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【昭和100年記念】波乱の昭和史と福島県の出来事を振り返る

2025年は仮に昭和時代が続いていたとすると、ちょうど昭和100年となる年です。

あまりに激動だったこの100年を巻き戻して、昭和の幕開けから令和の現在までを、福島県の10大トピックで振り返ってみます。

 

 

それぞれの時代において福島県のニュースは、自然、観光、エネルギー、復興と次々に変化してきました。

ぜひ最後までお付き合いください。

 

①日光国立公園が指定される(昭和9年)

環境省が自ら管理する国立公園が誕生したのは、昭和9年のことでした。その最初の年に、福島県が一部含まれる日光国立公園が指定されました。

マイカーが普及して、観光という楽しみ方が徐々に一般化した時代です。国が主導して自然保護や利用促進をするうえで、国立公園というわかりやすい看板が登場します。

福島県においては、日光国立公園だけでなく、昭和25年に磐梯朝日国立公園、平成19年には尾瀬国立公園が指定されたことで、国立公園を3つも有することになったのは福島らしいインパクトがありました。

こうして、福島の西側には国立公園が並び、観光道路が整備され、東側には太平洋が広がり、様々な産業が集積する現在の姿に近づいていきました。

 

②日中線が開通(昭和13年)

明治24年にはすでに、郡山市や福島市を縦断する東北本線が開通していました。

あまり知られていませんが、東北本線と同様に、すでに鉄道が走っていた栃木県日光市から北上して、会津、喜多方、山形県米沢市まで結ぶ、野岩羽線という構想がありました。

これによって、東京から山形まで直線的に繋がる予定ではありましたが、あまりに険しい地形であったことや、資金難によってなかなか工事が進みませんでした。

この野岩羽線構想の一部が、喜多方駅から熱塩駅を結ぶ日中線でした。

せっかく開通したのですが、中途半端な路線区間だったため、当初から経営的にかなり厳しく、昭和59年には幕を閉じてしまいます。本州最後の蒸気機関車が走っていた路線でした。

現在は日光から会津までどうにか線路が接続していますが、もし野岩羽線が本格的に実現していたら、会津や喜多方、そして福島の物流や観光はまた違った発展の仕方だったかもしれません。

 

③松川事件(昭和24年)

戦後まもない昭和24年に起きた松川事件は、東北本線を舞台に起きた未解決事件です。

この事件が起きた頃、日本はまだGHQの支配下にありました。アメリカの影響を大きく受けながら、共産主義を排除しようという政治的、社会的、そしてマスコミの力学が働いている時代でした。

松川事件の発端となる脱線事故は、福島県の松川駅と金谷川駅の間で発生しました。深夜に蒸気機関車が脱線、転覆して、3名が犠牲、数名が負傷した事故でした。ところが現場検証の結果で、線路は人為的に壊されて、1トン弱もある線路1本が外されていたことが判明しました。

別件逮捕で捕まった19歳男性が自供したことで、芋づる式に計20名が逮捕されました。結果的には、捜査機関の証拠捏造や隠蔽が発覚して、全員無罪となったのですが、この経緯にはいくつもの謎があり、戦後最大の冤罪事件、ミステリーのひとつとなっています。

20名のほとんどが共産党員であったこと。

事故直後に政府が共産党による仕業であるような発言をしたこと。

事故の1本前の列車が運休しており、その合間で線路が外されていたこと。

全員無罪が確定した翌年に時効を迎えたこと。

未解決で終わったエンディングは必然だったのではないか...そう思える謎が多いのですが、真実が明らかになる日は訪れるのでしょうか。

 

④味よし食堂が開業(昭和29年)

福島発祥の外食チェーンとして全国に展開している幸楽苑。その発祥ともいえる「味よし食堂」が会津若松で誕生したのは、終戦からわずか9年後の昭和29年でした。

昭和40年代のうちに出店攻勢をかけて、昭和53年には、チェーンレストランの仕組みを提唱していたペガサスクラブに加盟したことが大きな転機となりました。

専用調理機器の導入、自社工場を増やすことで品質の安定化と低価格を実現して、どんどん店舗を増やしていきました。20世紀のうちに100店舗を越えて、東京にも進出を果たします。

その後は競合チェーンの台頭、長引くデフレ、災害などに直面して大苦戦の時代もありましたが、現在は中華以外の様々な飲食店を展開して、事業の多角化戦略にも取り組んでいます。

 

⑤磐梯吾妻スカイラインが開通(昭和34年)

県道70号、通称「磐梯吾妻スカイライン」が有料道路として開通したのは、昭和34年でした。磐梯朝日国立公園を駆け抜けるルートは、冬季通行止めとなるほど標高が高く、空中回廊を走る抜けるような感覚です。

安達太良山と磐梯山に挟まれた約29kmのドライブコース、表情豊かな季節感、その一方で異国の荒涼地帯のような風景、どこを切り取っても福島ならではの観光道路です。

震災を機に無料開放されましたので、猪苗代湖周辺を観光する場面でも気軽に使いやすくなりました。

 

⑥鶴ヶ城が復元(昭和40年)

歴史や規模感、そして地元の精神的な支えとして、誰もが認める会津のシンボル、鶴ヶ城の復元が完了したのは昭和40年でした。

武士社会から近代社会へと大きく移り変わる時代に、鶴ヶ城が旧幕府軍の拠点となったのは、戊辰戦争においてひとつのクライマックスでした。

過酷な籠城戦を経て、やがて陥落。

ボロボロになった鶴ヶ城は、明治7年には一度解体されてしまいます。明治政府としては、一貫して幕府寄りであった会津の勢力を弱めたい思惑があったのでしょう。

昭和時代になり、会津にとって心の支えであった鶴ヶ城の再建運動が起きたことは、当然のような流れでした。

復元された雄大な姿は、観光地会津で大きな存在感を放っています。

 

⑦福島第一原発が稼働開始(昭和46年)

6号機まである福島第一原発、その1号機の原子炉が稼働したのは昭和46年でした。

すでに日本は奇跡的な経済発展を遂げており、高度成長期のピークを迎えていました。エネルギー需要が急速に高まり、このタイミングで世界最大規模の原発が計画されたのは時代を象徴する出来事でした。

もともと太平洋に面する浜通りとエネルギーとの関連は強く、いわき市や浜通りの中心部は日本屈指の石炭を中心に栄えてきたエリアでした。

しかし、徐々に石油の台頭、輸入石炭の増加によって、福島県内における石炭産業は先行きに限界を感じるようになりました。

こうして、福島県が次の発電事業に向けて原子力発電に注目していたタイミングで、原発を建設するための候補地を探していた東京電力の思惑と一致します。

その後、福島第一原発に続いて第二原発(下写真)が稼働するようになります。

原発が地域経済の主役となり、首都圏一帯の電気供給を支える一大産業に発展しました。

 

⑧東北自動車道が福島全通(昭和50年)

昭和100年を振り返るにあたって、ちょうど中間にあたる昭和50年に、福島県内の東北自動車道が全線開通しました。

今となってはまったく信じられませんが、関東と東北には物理的な距離の壁があって、心理的にもかなり離れているイメージでした。

この東北自動車道の全通、そして昭和57年の東北新幹線の開通によって、福島と東京は日帰りも可能などほど近づきました。

郡山が福島最大、そして東北では仙台に次ぐ規模の街となった要因は、首都圏と直通したことも大きいと考えられます。

 

⑨磐越自動車道の郡山~いわき間が開通(平成7年)

続いてこちらも高速道路の話題ですが、こちらは福島の2つの30万人都市、郡山といわきを結ぶ磐越自動車道の開通です。

郡山はもともと小さな宿場町のひとつでしたが、明治初期の安積疎水事業によって、豊富な工業用水、農業用水が手に入るようになり、様々な産業が発展しました。国家事業によって産業が集まり、人口が増えた近代史は北海道の開拓に近いものがあります。

一方でいわきは、江戸時代末期から石炭産業で栄えており、本州最大の常磐炭田が原動力となって発展してきました。徐々に石炭産業は衰退していきましたが、火力発電、重化学工業、漁業、観光業と様々な産業に転換できた好事例と言えます。

歴史的にはほとんど接点がなく、山岳地帯で分けられていた両市が、90分圏内で接続できた効果は非常に大きいです。地元の方々のアクセスが向上したのはもちろん、県外からの観光旅行であっても周遊しやすい環境が整いました。

横にとんでもなく広いイメージの福島が、スリムになったターニングポイントでした。

 

⑩東日本大震災・福島第一原発事故(平成23年)

最後に紹介するのは、2011年の東日本大震災及び福島第一原発事故です。

現在まで、そしてこの先数十年も影響が続く観点で考えれば、最大のニュースと言えるでしょう。地震津波だけでも未曽有の大災害でしたが、福島にとっては原発事故の後遺症があまりに大きなものとなりました。

天災だったのか、人災だったのか、原発を推進するのかゼロに向かうのか、私たちに大きな課題を残しています。世界各国でエネルギー資源の争奪戦が行われ、エネルギー価格の上昇が続く現代において、本当の安全とは何なのか...科学技術は何を目指すのか...次の100年に向けて、福島らしいアクションを考えていきたいと思います。

あれから14年が経過して、復興の過程ではたくさんのエピソードが生まれました。

国内外たくさんの支援活動がありましたが、同じくチェルノブイリ原発事故によって大きなダメージを負ったウクライナによる支援もありました。

沿岸から少し離れた白河小峰城では、計10ヶ以上の石垣の崩落などがあり、この修復技術は熊本地震による熊本城復元にも活かされています。

福島復興の目的で制作された、2013年の大河ドラマ「八重の桜」は、高視聴率を維持して、鶴ヶ城の来場者数は震災前を上回る勢いでした。

最後に紹介したトピックは、決して明るい話題ではありませんが、風化させることなくひとりひとりが未来への教訓として、改めて考えていただきたいと思い紹介しました。

 

まとめ

昭和恐慌から幕を開けた昭和時代、その後の太平洋戦争、そしてアジアの星となった高度成長期、欧米を追い越そうと猛烈に働いた末のバブル崩壊とその後のデフレ不況、この激動の100年を振り返ってみました。

福島県は、他の自治体が羨むほどの豊富な大自然、そして東京からちょうどいいくらい離れているロケーション、会津魂が刻んできた歴史、たくさんの魅力が溢れており、昭和100年の切り口で感じていただくことができたのではないでしょうか。

たくさんのものを得て失った昭和時代、しかし「将来はもっと良くなるはず」という漠然とした希望に満ちていたことも事実です。またそんな時代が訪れることを願っています。