどうする?」と聞いていたが「俺は午前にちょうどジムの予約が入っているから、また話を聞かせてよ」と断った。哲也は心の中で「マジで?」と呟いた。葵は気になる存在だが、2人だけでどこかに出掛けたことはなく、グイグイ引っ張る行動的な宗和と実直な葵のペアの方が相性が良いのではないかと勝手に思っていた。葵から哲也と宗和を誘ったことが意外に感じられた。葵はペットショップに行きたいだけかもしれないし、ペット友達が欲しいだけかもしれないが、哲也にとってはどちらでもよく「明日どこに集合しようか?」と待ち合わせ場所を決めた。
土曜日、哲也はその日の栃木行きを日曜日に延期して、葵とペットショップに行くための準備を始めた。準備といっても犬の種類などを見るために、本屋で立ち読みして、ある程度葵と話が合うようにしておこうと思ったのだが、あまりに種類が多くて写真と犬種が繋がらないので頭に入れるのは諦めた。ビジネスコーナーには、バブル崩壊後の日本経済や東西冷戦後の世界を占うような本が並べられているが、そんなことより哲也は葵に会ったら何を話そうか…そればかり考えていた。哲也にはこれといって趣味や得意なことがない。何か夢中なことはありますか、みたいな質問が何より苦手だった。何を話そうか、ペットショップは犬猫の話でどうにか場を持たせるとして、店を出てからどうしようか…祖父のことは置き去りで、そんなことを悩んで結論が出ないまま待ち合わせの駅前に着いた。
葵と向かったペットショップは、駅前のアーケード通りにある室内犬専用の店だった。小型犬から中型犬までのサイズ15匹を店内のショーケースに並べていた。葵が飼っていると聞いたトイプードルは、さすがに哲也でも見分けられる。ブラウンの毛が小さく巻いており、クリクリの目をしてピョンピョンとジャンプしている。値札には「売れ筋ナンバーワン」と書いてある。売れ筋という言い回しに哲也は違和感を覚えたが、犬にとっても店にとっても最適な飼い主さえ見つかれば構わないのだろう。葵は「へぇ、可愛い」と言いながら、キャンキャン吠えているチワワに近寄ったり、うとうと寝てしまいそうなダックスフンドに見入っていた。葵がショーケースに鼻がぶつかりそうになるくらい近づいて、それを哲也は後ろから眺めるという状況がしばらく続いた。もし宗和がこの場にいたら「じゃ、俺も飼ってみようかな」と勢いで買ってしまうかもしれない。あいつなら葵と一緒に犬の話題で盛り上がって、ペットライフを楽しめそうだ。そして後ろ姿を見ていて気づいたが、葵は哲也と待ち合わせる前に美容室に行っていた。こういう時に哲也は反省する。どうして会った瞬間に女子の変化を褒めてあげられないのだろう。宗和はそういうところが上手い。
不意に葵が振り向いて「このワンちゃんはどうかな?」と聞いてきた。びっくりして出た言葉が「何が?」だったが、葵の向こうを見ると白いブルドックが座っている。ショーケースの中のブルドックを優しそうに見つめながら、葵は解説をしてくれた。「このワンちゃんは生まれてまだ3ヶ月くらいかな。フレンチブルドックといって大きくなっても10キロくらいにしかならないらしいよ。ご飯も人間ほどいらないし、お散歩だって1時間もいらないんじゃないかなぁ。あまり吠えないし、家の中で動き回らないから、お世話も大変じゃないと思うんだ。たぶんテレビとか見ていたら、隣にちょこんと座ってくる感じかな」哲也は、葵が祖父のことを真剣に考えてくれていることに驚いた。哲也は葵と何を話そうか悩んだ挙句、葵の後ろ姿を見ながら宗和のことを考えていたので、犬のことに頭を切り替えるのが大変だった。
「へぇ、可愛いね」と葵に返事をしたが、ブルドックのような顔つきの犬に対して、正直どのような感想を言ったら相応しいのかわからない。女性店員が寄ってきて「抱っこしてみましょうよ」と提案してきた。哲也が「別に大丈夫です」とやんわり断る前に、葵が「いいんですか?」と笑顔で返事をした。近くのソファに哲也と葵が並んで座って、さっきの店員がフレンチブルドックを抱いてやってきた。店員は迷うことなく哲也ではなく葵に「お待たせしました」と声をかけて膝の上に犬を乗せた。犬はぺたんと低い姿勢で抱かれている。葵は慣れた様子で左手を優しく首に回し、右手で櫛を通すように背中を撫でる。
「フレンチブルドックはまだまだ飼っている人が少ないんですが、室内でも飼えるし今後人気が出てくると思いますよ」女性店員はこの不思議な距離感の男女に、当たり障りのない説明をしてくれた。葵はペットを探している哲也について話し始めた。正直なところ哲也は、1日でも早く犬を祖父にプレゼントしたい、というほどのモチベーションではなかったが、葵の隣で話しているうちに、離れて暮らしている孫が寂しい祖父のために本気でペットを選んでいる、そんな自分を演じるようになっていた。
「哲也くんも抱っこしてみなよ」と言われて両手を差し出した。葵の両手が哲也の両手に乗り、葵の体温と犬の体温を同時に感じる。哲也は上手に抱っこできるか不安だったが、大人しく膝の上に乗ってくれている。それほど機敏な動きをすることもないようだし、確かに今並んでいる15匹では確実に祖父のペットに向いているように思えた。何より哲也でも問題なく抱っこできて、心地良さそうにしていることが哲也の小さな自信になった。そして葵が選んだフレンチブルドック、もし今日を逃してしまうと後悔するような気がしていた。少なくとも哲也と葵、2人だけの共通の話題ができる。この愛嬌のある子犬は祖父の元に行ってしまうけど、だからこそ栃木まで会いに行く楽しみができる。まだ生後3ヶ月の子犬の成長も楽しみだし、それについて祖父とも話題ができる。飼うことで不安や相談があっても、それもまた葵とのコミュニケーションになる。良いことしかないじゃないか。フレンチブルドックが哲也の膝に乗り、葵がその背中を撫でている。さっきまでは想像もできなかった光景が哲也の目の前に広がっている。
店員も「このワンちゃんだから気になっているんですよね。ここで買い逃したら、すぐに違う誰かと家族になってしまうかもしれませんよ…運命の相手って、まさかってタイミングで出会いますからね」と背中を押してくれた。
店の近くの公衆電話から祖父に連絡して、子犬を飼うことに対しての了承は得た。何となくペットショップで買うことは知られたくなかったので「同僚が生まれたばかりのブルドックの飼い主を探している」という流れにしておいた。祖父は「別に構わんけど…」の一言だったので決心がついた。金額的には哲也の給与1ヶ月分相当にはなるので躊躇しないわけではなかったが購入を決めた。こんなに衝動買いみたいなアクシデントは哲也にとって初めてだった。1時間くらいペットショップにいて、フレンチブルドックから感じた温もりと葵との距離が縮まった嬉しさの合わせ技一本で決まった。
ペットショップを出てから葵と何をしようか悩んでいたが、取り越し苦労に終わった。そのまま葵に礼を伝えて別れ、子犬を専用の段ボールに入れて栃木に向かった。出迎えた祖父は、フレンチブルドックという大人しい子犬が来たことよりも、哲也が電話した当日に子犬を連れてやって来たことに驚いていた。
「そんなに急いで連れて来なくてもいいのに、どうしたんだ?」と祖父に聞かれたが「まぁね」と答えて、室内犬用のサークルやエサなどを買いにホームセンターに出発した。祖母が亡くなってから初めて祖父の家に泊まった。魚を焼いただけの質素な夕食を終えてから、子犬の飼い方について哲也が聞いた限りの情報を祖父に伝えた。
「このエサはドライフードで硬いから、子犬には食べにくいんだ。潰れるくらいお湯でふやかしてから1日3回あげてちょうだい」
「とにかく最初の1ヶ月はサークルからあまり出さないで、このサークルが自分の居場所で、おじいちゃんが飼い主だってことを教えなきゃだめだよ」
「寂しくて吠えていても相手しちゃ駄目だよ。吠えても誰も来ないことをわからせるんだ。そうすれば本当に大切な時だけ吠えるようになるよ」
本当に大切な時ってどんな状況かな?そんな考えが頭に浮かんだが、哲也はまるで自分も飼っていた経験があるかのように色々説明した。哲也は自分の熱心さが意外だったが、葵と店員に聞いた内容は今日の今日だったので、必要なことは漏れなく伝えられたと思う。
電気を消して布団に入り、隣の部屋では子犬がサークル内でジャンプしているだろう音が聞こえた。今なら哲也でも子犬を飼うことができそうだ。1日過ごしただけで、フレンチブルドックの皺だらけの顔も本当に可愛いと思えるようになってきた。1年から2年で大人の体格になるらしい。成長が楽しみだ。明日も世話をするわけだが、その世話も哲也が楽しみになってしまっている。自分でお金を出したからでは決してなく、今までに感じたことのない愛情みたいなものが哲也の中に芽生えている。
次の日、日曜日は夕方まで祖父、子犬と過ごした。祖父の家は静かで、子犬がのんびり寝るには良い環境だ。ほとんどの時間をサークルの中で寝て過ごし、哲也はその様子を眺めていた。祖父は手慣れた感じでエサをあげたり、糞の始末をしていた。聞けば戦争で東南アジアに遠征した時に、宿舎の番犬だった柴犬を兵隊達で世話していたらしい。「早く言ってよ」と哲也は笑ったが、祖父も家で飼うのは初めてだったので、哲也の説明は役に立ったようだ。フレンチブルドックの名前は、祖父が呼びやすいという理由だけでゴンに決まった。
月曜日になり、満員電車で出勤する日常に戻った。いつも哲也はヘッドホンでカセットテープを聴き、覚える必要のない歌詞を頭でリピートして時間を過ごしていたが、この日はゴンのことを考えていた。早く会いたいな…次に会った時に自分のことを覚えていなかったらどうしよう。そうだ、葵にも報告しよう。この週末を一緒に過ごしただけだが、ゴンと出会えた、それだけで楽しい気持ちになっている。祖父は淡々としていたが、ゴンがもう少し大きくなって散歩に連れて行けるようになり、日々の活力になればいいと思っている。会社に到着して葵を見るなり感謝を伝えた。
「土曜日はゴンのことありがとう。あ、ゴンはあの子の名前ね。おじいちゃん喜んでくれて本当に良かったよ。今のところエサも順調に食べているし、犬の面倒をちょっと見ていたことがあるんだって。今度写真撮って持ってくるね」と一気に報告した。多少誇張した報告に、葵は「良かったぁ」と手を叩いて背伸びした。満面の笑顔で嬉しそうだ。宗和は相変わらずペットには興味が湧かないようだ。フレンチブルドックのゴンと聞いても、その顔と毛並みと体温を思い出せるのは哲也と葵しかおらず、宗和はピンとこない様子で「へぇ、そのうち見てみたいね…」という程度の反応だった。葵やペットショップの店員に言われた、ペットを飼ってみないとわからない幸せがある、は本当だった。たった2日間の飼い主気分だったが、何か自分が好きなものができたことが嬉しかった。
次の週末も祖父の家に泊まることになった。ゴンは幾分大きくなり、エサもよく食べている。哲也がサークルから出してもまったく吠えず、安心して抱っこされている。祖父にもよく懐いているように見える。早くゴンの体力がついて、ワクチンを打ち終わってからの散歩が楽しみだ。ちょうどその頃には夏も終わり涼しくなっていることだろう。今回は使い捨てカメラを持って行ったので、ゴンの食べている様子、寝ている様子、祖父に抱っこされている様子を撮った。日曜日の朝は祖父の運転で、エサや消耗品を買いにホームセンターに出掛けた。どこで何を買えばいいのか祖父に教えて、動物病院の場所も伝えておいた。ゴンがそこにいなくても「ゴンのエサはずっとこれでいいのか?ゴンのおもちゃもあった方がいいのか?」と、祖父が自然とゴンと呼んでいることがわかる。哲也は祖父の家に毎週末のように行けるとは限らないので、いざという時には祖父だけで対応できるように準備をしておいた。月に1回は祖父の家に顔を出すという両親との約束だったが、お土産がなくても話題がなくても栃木に行く楽しみができた。
写真を現像して葵にゴンの様子を見せた。
「可愛い。会いたいなぁ」と予想通りの反応が返ってきた。
「葵のトイプードルは何歳なんだっけ?」
「入社した年から一緒だから3歳だよ。もう大人」
「散歩のついででもいいから会わせてよ」
「もちろん」
葵との距離はペットショップに行ってからというもの縮まってきている。とにかくペットの話であれば、葵はいつまでも付き合ってくれる。宗和と3人で飲む時はさすがにペットの話題ばかりとはいかないが、その分2人でいる時には、思う存分ペットについて話せる関係になってきた。
土曜日の朝、哲也は葵の住んでいる近所の公園に向かった。以前のように、会ったら何を話そうとか考えなくなっているので、葵との関係性が変わっていることを哲也は実感している。きっと葵も同じではないだろうか。リードに繋がれたトイプードルがやって来た。その向こうには葵がいる。葵は笑顔で「こんにちは」と声をかける。「おはよう」でも「お疲れ様」でもないところに哲也は何かを感じる。
「すごい可愛いじゃん。この子はどこで知り合ったの?」と哲也が聞く。哲也の中で何かが変わったのか、葵の力なのか、それとも犬の持つ魔法なのか、哲也は可愛いものを素直に可愛いと言うようになり、それと同時に自分の気持ちも高まっていることを感じた。途中で小雨になったため、1時間くらいの公園デートだったが、トイプードルを飼うようになった経緯、シャンプーがうまくできず誰にも相談できなかった話、熱が出て泣きながら動物病院に行った話、葵はいつまでも話せるような勢いだ。哲也としてはもちろんペットの話も楽しかったが、葵の住んでいる街にはどんな店があるのか、就職活動では地元に戻ろうか東京で働こうか真剣に悩んだ話、自炊のレパートリーが少なくて困った話、色々と話題が広がったことが大きな成果で嬉しかった。葵とは何でも話せる気がする。確かに宗和と過ごす時間も楽しいが、いつも宗和のペースで進んでいる感覚があった。そのペースに乗っかりながら過ごす時間も楽ではあったが、宗和と過ごした後は、哲也はいつも自分を振り返ってしまっていた。俺は何がしたくて何をしているんだろう、そんなことを考えずにはいられなかった。
10月になり少し涼しくなった頃、ゴンはワクチン接種を終えて散歩デビューできるようになった。それまでは祖父の家の庭でしか、かまってあげることしかできなかったので、外の世界に出ることに哲也も少しの緊張を感じる。たまたま哲也と祖父だけでなく、両親も揃っている。ゴンをリードを繋いで、15分かけて4人プラス1匹で一本道を行って帰ってきた。ゴンは祖父のペースに合わせて歩いているように見えた。亡くなった祖母のことを話すわけでもなく、ただゴンの散歩デビューを静かに見守るだけの15分だったが、ゴンが祖父の家に来てくれて本当に良かった。声に出さずとも4人とも同じ気持ちだった。祖父はゴンの世話をしたり可愛がったりすることで、ちょっとした全身運動になっており、何かとゴンに話しかける機会が増えた。祖父がソファに座ってテレビを見る時は、ゴンはその膝の上で一緒にテレビを見ている。ゴンが怪我もせずにすくすく育っていることを、祖父は哲也に報告してくれる。
その年の秋は、平日は仕事をして合間で葵とペットの話をする、土曜日は葵の都合さえつけば哲也、葵、葵のトイプードルで遊ぶ。日曜日は哲也、祖父、ゴンで過ごす、というパターンが定着した。宗和は哲也と葵の関係に気づいているようで、金曜日の夜に飲みに行こうと誘うことがなくなった。たまに哲也と葵で外食をすることがあり、ペットの話だけではなく、巷では何の曲が流行っているのか、これまで見て感動した映画、学生時代の思い出などプライベートな話題がどんどん増えてきた。ゴンはみるみる大きくなり、体重も5キロを超えて祖父と1時間くらい散歩で歩くようになった。哲也は祖父とゴンの様子を見て、祖母が亡くなったショックはだいぶ和らいだと感じた。祖父は元気を取り戻している。そして週末に葵と過ごす機会が増えたこともあり、冬を迎えた頃には栃木に行く頻度は以前のように月に1回程度になった。
バブル経済が崩壊して日本はどうなるのか、バブル経済とは何だったのか、ニュースでは相変わらず大騒ぎだが街並みは華やかだ。哲也の周りでも、いずれ景気は回復するだろうという楽観的な見方が多かった。トレンディドラマの主題歌が流れるクリスマス、雪が積もっている神社での初詣など季節のイベントを葵と過ごして、自然と2人は付き合うようになった。哲也は願う。このままいつまでも、葵とトイプードルと一緒にいられますように。哲也にとって葵がいれば仕事が大変でも、どこかで戦争が起きようとも、好景気になっても不景気になっても、明るく毎日を暮らせる気がしている。初めて将来を意識したパートナーだ。この半年は哲也にとって大きな変化がいくつもあった。祖母の死がきっかけではあったが、ペットと暮らす生活の楽しさを知ることができた。ゴンと会うと哲也は嬉しい気持ちでいっぱいになり、祖父もゴンもゆっくりと温かい時間を過ごしていることがわかる。この経緯にはずっと葵が関わっている。小さい子犬だったフレンチブルドックが哲也と葵の距離を縮めてくれて、葵のトイプードルがさらに哲也の背中を押してくれた。
湾岸戦争で侵略から解放されたクウェートが、各国に感謝のメッセージを送っている。米国の主要新聞に、湾岸戦争勝利に貢献した国名が挙げられ、その中に日本がなかったことで世論はまた割れている。
「やっぱり資金的な援助だけでは国際貢献とは認められない」
「軍事行動による具体的な援助をしなければ、日本の国際的地位が下がる」
「現状の自衛隊では活動範囲に限界があるので、今後は憲法改正が必要だ」
という意見を述べるコメンテーターが増えている。もちろん反対意見も根強く、日本が平和で経済大国になったのは日本国憲法のおかげだ、という意見も改めて耳にするようになった。哲也は金曜日の仕事帰りに、新橋駅前でいきなりテレビ番組のインタビューを受けた。マイクを向けられ、自衛隊のあり方を聞かれて何も話すことができなかった。上手に断り文句も言えず、聞いたことはあるが真剣に考えたこともないようなテーマだったので「すいません…」と一言残して立ち去った。その映像が放送に使われることはないだろうが、哲也にとっては何とも後味の悪さだけが残った出来事だった。自分以外の日本人は世界との関わり方や自衛隊のあり方なんて考えたりするのだろうか。哲也の父は銀行に勤めているので、バブル崩壊、数年後に予定されている金融ビックバンについて話すことはある。銀行の将来はますます厳しいらしい。日本は結局のところ、経済大国であることに誇りを持っていることは感じる。日本の素晴らしさとは経済的に豊かであること、これで良いのだろうか。祖父ならインタビューに答えられただろうか。
平成4年の春、ゴンが1歳になる記念に、哲也と葵は栃木に向かい祖父の家を訪れた。葵を両親より先に祖父に会わせるのはどうなのか、と2人で考えたものだったが、ゴンが祖父の家にやって来た経緯を考えれば、葵がゴンに会う、それから両親に挨拶した方が葵の気持ち的に楽だろうという結論になった。葵はゴンに会うなり「大きくなったねぇ!会いたかったよぉ」と泣きそうになりながら抱きしめた。すでに体重が8キロのゴンは葵の顔中をペロペロ舐めている。ゴンが生後3ヶ月の時にペットショップで出会って以来なので、およそ9ヶ月振りだ。
「突然失礼しました。小川葵と申します」と我に返った葵は、慌てて祖父に挨拶をした。葵にとっては、ゴンだけでなく祖父、夕方は哲也の両親にも会うという緊張が続くような1日だったが、お互いの第一印象は良かったらしく、楽しんでもらえたようだ。葵は哲也の家族に対しても丁寧な受け答えをして場を和ませてくれる。ペットの話題は葵としても話しやすいようで、祖父とゴンを引き合わせたことは葵の存在感を大きくさせた。哲也の母がこっそり「あんたにはもったいないね」と言っていたが、哲也も心からそう思っている。
哲也と葵だけになり東京に帰る電車で、葵は「また行きたいな」と言ってくれた。ゴンとの別れ際は本当に寂しそうだった。次に葵と栃木に行く時は、何かしら人生の節目だろうと哲也は思っていたが、あっという間に翌年、結婚する意思を伝えるために、また葵と一緒に向かうことになった。
哲也の父が勤めている銀行は、バブルが崩壊してただでさえ融資先の確保が難しい状況で、不良債権処理が経営の足を引っ張っていた。父はリストラの対象になる前に自分から取引先で迎えてくれる一般企業に転職した。父はよく「銀行に勤めておけば将来は安心だ」と哲也にも言っていたが、時代の大きな変化の前には、人生何が起きるかわからないし、絶対の安心なんてひとつもない。救いは父を迎えてくれる会社があったことだ。その会社の見たことのない誰かが、父との繋がりを大切にしてくれた。そのおかげで実家に対する懸念も消えて、哲也と葵は結婚した。憧れていた葵との生活は幸せに過ぎていった。トイプードルをさらに1匹迎えて、2人と2匹で散歩日和のような月日が流れた。
平成8年の秋、父が喪主を勤めて祖父の葬儀が行われた。祖父がどのような近所付き合いをしていたのかはわからないが、数十人の参列者が焼香に来た。その様子を見ているうちに哲也は、祖父が亡くなったことがやっと現実に感じられるようになってきた。哲也と葵が祖父に最後に会ったのは2週間前だ。いつもとまったく変わらない祖父とゴンがいて、いつものように夕方の散歩に行くタイミングで別れの挨拶をして東京に帰ってきた。最後の会話が思い出せないくらい、何の変哲もない挨拶だったと思う。祖母が亡くなってからの祖父は、一時期気持ちが落ち込んでいたが、ゴンと出会ってからは笑ったり話すことが明らかに増えた。祖母の話も自然とできるような雰囲気になり、葵が「おばあさんはどんな方だったんですか?」と聞いた時にも「俺にはもったいない女だったよ」と笑っていた。哲也は「あんたにはもったいないね」と今でも母に言われていることを思い出し、祖母と葵は雰囲気が似ているのかもな、と考えていた。祖父が亡くなることがわかっていたら、何か改めて祖父に伝えたかったことはあるだろうか、祖父から聞きたかったことはあるだろうか、哲也は葵に聞いた。葵はただ涙を流して、それを見た哲也はもらい泣きのようになってしまった。
ゴンの面倒を誰が見るのか両親と相談になった。ここ数日は慶弔休暇で休んでいる父が、空っぽの祖父の家に立ち寄ってゴンにエサをあげていたが、仕事に復帰したら続けることはできない。哲也の両親はマンションに住んでいることもあり、里親を探すか哲也が面倒を見るしか選択肢はなかった。葵と話し合って2日間で決心した。哲也と葵は栃木の祖父の家に移り住むことにした。哲也と葵の通勤時間は2倍以上になり2時間かかってしまうが、幸いにも同じ会社なので一緒に通うことができる。退屈はしないだろう。その分だけ2匹のトイプードルとゴンの留守番時間が長くなってしまうが、合わせて3匹で遊んで待ってもらえればいいと考えていたので心配は少なかった。
行政の手続きが済み、少しずつ引っ越しを進めながら3匹の犬が仲良く遊べるかどうか、哲也と葵はそっと見守る日が続いた。2匹のトイプードルにとっては住む場所だけが変わって、ゴンにとっては住む場所以外は全部変わってしまった。まるで祖母を亡くした祖父のように、ゴンはすっかり元気がなくなってしまった。食べる量が少なくなり、部屋の隅で丸まっている時間が長くなった。哲也がソファに座ってテレビを見ていても、ゴンは膝に乗るどころか近寄ることさえしない。葵も暇を見つけてはゴンとスキンシップの時間をつくっているが、ゴンは寝そべっているだけで少なくとも葵を歓迎しているようには見えない。哲也、葵、トイプードル2匹が同居したことよりも、祖父がいなくなったショックが大きいのだろう。散歩にも気が乗らないらしく、ゴンは渋々哲也に付いていくだけだった。祖父が散歩中に倒れた第一発見者でもあり、何か非常事態が起きたことはゴンも察しているはずだ。
2匹の仲良しトイプードルが何かとゴンの周りをクルクル回ったり、クンクン臭いを嗅いで、興味ありそうに動いてくれるのは助かった。最初の頃、ゴンは首だけ動かして反応していたが、1週間経った頃には、3匹で追いかけ回す姿が見られるようになった。すっかり体が大きくなったゴンは、トイプードル2匹にまったく追いつかないが、その光景もまた可愛い。哲也と葵が揃って会社に出てしまうので、3匹だけの時間が多いが、それが功を奏しているかもしれない。祖父に代わってゴンと同居する難しさは覚悟していたが、犬の懸念は犬同士で吹き飛ばしてくれた。
哲也と葵にとって意外と大変だったのは、散歩の時間が早朝の6時出発になることだ。元気を取り戻したゴンは、決まって6時に「早く行こうよ」と言わんばかりに玄関付近でウロウロするので、その時間が祖父との散歩のタイミングだと察することができた。東京までの遠距離通勤を考えると、6時台の散歩はギリギリではあったが、哲也はできる限りゴンのペースに合わせて生活してあげるようにしていた。ゴンは当然話すことができないが、祖父がいなくなって間違いなく悲しんでいる。ゴンが生後3ヶ月から一緒にいたことを考えると、哲也の悲しみよりも深いだろう。
ゴンにリードを引っ張られるまま散歩に行くと、近所で一番大きい公園にまっすぐ進み、その公園の内側を目一杯大きく回る。ゆっくり公園を1周して屋根付きのベンチに寄るのが定番コースのようだった。4つあるベンチは背中合わせで四角に並んでおり、ゴンは南側のベンチに座った。南側のベンチに座って南側を見ている。哲也も同じようにゴンと並んで座る。ゴンは何をするわけでもなく20分程度座っているだけなので、哲也はゴンの隣で新聞を読んで過ごすのが日課になった。毎朝公園に行くようになり、時々祖父の知り合いと話す機会があった。祖父と同じ小学校だったという女性は、祖父について記憶をたどり教えてくれた。祖父は外国に行きたいと言っていたらしい。小学校でも船や飛行機について勉強することがあり、いつかそれらに乗って外国に行ってみたいと夢を見ていたようだ。「当時の子どもって今みたいにテレビもないし、未知の世界だったんじゃないかな。外国に行ってみたいなんて勇気があるおじいちゃんだったんだね」会社に行く電車の中で、葵は話してくれた。ゴンの早朝散歩で誰かに聞いた話があったら、通勤時間に葵に教えることにしている。哲也が知っている祖父の情報はとっくに葵に話してしまっていた。
ある日の早朝散歩、いつものようにベンチの南側に座っていたら、近所の年配男性が祖父と祖母の馴れ初めを教えてくれた。祖父は戦争から帰ってきて5年くらいは独身のまま国鉄で働いていたらしい。
「仕事は真面目に働いていたみたいだけど、誰とも口を聞かないっていうか、ちょっと近寄り難い雰囲気はあったみたい」通勤電車で哲也は葵に話した。
「なんかイメージと違うね。近寄り難いって雰囲気じゃない人だと思うけど…」と葵も同調する。
「おじいちゃんは誰とも付き合ったり、お見合いすらしたりしないで黙々と仕事してたみたいだね」
「そっかぁ。そんな感じだったのに、おばあちゃんとはどうやって知り合ったの?」と葵が聞いてきた。
「近所の人が猛烈にお見合いを薦めて、どうにかこうにか顔を合わせたのがおばあちゃんだったらしいよ」
祖父は祖母と結婚、一緒に暮らすようになった。徐々に近所付き合いも増えて、たまには冗談を言うようになったらしい。戦争が終わり国鉄で働いて、何かが原因で誰とも仲良くならずに過ごしていたが、祖母との結婚を機に変わっていったようだ。その経緯を教えてくれた年配男性は、祖父とゴンが散歩している様子を何度も見かけて、ベンチに一緒に腰掛けて話もしていたようだ。祖父はよく「女房には助けられた、女房がいなくなってからはゴンに助けられた」と言っていたらしい。哲也が知らない祖父の話を聞くのは不思議な感じがする。人にはそれぞれ歴史があると改めて実感する。
翌週、哲也は父に会う機会があり祖父と祖母の馴れ初めのことを聞いてみた。父は「どうしたんだ、急に…」と驚いていたが、公園で聞いた話をすると「俺がだいぶ前に聞いた話もそんな感じだったかな。どちらかというとオヤジには聞きにくかったから、おふくろに聞いたけど」「おじいちゃんがおばあちゃんと出会わなかったら、どうなってたの?」子どものように哲也は聞いてみた。父は「オヤジは誰とも話さないような、気の抜けたおじいちゃんになっていたかもね。そもそも俺も哲也も生まれてないし」そりゃそうだ。祖父は幸運にも、と言うべきか戦争から生きて帰ってきた。祖母と出会って父が生まれ、母と出会って哲也も生まれている。そして葵と暮らしている。激動の昭和時代が終わり、平成の世の中を生きていることに時間軸の存在を感じる。平成はどのような時代になるのだろうか。
ゴンは一時の心配も消え、すっかり哲也と葵に打ち解けた。食欲が戻り、食べたい物や喉が渇いたことをアピールするようになった。たまにじゃれて遊ぶ時間もでき、哲也はゴンの寂しさも少しは癒えたのではないかと感じている。ゴンは毎朝決まった時間に哲也の顔を舐めて起こして、着替える様子をお利口に座って待っている。6時に出発して公園に行き1周して、ベンチに20分座って休憩する。哲也にとって完全にルーティンワークになり、よほど悪天候でない限りそこから1日が始まった。20分ベンチに座っている時間、哲也は新聞を読んでいる。ゴンは南を向いている。
哲也は「おじいちゃんはここで何をしていたんだ?何か言ってたかい?」とゴンに聞いてみた。ゴンからは何の反応もなかったが、哲也は気になっていた。なぜいつもこのベンチなのだろう。重くなった体でどうにかベンチによじ登って、せっかくベンチに乗ったのに静かに座っているだけだ。別に理由はないのかもしれない。ゴンが見つめる方向は、太陽が登る方角でもないし、公園が広がっているだけだ。散歩する人がパラパラいて、たまにゴンを知っている人とは挨拶したり会話になる。背中を向けている国道からは、行き来する車やバイクのエンジン音が聞こえる。哲也が違うベンチに座ってもゴンは毎回同じベンチに座って南を向いている。
祖父と同じ時期に戦争に行ったという老人から聞いた内容は衝撃だった。「ゴンちゃん、久しぶりじゃ」なんて声をかけてきたので、哲也も自己紹介をしてゴンを飼うことになった経緯を説明した。
「君のおじいちゃんとは、戦争で一緒に東南アジアに行った仲だからね。ゴンちゃんのことよろしく頼むわ」老人は笑顔で続けてくれる。
「うちのおじいちゃんと東南アジアに行ったんですか?」哲也は初対面の人にぶっつけな質問だと我ながら思ったが、聞かずにはいられなかった。
「そうだな。戦争に行ったけど、正確に言うと君のおじいちゃんは現地のジャングルで転んで骨折してしまって、部隊とは別行動になっちまったんだ」また初めて聞く話だ。
「日本はアメリカをやっつけているかのような新聞が毎日のように届いたけど、今思えば勝ち目はねえ。栃木から東南アジアに行った部隊は、1回もアメリカ兵とはドンパチやってねえから、何のために行ったのか今でもわかんねぇよ…」老人は続ける。
「君のおじいちゃんは、骨折が治るまではボロボロのテントで何週間も世話係だったな。そのうち戦争が終わっちまった」この時に祖父は番犬の世話をしていたのだろう。
「うちのおじいちゃんは戦争を体験したわけではないんですね…」と哲也は聞いた。
「そうだな。そうとも言えるけど、死んでいく仲間よりも辛かったかもなぁ。テントには現地で伝染病にかかった奴らがどんどん運ばれてくる。何もできずにどんどん死んでいった。飢餓みたいな状態だったから、栄養失調で動けなくなって意識を失う奴も多かった。そうやって毎日知っている奴らが死んでいくのを、君のおじいちゃんは黙々と世話をしていた。何にしても戦争で勝つために、日本のために飛行機に乗って東南アジアまで来たと思ったら、そこはもう戦場ではなくなっていた。戦って命を落とすならまだマシだったが、ほとんど自滅だよ、ありゃ」哲也は何も言えなかった。そんな過去があったなんて父も知らないだろう。いつもの帰る時間を過ぎているが、ゴンは南の方を向いて静かに座っている。
出勤時間が迫った頃に葵が公園まで呼びに来たが、どうしてもこの人の話を聞きたい、と伝えて哲也は会社を遅刻した。
「栃木に戻ってきたら、それはそれで焼け野原じゃ。空襲で家族は死んじゃって、みんな独りぼっちよ。君のおじいちゃんもな…」
その光景を哲也が想像しようとしてもピンとこない。ただ胸が痛い。老人が最後に教えてくれた。
「命だけは助かって栃木に戻ってきたけどさ、こんなこと言ってたな。飛行機に乗ったはいいけど着いた先は地獄。また飛行機に乗って日本に戻ったらそこもまた地獄。もう飛行機には一生乗らないよ」
外国に行きたい夢を持っていた祖父にとって、戦争とはあまりに残酷な現実だった。哲也は悲しすぎて何も考えられなくなった。きっと話してくれた老人も戦争によってたくさんの傷を負い、数え切れない悲しみを乗り越えてきたのだろう。
遅刻の通勤電車はいつものように走っている。ラッシュアワーはとっくに過ぎているが、やっと座れるくらいの混み具合だ。子どもの頃は飛行機に乗りたかった祖父。奇しくもその機会は戦争だった。どのような気持ちで飛行機に乗り込み東南アジアの地に降り立ったのだろう。骨折してしまい最前線から外された。倒れて死んでいく仲間を見送る毎日はどれだけ過酷だっただろうか。戦うことなく敗戦となり、どのような気持ちで日本に向かって飛び立ったのだろう。焼け野原の生まれ育った栃木を見て何を思ったのだろう。祖父はやがて国鉄で働くようになり、日本各地を回っていたようだ。その国鉄も民営化の波を受けて仕組みもサービスも大きく変化した。今では哲也にとっても通勤手段として、なくてはならないものになっている。
祖母との暮らしは幸せだったのだろうか。聞いた話をまとめると、祖父は祖母とお見合いをしてから世間との関わり方が変わったらしい。祖母のことを「自分にはもったいない」と周囲には話していたようなので、今の哲也と同じように幸せだったと信じたい。哲也の記憶の祖父は穏やかで、何かに怒っている姿は見たことがない。
哲也と葵が栃木に引っ越してから、初めての冬が近づいている。朝の散歩は冷え込むので、もっと寒くなったら散歩はどうしようかと考えていた。その日も公園まで歩いてから公園1周、それからベンチで休憩のいつものパターンだ。哲也としては寒いので20分の休憩をどうにか短縮しようと試みたが、ゴンが応じなかった。冷たいベンチに座ってじっとしている。しばらく見ているとゴンが少しだけ耳をピクンとさせて、何かに反応している。改めてゴンの横顔を見る。ゴンは耳を澄ませて何かを聞いているようだ。哲也も耳を澄ます。何も聞こえない。ゴンが何を聞いているのか探す。見上げると突然、まだ薄暗い空に白い飛行機雲が伸びた。いつも新聞を読んでいる哲也は気づかなかった。この時間に遥か頭上を、南から北に向かって飛行機が飛んでいる。おそらく毎日。ジェット音は周りの騒音にかき消されているが、ゴンには聞き分けられるはずだ。ゴンは目で追って飛行機が頭上を通り過ぎるのを見送っている。ゴンに向かって「おじいちゃんとはあの飛行機を見てたのか?ゴン…何を話していたんだ?」と聞いてみたが、ゴンはベンチを降りて帰る雰囲気になっている。
翌日もその次の日も同じだった。哲也は確信したが謎は深まった。今までわからなかったが、祖父とゴンは散歩をしながら同じベンチに座り、同じ飛行機を見送っていた。飛行機雲が見えなくても、飛ぶことがわかっていれば白く輝く飛行機本体を見つけることはできる。ベンチで20分待って、飛行機が通り過ぎてから家に戻る。祖父は毎朝そうしていたに違いない。何か意味があるのだろうか。祖父は終戦からずっと飛行機を避けて生きてきたはずだ。哲也は混乱していた。葵に相談してみたら「また飛行機に乗りたかったんじゃない?」と意外な推理が返ってきた。
「たぶん、だけど…」葵は続ける。
「おばあちゃんと出会って何十年も過ごすうちに、飛行機には2度と乗りたくない、という気持ちは薄らいだんじゃないかな。それよりも今の幸せを大切にして、いつかはおばあちゃんを海外に連れて行きたい、一緒に行きたい、そんな気持ちだったんじゃないかなぁ」葵の推理を聞いた直後は、そんなバカな…だったら行けばいいじゃん…と哲也は思った。葵の推理は続く。
「きっとおばあちゃんが遠慮してたんだと思うよ。戦争から帰ったおじいちゃんがどんな目に遭って、どんな思いを抱えていたか知ってたと思う。何年経っても、飛行機でどこかに行こうよ、なんて言えなかったんじゃないかな…」
哲也も次第に、葵の推理に共感するようになってきた。確かに祖父と祖母の関係を考えると自然な流れだ。
土曜日の朝、哲也と葵とゴンで散歩に出発した。ゴンはいつものように公園に向かう。葵にも一度祖父が見ていた飛行機を見せておきたかった。2人をゴンが導いている。公園を1周してゴンがベンチに座る。葵がこの時間の散歩に付き合うのは久々だ。
「いつもゴンと何を話してるの?」と聞いてきた。
「何か話しているかなぁ。正直、その日の仕事のことを考えているかも」という返事に葵は笑っていた。「たまにはおじいちゃんのことを思い出してあげなよ」
この場所で、ゴンは今でも祖父を感じているはずだ。ベンチに並び、毎日のように祖父はゴンに向かって夢を語っていたのだろう。どんな夢だったのか、残念ながら直接祖父の口から聞くことはできなかったが、哲也も葵も想像することはできる。6時20分羽田発千歳行き、いつもの飛行機が今日も遠くの空から近づいてくる。哲也、葵、ゴンで見つめる。哲也は祖父の顔を思い浮かべながら声に出す。
「ばあさんよ、一緒になって本当に幸せだった…ばあさんがいなかったら、今頃どうなっていたかわからん。戦争から戻って働いて、家族のために稼ぐって大変だったなぁ、あっという間だった。子どもが生まれて孫が生まれて、気づいたらとっくに定年になっちまった。ばあさんよ、そっちはどうだい…こっちはゴンとのんびり過ごしているよ。心残りっていうかあの頃に戻れるなら、ばあさんと飛行機に乗ってみたかったなぁ。戦争で飛行機に乗った時は散々だったけど、あの時代があって、この幸せがあるんだって思うことにしたんじゃ。もう歳だし、外国はしんどいけど北海道くらいならちょこっと行って帰って来れるんじゃないか。ばあさんと一緒なら、今度はどこに飛んで行っても大丈夫だ。今となっちゃ…遅いけどな。何もしてやれなくて、すまなかったなぁ、ばあさんよ」
葵は涙を流しながら「行こうよ」と言っている。
ゴンは哲也を見つめている。「やっとわかったのかい」そう言われた気がした。
完