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キャリア・短編小説・NIKKO・Fukushima

【6年遅い】

2021年(令和3年)第42回宇都宮市民芸術祭、文芸部門で奨励賞を受賞した作品【6年遅い】です。これまで書いてきた短編小説とは異なり、今社会で起きている問題(新型コロナウィルスの拡大、その状況で動く人々の感情)をストレートに取り上げようと素直に表現してみました。一読いただけると幸いです。

 

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弘樹はふと窓の外に目を向けた。ここはビルの3階、少し離れている窓から地上の様子は見えないが、それでもマスク姿のサラリーマン、OLがランチのために出歩いているのが目に浮かぶ。デスクのパソコンに目を戻す。画面に映るどうでもいいネットニュースを見ながらコンビニ弁当を食べるのが、弘樹の12時台のルーチンワークだ。ネットニュースは相変わらず感染爆発中の状況を伝えているが、おそらく日本中が代わり映えしない内容に飽きてきている。そして弘樹は心の中で今日も「6年遅いんだよ」とつぶやいた。

弘樹は20歳、高校を卒業して社会人になり2回目の夏を迎えようとしている。社員数100名程度のメーカーに総合職として入社したが、配属先は経理部門だった。初対面の人と話すことは完全に向いてないと自己分析しているので、営業などに配属にならず本当に良かった。人事担当者の見る目は間違っていない。経理として働き始めてからというもの、弘樹は細かい数字の違いによく気づくし、パソコンに早く正確に入力することに関しては、高校で資格取得のために相当鍛えられた。コツコツ働くってこういうことを言うのだろう。

パッとしない冷めているコンビニ弁当を食べている。実家暮らしではあるが自分で弁当を作る選択肢はなく、高校で学食だった流れで昨年の入社直後から社員食堂を利用していた。その社員食堂も今では閉鎖となっている。

入社した昨年の夏、未知のウイルスが発見された。アフリカ発祥で猿が感染源であることまではわかっていたが、ヒトからヒトへの感染が確認されてからは、現代社会における交通手段の進化が裏目に出た。エボラ出血熱とはまったく違う、インフルエンザの変異型のようだが、抗体を持たない人間の世界で猛威をふるっている。重症化率10%は社会を麻痺させるのに充分な威力だ。領土問題や地域紛争、大統領選挙、王位継承問題など世界では、弘樹とは縁の無さそうなトラブルで満ち溢れていたが、このウイルスが広がってからというもの、世界中がパニックに陥り、海外渡航禁止、貿易制限、どの国も自国民を守ることで精一杯になってしまった。スマートフォンと同じくらい生活必需品としてマスクが世界中に広がって、深刻な品不足も1年以上続いている。

確かに不自由な世界になってしまったが、弘樹はマスクを外しコンビニ弁当を食べながら、個食のようなランチに居心地の良さも感じている。20人ほどのいくつかの部署が集まった事務所、食事は自分のデスクで取るように指示され、私語は慎むように上司からも言われている。実際のところは、隣同士お喋りをしている社員もいる。それはそれで楽しく働くモチベーションになっているかもしれないが、やはり世間から見たら不適切だろう。小中学校ですら昼休みに机も合わせず、静かに給食を食べているらしい。学校生活で多くの生徒が深刻なストレスを抱えているというニュースもよく聞いている。その一方、弘樹は静かにコンビニ弁当を食べながらストレスはゼロに近い。仕事もたまに褒められる程度にこなして、余計なコミュニケーションをする必要がない。このくらいでちょうどいい。この春も新入社員が入社して、弘樹は先輩となったわけだが歓迎会はなし、花見や飲み会のようなイベントもなし、新入社員の素顔は、パソコン越しにリモートミーティングを行うときしか見ていない気がする。このくらいでちょうどいいのだ。

今日のコンビニ弁当も静かに完食して、他の社員と重ならないように給湯室に行き、帰るまで誰にも見せないだろう歯を磨いてマスクを付けた。

 

次の日、弘樹がリビングで朝食を食べていると、テレビニュースが聞いたこともない高校の様子を映している。今年は修学旅行が中止らしい。合唱コンクールや運動会を実行するのかしないのか、実行するならどうすれば感染を防ぎながら安全にできるのか、生徒と先生が相談している。「別にやらなきゃいいじゃん」と口に出してもいいのだが、目の前で食べている父と余計な会話することになったら面倒なので自制した。それにしても6年遅い。

バス通勤の途中、今日も同じコンビニに寄っている。出勤途中でコンビニ弁当を買うことが習慣になったので、会社から2つ前のバス停で降りてコンビニに寄るようになった。朝の8時台、店員4人は忙しそうに働いている。マスクをして、できる限りのウイルス対策をしている店内で、弘樹は弁当片手にレジの順番を待っている。レジは全部で3台、たまに特徴的な女性店員に当たることがあるが、今日がその日だ。弘樹とあまり変わらないだろう年齢、マスクをしているから表情までは見えないが笑顔で接客していることは伝わる。とにかくレジをしながら、1人1人の客に「いつもありがとうございます」「今日も頑張ってください」「今日は雨になるらしいですよ」と声をかけている。初めてこの女性店員に接客されたときには、何かに対して違和感があるが何が違和感の原因なのか理解できなかった。ある時たまたま、その女性店員はどの客にも必ず一言添えていることに気づいた。もちろん弘樹にも「いつもありがとうございます」「またお待ちしています」と元気いっぱいで声をかけてくる。

最初は照れくさくて、違う店員がレジを担当してくれた方が気が楽だった。弘樹の周りにそんな風に笑顔で元気に挨拶してくる人はいないので、どう反応していいのかわからず緊張してしまう。会社に行ってもまるでテンプレートのように「おはよう」「おはようございます」「今日も暑いですね」こんなのばっかりだ。清掃をしてくれているパートの方がよほど「足元が滑るから気をつけてね」など気の利いたことを言ってくれる。

毎朝そのコンビニで弁当を買う。無愛想な店員の方が気が楽で何も考えなくていいのだが、レジ担当は選べないし、毎日並んでいると自然と何回に1回かはその笑顔の女性店員に当たる。その顔を真正面から見ることができなくて、あちこちに視線を向けているうちに胸のネームプレートに「さとう」と書いてあることに気づいた。相変わらずマスクなので素顔はわからないし、マスクの奥が本当に笑顔なのかどうかわからないが、こんな状況でなければもっと元気のある声が店内に響いていたのだろうと予想できる。

「さとう」というネームプレートを見て以来、朝のコンビニでは弁当を買いながら「今日はさとうさんか」「今日は別の人だったな」と自然と意識するようになってきた。別に好意があったわけではないが、それくらい接客が特徴的だったので、他の3人は誰が誰でも変わらなかった。

今日もいつものコンビニで弁当を買って出社した。さとうさん以外のレジ担当はそもそも弘樹の顔を見て接客しないので、弘樹の気持ちは軽い。だいぶ前から自覚しているが、弘樹は真正面から他人と顔を合わせるのが極端に苦手だ。この苦手を振り返ると弘樹が中学2年生の頃までさかのぼる。

 

弘樹が中学2年生、夏休み前の時期だったと記憶している。成績や進路について担任の先生と個別面談をしているときだった。模試の成績、志望校の合格可能性、学校生活の様子について10分程度話していたが、先生の視線に違和感を抱きながら弘樹は話を聞いていた。机を2個繋げて先生と弘樹は向かい合って座っている。弘樹はクラスでも目立つような存在ではなく、幽霊部員も含めて部員がたくさんいるから、という理由でパソコン部に所属していた。たくさん部員がいた方が何か役割を与えられる機会もないだろうし、埋もれることができそうだった。燃えるようなものがない一方で悩みもなく、部活が終わって家に帰ったらとりあえず宿題をやって、それが終わったら勉強が忙しいふりして自分の部屋でゲームをして過ごす、おそらく先生や親から見たら、全然手のかからない生徒、息子だったと思う。

弘樹は個別面談に真剣に臨んでいたわけではなかったが、面談の後半は、先生はどこを見ながら話しているのだろう、とそればかり気になっていた。成績一覧を机に広げて、社会は日本の地理を頑張りましょう、英語のリスニングを練習しましょう、先生はいろいろ話しているが、あるタイミングで弘樹はふと気づいた。先生は弘樹の顔に視線を移すたびに鼻の脇にできた大きなニキビを見ている。その20代の若い男性の先生は、口は進路指導、目はニキビと資料を行ったり来たりしていて忙しそうだった。

面談が終わり部活に行く前に、トイレに寄った。鏡を見てまた先生とのやりとりを思い出した。面談の中身ではなくて、先生の目線の動きを思い出していた。先生は面談に集中していたのだろうか。夏前だけどほとんど日に焼けておらず、白い顔に赤いクレーターがひとつ、それが小爆発して中心部分がじゅくじゅくしている。今までは痛いので気になっていたニキビだったが、改めてトイレの鏡で見てみると、弘樹の外見では一番インパクトがある存在かもしれない。目、眉毛、口、鼻、どのパーツよりも新たに加わったニキビが目立っている気さえした。少し触ってみた。今は乾燥していて触っても手に何も付かないが、ベタベタするときは弘樹も気持ち悪いと思っていた。少し顔を傾けてみる。横顔でもニキビの存在感が大きい。もう少し耳に近ければ髪の毛で隠せたかもしれない。日に焼けていればもう少し目立たないかもしれない。ニキビは弘樹の鼻の右側にあるので、左側から見るのであれば多少は鼻に隠れてニキビの存在感が小さくなる気がした。

パソコン部の教室に入り、遅れて参加する弘樹は座る席を探した。壁一面にパソコンが並んでおり、どこに座ろうか探したが右端の席を選んだ。パソコンの電源を入れて昨日の続きに取り掛かった。パソコン部の2年生は夏休みに向けて、プログラミングで動く星空を作っている。完成したらそのまま夏休みの課題として提出できることになっており、それだけでも弘樹はパソコン部に入って良かったと思っている。

途中で気になって、星空を作るのを中断してインターネットに接続した。「ニキビ」と検索してみた。画面に難しい説明がたくさん並んでいる。許可なく薬の説明をインターネットに掲載することは禁止されている。それは弘樹も知っているが、ニキビができる主な原因や簡単な治し方くらいなら問題なく調べられる。暴飲暴食を防ぎましょう。お酒はほどほどに。睡眠時間を充分に確保しましょう。きちんとお風呂に入って顔をよく洗いましょう。中学生の弘樹には何のヒントもない。「ニキビ 中学生」と検索しても「ニキビ占い」とか「顔を清潔に」のような役に立たない情報ばかりだった。このモヤモヤを解決できる検索結果はあるのだろうか。

部活が終わり、友達のワタルと自転車で帰る。赤信号で停止するときには自然と右側に立つ。ワタルの横顔を見る。小さいニキビがいくつかあるが、特別に目立つものがない。少し日に焼けている。ワタル以外の周りの中学生はどうなのか思い出してみる。顔に何があるかなんて気にしたことがなかった。男子でも女子でも改めて思い返せば、だいたいみんなニキビがある。これまで気にならなかったのはニキビが小さかったり、すでに治りかけだったりして目立たない、それだけだった。

コンプレックスっていう言葉を聞いたことがある。弘樹が今モヤモヤしているのは、コンプレックスを感じているということだろうか。ワタルに聞いてみようかどうしようか考えているうちに別れて、自分の家に着いてしまった。風呂に入って石鹸で顔をよく洗ってみた。風呂から出たらすぐに拭いて乾かした。気にしていたらどんどん気になってきた。母は弘樹の顔を見るときにどこを見ているのだろうか、改めて確認したがいつもと変わらない。ニキビを見ている素振りなんてない。

次の日いつもと変わらず学校に行き、ワタルと部活の話をしていた。ワタルも弘樹の顔を自然に見ている。弘樹の目を見ながら話したり、関係ない方向を見たりしている。ニキビのことはいったん忘れていたが、担任の顔を見たら昨日の出来事を思い出した。出来事というほどのことではないかもしれないが、明らかに先生は弘樹のニキビに向かって話していた。普段から弘樹と間近で話すことがない人からすれば、珍しいほど目立つニキビなのかもしれない。ワタルに相談しようと思ったが「先生がニキビを見てきたんだ」という出来事をどう相談していいのかわからなかった。

 

それから何日、何週間経ってもニキビは治らなかった。母に相談しようか、父だったら学生時代に同じモヤモヤを感じていたのだろうか、病院に行ってどうにかなるのか、弘樹がこれまで生きてきた時間で、これほど他人の目を気にしたことはなかった。特に初対面の人と会うときには、意識して顔の左側を向けるようになった。体育で別のクラスの生徒とコンビを組むとき、部活で下級生と話すとき、休みの日に買い物に行ったとき、うっかり忘れない限り顔の左側を見せていたが、高校に進学した頃には何も考えなくても自動的に顔を傾けて、相手と目を合わせて話すことができなくなっていた。

そのまま高校生活をニキビと共に過ごした。クレーターのようなニキビは大きな跡になって残り化石のようになっている。鏡を見るたびにニキビと向き合っている気分になるので、できるだけ鏡を見ることはない。スマートフォンで自撮りをしてアプリで遊んでいる同級生が羨ましかった。高校時代の弘樹は、特に新しいことを始めるでもなく、アルバイトもしなかった。できれば人と関わらず、親友と呼べるような友達もできなかった。世間ではこの時期を青春というらしいが、弘樹にとっては商業高校でカリカリ簿記の勉強をしたりパソコンを打っているときが一番心が穏やかで充実していた。おかげで成績は上位、就職先を選ぶときにも学校推薦ですんなり決まった。大学に行くような選択肢は考えなかった。弘樹のイメージでは大人になると、人のことなんか気にならないくらい忙しくて、弘樹も弘樹と会う人もニキビがどうとか考える暇なんてないだろうと考えた。

そうでなくとも、もしウイルスの感染爆発があと6年早かったら、ニキビができてもマスクで隠して毎日を過ごすことができた。コンプレックスのような感覚を持つこともなかっただろうし、人の目を気にしないで真正面から向き合うことができたはずだ。まったく違う中学生活、高校生活を送っていたに違いない。まったく違う進路になっていたかもしれない。まさかマスクが標準装備の世界になるなんて思ってもいなかったが、弘樹が今生きている世界は、服を着るようにマスクを付ける世界になっている。

 

月曜日、真夏にバス停から会社に向かう途中でコンビニに寄る。弁当を買うためではあるが、店内に入ると少しでも涼むことができるので助かる。ウイルスに感染するのが先か、マスクと日差しのせいで熱中症になるのが先か、世界全体が究極の二択を迫られている感じがする。今日はさとうさんがレジを担当している。「いつもありがとうございます」と元気に挨拶してくるキラキラした言葉を、財布を見ながらかわして、キャッシュレスで支払いを済ませて弁当を手に取る。ドアに向かい外に出ようとした瞬間、真横から「今日も頑張ってください」と不意に声をかけられた。振り向いてさとうさんと目が合った。弘樹の方を向いている。「はい」と答えたつもりだがマスク越しなので、その声は届いていないかもしれない。それよりもさとうさんと近距離で目が合ったことで心臓がバクバクしている。自動ドアを抜け、外に出るまでの5秒間で今のやりとりを頭の中で繰り返したが、会社に向かって歩き始めたら、あまりの暑さにさとうさんのことは忘れてしまった。

次の日、火曜日の朝は別な男性がレジ担当だった。別にネームプレートも見ていないし、相変わらず財布を見ながら会計が終わるのを待っていた。さとうさんが隣のレジを担当していて、中年女性が買い物をしている。買い物かごを置いた瞬間からさとうさんに話しかけていたので常連なのだろう。「学費を稼がなきゃならないんです」ふと、さとうさんの声が聞こえた。

弘樹はコンビニを出て会社に向かいながら、同年代であろうさとうさんのことを考えていた。さとうさんは学費を稼いでいるらしい。大学生なのか、専門学生なのか、どちらにしても自分の学費をコンビニでアルバイトして稼いでいるとは予想外だった。弘樹は社会人として来る日も来る日も経理の事務処理をしている。決まったパソコン入力を決まった期限で完了させれば、弘樹は充分仕事したことになっているはずだ。会社の関係者にも失礼のない対応をして、業務中の電話対応でも相手を待たせることは皆無になった。弘樹は仕事の正確性が高いと評価されることが多々あり、若干だが自信を持つようになってきたところだ。

さとうさんは同年代、おそらく学生。コンビニの仕事って何だろうと弘樹は考えた。無愛想にレジを打ってもいいし、それなりに品出しをすればコンビニ店員としては役目を果たしている。そもそも客だって特別に愛想のいい接客を望んでいるわけはなく、便利な場所にコンビニがあって品揃えが良くあまり混んでいない、それが叶っていれば文句はないだろう。

意識せずとも弘樹は、アルバイトの仕事とは社員の仕事よりも簡単で無責任と考えていた。だから、一言添えながら笑顔で接客するさとうさんに対して違和感を抱いていたのだ。さとうさんはコンビニ店員としてやらなくてもいいことまでやっている。「いつもありがとうございます」とか「夕立になりそうです」まで客に話す必要がない。学費を稼ぐのが目的ならなおさらだ。給料をもらえればいいのだから、レジは淡々とこなして自分の勉強や遊びに全力を出した方がいいに決まっている。不思議な子だ。なんでそんなに頑張れるんだ。この日も暑かったが、考えているうちに会社に着いてしまった。

 

水曜日になり、少し曇って気温は下がったがジメジメした朝だった。いつものコンビニに寄ろうとしたら臨時休業の張り紙があり、弁当を買うことができなかった。しょうがないので立ち止まることなく会社を追い越してさらに歩き、最初のコンビニに立ち寄った。コンビニ弁当なんてどこで買っても同じなんだよな、と何にもならない感想を思いながら、いつものように弁当を買うためにレジに並んだ。会社に向かいながら臨時休業の張り紙を思い出したが、いったいどうしたのだろうか。

木曜日も変わらず臨時休業の張り紙が出ていた。「今日もか」とマスクの下で独り言を言いながら、立ち止まり小さい説明文を読んで弘樹は固まった。店員のひとりがウイルス感染者と濃厚接触していたことが発覚したらしい。店内消毒を行い、該当する店員はもちろんその他の店員も感染していないか検査し、安全が確認されたら再開する旨が書いてあった。店員に感染者がいたら弘樹自身も感染している可能性があるだろうか。コンビニでは誰とも口を聞いていない。自分が買う弁当以外は何にも触らないし、雑誌の立ち読みなどもしないので問題ないだろう。「大変だな」また独り言を言いながら会社の奥にあるコンビニに向かって歩き始めた。そういえばさとうさんは大丈夫なのかな?さとうさんが濃厚接触者だったらどうだろう。まさかさとうさんが感染していたら、あんなに誰にでも元気に話しかけているから、コンビニ以外でもあちこちで感染を広げてしまうかもしれない。

月曜日に近距離でさとうさんに話しかけられたことを思い出した。今思えば心臓がバクバクするくらい近かった。目が自然と会うくらい真正面から返事をした。あのくらいの接客で感染する可能性があるのだろうか。さとうさんが重症化して寝込んでいる姿は想像できない。

金曜日は最初から会社を通り過ぎたバス停で降りて、コンビニに寄ってから出社した。バス代を余計に使うことになってしまうが、朝から炎天下で無駄に会社を追い越して歩き、また戻るのはさすがにしんどい。バスの窓からいつものコンビニを見たがシャッターが降りていたので正しい判断だった。

 

週末の休みを利用して、弘樹は母のスマートフォンの買い替えに付き合ってあげた。今使っている機種がほとんどバッテリーがもたなくなってしまい、1日に2回充電しながら使っているらしい。弘樹が中学生の頃にお揃いで買ったから、もう4年くらい使っているだろう。弘樹は社会人になるタイミングで最新機種に変えていた。スマートフォンの買い替えくらい、母だけでもできそうだし父が一緒に行けば問題なさそうだが、悪質な店舗では高齢者に対して必要のないオプションを付けて売ったりするらしい。ちょっとした社会問題になっていたので、一応パソコン関係に詳しい弘樹が付き合うことになった。

店舗に行って、次の機種を選んでいたが母から意外な一言があった。「弘樹と一緒に選んだから、これを手放すのは残念だね」たいして使いこなしていないスマートフォンに対して、そんなに愛着を持っていたなんてびっくりした。この日は新しい機種を決めきれず、カタログだけ何冊かもらって、またしばらく経ったら来ようという話になった。

 

週が明けて月曜日、会社の手前にあるまたいつものバス停を降りてコンビニに立ち寄った。シャッターは開いており先週の臨時休業の跡形もなく、コンビニは営業している。もちろん弁当を買うためだが、店に入ってちょっと立ち止まってから、初めて遠回りして弁当売り場まで向かった。さとうさんはいない。その他の店員は出勤して淡々と働いている。さとうさんは休みかな、そう思いながら弁当を選んで買った。

次の火曜日もさとうさんはいなかった。さとうさんは学生だろうから試験勉強のタイミングなのだろうか。部活やサークルで遠出をしているかもしれない。感染拡大を防ぐために、積極的な遠出は控えるように言われている。1年前からそのように言われているが、今となっては誰が言い出したのかもわからないし、人々の遠出と感染拡大の因果関係は全世界の叡智を結集しても結論が出ていない。さとうさんは暗黙のルールをきちんと守るようなイメージではあるが、学生にとって今は貴重な夏休みだ。さとうさんだってアルバイト以外でも忙しいのだろう。

水曜、木曜とさとうさんがいないコンビニに寄って弁当を買っていた。そのまま金曜日になり、さすがにさとうさんはどうしたのだろうと考えるようになった。帰りのバスで外の景色を見ることなんてほとんどなかったが、今日に関しては、いつものコンビニを見て「ひょっとして勤務時間を変えたのかな」とさとうさんを探している自分がいた。

弘樹はほとんど確信していた。さとうさんはウイルスに感染して入院または自宅待機になっているのではないか。濃厚接触者はさとうさんで検査の結果、ウイルス感染していた、そう考えるのが自然だ。コンビニの朝の店員はさとうさん以外出勤している。さとうさん以外は感染していないことがわかったのだろう、だから出勤している。感染しているさとうさんは、完治して安全が確認されるまで出勤できないはずだ。報道によると最低2週間の隔離が必要だった気がする。

 

次の1週間は答え合わせのような1週間だった。コンビニに入ってもまっすぐ弁当売り場に向かった。どれだって構わない弁当を選んでレジに並ぶ。誰だって構わない店員にレジを打ってもらい、キャッシュレスで支払う。流れ作業のような朝の買い物がより一層流れている。まったく気分が上がりも下がりもしないまま出勤して、自分のデスクでいつもと同じように早く正確にパソコン入力をしている。

さらに1週間が経った。さとうさんは相変わらずいない。夏休み期間にどこか実家にでも帰っているのだろうか。朝のコンビニで過ごすたった数分の情報でさとうさんの所在を確認することは不可能に思えた。いつだったかさとうさんと「学費を稼がなきゃ」という会話をしていた中年女性を見つけたときには、宝くじにでも当たったような気分になったが、他のコンビニ店員と本当にどうでもいい会話をしていた。重症化率10%の感染症は幸いなことに直接死に至るケースはほとんどなく、ギリギリのところで世界は絶望せずに済んでいる。さとうさんも命に別状はないだろう。しかし重症化していたら、社会復帰するのにどれくらい時間がかかるのだろうか。後遺症などはあるのだろうか。弁当を食べた後に昼休みの残り時間を使ってパソコン検索してみた。

重症者が完全な社会復帰に要する時間は、20代の若者でおよそ1ヶ月らしい。その結果を調べている過程で、県内の感染者数、重症者数、死亡者数、それぞれの年代と地域をさかのぼって調べられることに気がついた。弘樹が最後にさとうさんを目にしたのは「今日も頑張ってください」と声をかけられた月曜日、「学費を稼がなきゃ」と答えていた火曜日、その頃だ。そこから日付を追って特に10代と20代のデータを調べてみる。うっすらニュースなどで聞いていたが、県内の感染者はほぼ横ばいだ。1年前は専門家ですら、暑くなれば感染が弱まるかもしれないと予想していた解説は何だったのだろう。海外渡航を禁止して、大規模イベントも自粛して、マスクまで標準装備しても状況は改善していない。悪化もしていない。この感染者数はリアルなのだろうか、そんなことを今さら思いながら弘樹はどんどん調べた。調べる限りこの3週間で10代と20代の重症者は出ていない。もちろん死亡者も出ていない。それだけでとりあえず弘樹は安心した。感染状況を自分から調べて数字を追ったなんて初めてだが、経理の仕事をしているだけあって細かい数字を追って必要なデータを拾うことは簡単なことだった。

 

外出自粛ムードのお盆が終わり、また通常勤務が再開した。1ヶ月経っても相変わらずコンビニにさとうさんはいない。お盆が終われば帰省先から戻るだろうし、学校が再開するだろうし、重症者のデータにカウントされない程度の感染であれば、そろそろアルバイトに復帰するだろうと考えていた。

8月最後の日曜日、弘樹は母のスマートフォンの買い替えに再度付き合った。母もやっと買い替える気持ちが固まったのか、新しい機種を選んでプランを申し込む段階になった。店員からプランについてざっくり説明を受けるが、結局どのくらいの通信量を使うのかがわかっていれば自ずとプランも決まる。「電話とちょっとしたメールくらいしか使わないと思います」母に代わって弘樹が答えた。「今後SNSや動画サービスを積極的に利用する可能性はございますか」と聞き返されて、弘樹は「別にないです」と母に確認する前に返事してしまったが、その瞬間から頭の中はまったく違うことを考えていた。

なぜ今まで気がつかなかったんだ。SNSの投稿を調べてみれば何かわかるかもしれない。家に帰ってからパソコンを開いた。「◇◇マート 桜通り ウイルス感染」と入力して検索してみる。ヒットした。やはりあのコンビニで感染が確認されたらしい。1人の学生が感染したこと、直後に店を閉鎖して残りの店員も検査を受けたこと、店内を徹底消毒したこと、安全を確認して営業再開したことが書いてある。感染した学生はさとうさんのことだろうと察しはついたが、SNSの関連記事を見て愕然とした。営業再開以降のSNSは個人攻撃の嵐だった。さとうさんの実名、年齢20歳が公開されている。「ちゃんと感染予防していたのか」「俺も感染していたらどうするつもりだ」「あのコンビニはもう行かない」くらいはまだマシだった。どこの学校、どこに住んでいる、彼氏の名前、高校時代の様子、親の職業、そしてアルバイト先の情報、まったく感染と関係のない記事が溢れている。明らかにさとうさんに近い人でないと知り得ない情報もたくさんある。

弘樹はSNSを連絡手段くらいにしか使わない。この個人攻撃は明らかに道徳的な許容範囲を超えている。こんなことを書いて世間に公開するなんて、どういうつもりなのだろうか。正義の味方のつもりなのか、悪い冗談の延長なのか、誰かが楽しんでくれるとでも思っているのか、弘樹にはさっぱり理解できなかった。さとうさんがこんな記事を目にしたら、体調が戻ったとしてもとても同じ職場には戻れないだろう。心から楽しんで笑顔で接客はできないだろう。客に喜んでもらおうと一言おまけの言葉を送ることもできないだろう。

投稿者はさとうさんが毎朝コンビニでどのように仕事をしていたのか、体験したことも見たことがないに違いない。見たことがある人がこんなことを投稿するわけがない。誰にでも分け隔てなく平等に笑顔で接していた。常連の中年女性にも、タバコを1箱だけ買う工事作業員にも、まったく目を合わせることなく弁当を買う弘樹にも同じように笑顔で接していた。そんな人がいるなんて最初は信じられなかった。今思えば、この笑顔は本当なのかな、と確かめるために毎朝通っていたようなものだった。さとうさんに接客されると、ほんのちょっとだけでも元気よく会社に行けるような気がしていた。

さとうさんの存在に気づいたのは、ここ2ヶ月くらいのことだ。もっと前からアルバイトで働いていたはずだ。コンビニ弁当を買うようになって1年が経つのに、ずっとさとうさんの凄さがわからなかった。それもそうだ。マスクをしているかどうか関係なく、極力誰とも顔を合わせないように生活してきたし、周りの人とのコミュニケーションを避けてきた。弘樹が周囲に関心がないように、誰も弘樹に関心を持たなくてもいいと思いながら学生の頃から過ごしてきた。

弘樹はこれ以上、SNSの投稿を追いかけないようにした。こんなこと書くのはほんの一部の人だとわかっている。それでも人間不信になりそうだ。見えないウイルスに対して我慢の生活が続いて、世界は誰かを攻撃したいストレスで満ち溢れているのかもしれない。このままでは人間同士で攻撃し合っているうちにお互いに弱ってしまい自滅してしまう。それこそウイルスの思う壺だ。こんな世界はもう嫌だ、弘樹は絶望的な気分でその夜を過ごした。

 

翌日の月曜日、目覚めは最悪だった。珍しく母に起こされて準備して会社に向かった。今日も弁当は買わなければならないので、いつものコンビニに寄る。あんなことを書いたのは誰なんだ、ついそういう目で周りの客を見てしまう。あんな投稿を目にしたら他の店員はどう感じただろう。さとうさんが感染したせいで酷い目に遭った、まさかそんなこと思ったりしないだろうが、心なしか元気なく働いているようにも見える。客は減っているのだろうか。見た感じ大きな変化はなさそうだ。たださとうさんがいないだけだ。

コンビニから出て会社に向かって歩き始める。今年は残暑らしい残暑がなく、一気に涼しくなってきた。会社に向かって歩きながら、さとうさんがいなくなったらいなくなったことで、また考えてしまう。あんな人はいない。そしてある日いなくなった。ウイルスに感染したことが引き金ではあるが、職場に復帰できないのは、どう考えてもSNSによる個人攻撃、真偽不明の情報漏洩、バッシングが続いたからだ。完全に人災だ。今さとうさんは元気になってどこで何をしているのだろう。通っている学校については奇しくもSNSから情報を得たが、彼氏の情報は本当だろうか。あれだけ輝いていたから、周りの男子にも人気があっただろう。コンビニでまた店員と客の関係で顔を合わせることはないだろうが、街を歩いてばったり会うことはあるだろうか。会ったらどうすればいいのだろうか。会っても別にどうもしなくて良いのだが、弘樹は何か伝えたい気持ちがあった。さとうさんの言葉でちょっとだけでも元気になって会社に出勤できていた。何か伝えたいのだが、明確な言葉があるわけでもない。さとうさんにとって重要でないことをさとうさんに伝えるのは非常に難しい。しかしさとうさんのおかげで、何か弘樹の中で変わりそうな予感があった。同じ時間に起きて、同じように朝支度して、同じように働いて、感染しないように注意して暮らす、それよりも生きていくためにもっと大事なことがあるはずだ。そのヒントをさとうさんからもらっている気がする。

さとうさんは何を考えて暮らしているんだろう。アルバイトのこと。感染のこと。会社に着いた。

 

ビルに入り混雑を避けるために階段で登っていく。途中で、モップをかけて床の清掃をしているパートに会う。「どうぞどうぞ通ってください」と邪魔にならないように通路を譲ってくれた。弘樹は「いつもありがとうございます」と伝えてみた。「はいよ」とぶっきらぼうな返事が返ってきた。でも何か愛情のようなものを感じた。3階に辿り着き自分のデスクに座って、昨夜のメール受信を確認してすぐに返信する。いつものようにパソコンの入力作業に入る。今日は誰とも打ち合わせがないから、自分のペースで打てるところまで進めていこう。こういう何もない日に仕事を進めておくと月末が楽になる。

昼休憩になり、今日も途中で買ったコンビニ弁当を食べる。コンビニ弁当を見るたびにさとうさんのことを考えるようになった。いつもマスク姿だったので、どんな髪型だったのか、目元だったのか、そしてどんな声だったのか記憶も曖昧になってきた。弘樹が毎日のように入力している情報は誰かの役に立っているのだろうか。誰かがやらなければならない仕事だから、無意味でないことはわかっている。ふと、清掃しているパートに挨拶した光景を思い出した。道を譲ってくれたので弘樹が感謝の言葉を伝えた。それだけでも初体験のような出来事だったが「はいよ」と答えたパートとは、何か一気に距離が縮まった気がする。

コミュニケーションに関することは弘樹の不得意分野だ。そもそもコミュニケーションを避けようとしてきたので、場数が少なすぎて得意も不得意もないくらいの状態だ。こんなことでいいのだろうか。

 

週末になり、また母のスマートフォンの世話をすることになった。新しい機種に写真データを移したいが自分ではできなかったらしい。そもそも弘樹は、母がスマートフォンで写真を撮って保存していたことすら知らなかったが、データを消さないように注意しながら作業を進めた。リビングで母は、自分でどうにかすることをとっくに諦めているらしくテレビに集中しており、その少し離れたところで弘樹がスマートフォンに集中している。見るつもりが無くても保存されている写真を覗いて見ることになった。弘樹の中学校の卒業証書、入学した高校の正門、新しい通学用バック、弘樹と一緒に買ったスマートフォンの空箱が2つ、いつのものか読み取れないが成績表、こんなに写真を撮っていたなんて気づかなかった。

高校の制服、その制服を着て自転車で遠ざかる姿、ボロボロに履き潰したシューズ、新しく買った眼鏡、父が誕生日にくれた腕時計、毎日のように使っている茶碗と箸、付箋だらけの辞書、修学旅行でとりあえず買ったお土産の櫛、情報処理の資格を取った合格証、弘樹が覚えていないような物まで写真に収めている。ざっと数えても100枚以上あることはわかる。さらに続く。高校の卒業証書、ハンガーに吊るされたスーツ、地味なネクタイ、ピカピカのビジネスシューズ、スカスカのビジネスバッグ、アップの写真ではスーツの上着に社章が付いてある。自分で稼ぐようになって買ったシューズ、あった方がいいかなと買った自宅用パソコン、弘樹だけ先に買い替えた充電中のスマートフォンも写真に収められている。何か撮られて困る写真があったわけではないが、母がいつの間にかこんなに写真を撮っていたこと、そのデータを新しい機種に移そうとしていることに驚きを感じた。

見てはならない物を見ているわけではないだろうから、母に「この写真ってどうしてんの?」と弘樹は聞いてみた。「どうしてるって、カメラ屋で現像しておばあちゃんに送っているんだよ」と母はあっさり答えた。弘樹は改めて写真をスクロールして眺めた。どの写真にも弘樹の顔がない。

 

その後のデータ移行はスムーズに終わり、弘樹は部屋に戻った。ベッドに寝転がる。あれは中学2年生のときだ。母が買ったばかりのスマートフォンで弘樹の顔を撮ろうとしていた。自分でニキビを潰したせいで絆創膏の上から血が滲み出ている最悪な気分の日だった。母はそんな顔を面白がってなのか記念なのか撮ろうとしたのかもしれない。弘樹は本気で怒った。何を言ったか覚えていないが「二度と顔を撮らないでくれ」そんな意味のことを言った気がする。それ以降、母にも父にも写真を撮られた記憶がない。高校受験の年になったことで、盆正月に帰省することもなくなり、もうしばらく祖母の顔を見ていない。高校生の頃は自宅でオンラインゲームにはまっていて、その仮想世界で敵を倒すことが墓参りよりも重要だったし、社会人になってすぐに未知のウイルスが感染爆発して、ますます祖母の顔を見る機会がなくなった。

そんな状況でも母は、弘樹の「二度と顔を撮らないでくれ」という言葉を忠実に守り、それでも弘樹の生活の一部、成長の一部を写真に収めていた。それを現像して祖母に送っていたらしい。祖母はその送られてくる写真を見て喜んでいたに違いない。とにかく会うたびに、弘樹の身長が伸びていることを喜んでいた。写真を見れば確かに何を買ったのか、何を使っているのか察することはできただろう。母が手紙を添えたり、電話で写真の意味を補足していたのかもしれない。中学生、高校生、そして社会人と大きく生活や環境が変わる瞬間、祖母も間近で見たかったのではないか。どうして弘樹の顔が写っていないんだろう、そんな疑問はなかったのだろうか。空っぽのスーツの写真を見て、祖母は何を感じていたんだろう。

この6年を振り返って目頭が熱くなった。ニキビの顔にコンプレックスを感じて、誰にも顔を向けたくなかった。そのコンプレックスはニキビがほとんど目立たなくなった今でも続いている。中学生の頃にウイルスが広がってマスクが当たり前の世界だったら良かったのに、と今でも思っている。同級生の顔を見つめて、自分のニキビと比べることも無かっただろう。何度ウイルスに対して「6年遅いんだよ」と呪ったかわからない。弘樹はそんなちっぽけなコンプレックスに振り回されて6年を過ごしていたが、母は何も変わらず弘樹を見て成長を感じて、写真に収めて祖母と共有してくれていたのかと思うと、感動と恥ずかしさで涙が流れた。弘樹の方こそ目が覚めるのが6年遅かった。祖母も見たかったであろう成長記録はどこにも残っていない。空っぽのスーツの写真しか残っていない。

気持ちが落ち着いてからリビングに戻った。「ちょっと新しいやつで試しに一緒に撮ろうよ」弘樹は母に提案した。母は嬉しそうだ。軽く「いいよ」と答えた。どうやって撮るのかと聞いてきたので、それには答えず隣に座ってスマートフォンを持った右腕を遠くに伸ばした。母はピースサインをしている。弘樹は初めて自撮りというものをやってみた。

2人に共通するのは、変わらない愛情だ。さとうさんはコンビニに来店した客に対して、誰にだって同じように愛情を注いで接客していたと思う。母は弘樹が何歳になろうが、どんな様子だろうが愛情を注いでくれていた。弘樹の成長をきっと喜んで今しかない瞬間を写真に収めていた。どちらも見返りを求めない愛情だ。弘樹はどうだ。自分から全てに対して遠ざかっていて、何かに対して愛情を注いだことがあっただろうか。ニキビを恨んで、ウイルスの蔓延が6年遅いと呪っている始末だ。そんな自分が恥ずかしくてしょうがなかった。自分には何ができるだろう、そんなことを考えながら眠りについた。

 

1年が経った。

弘樹はどの部署の社員にも積極的に話しかけるようになっており、弘樹といえば「いつもありがとうございます」が定番のようなイメージが社内に広がっている。上司でも新入社員でも良いところを見つけては褒めることに徹して、特に同期からはキャラクターの変わりように驚かれた。弘樹が発信源となり、ポジティブな空気が社内に広がっている。すごい影響力のある彼女でもできたんじゃないか、宝くじでも当たったんじゃないか、色々な噂は飛び交ったが全部外れていた。ただただ弘樹は真似をしているだけだった。結局さとうさんとは再会することなく1年が経ってしまった。なぜコンビニでレジを打ちながら、どうせ見えないマスクの下でも笑顔で元気に接客していたのか、弘樹にも今ならわかる気がした。特別な理由なんてない、自分がそうしたいからしているのだ。いつかどこかでさとうさんと再会したら、感謝の言葉だけは伝えたいと思っている。確実にさとうさんから見れば、弘樹は1日数百人の客の1人、しかも目も合わせない弘樹に対してインパクトが残っているはずがない。それでも構わない。元気に暮らしていてほしい。地球上最強だったはずのヒトがウイルスとの戦いに疲弊している間に、弘樹は他人に対してポジティブな影響を与えられる存在になった。今の自分に変わることができたのは、さとうさん、あなたのおかげだと自信を持って伝えたかった。

 

さらに1年が経ち、ついにウイルス感染しても重症化を防ぐことができる特効薬が開発されて、もうウイルスが世界を麻痺させる存在ではなくなった。あの頃は感染することよりも人間同士が背を向けたり、顔を合わせたと思ったら中傷する言葉を突きつけ合ったり、それはそれで未体験の大変な時代だった。徐々に人々の暮らしは落ち着きを取り戻しているが、ウイルスの脅威が消えて再び、地球上全体が武力とテクノロジーを争う舞台になっている。

経理課の仕事は弘樹に向いていると自他ともに考えていたし、そこで昇進を狙うのもひとつの働き方だったが別のキャリア、具体的には人事に関わる仕事に挑戦したくなり、半年に1回の面談で思い切って上司に相談した。上司は賛成してくれた。経理課には惜しまれながら、弘樹は人事課に異動した。

 

そして4年が経過した。弘樹は26歳になった。人事課に異動して4回目の春が来ている。新卒採用も中途採用に関しても、弘樹は面接官を担当しているので春はとにかく忙しい。人事とは自分の会社の社員を評価してモチベーションを上げたり、考課する難しさがある一方で、社内で誰よりも新しい出会いを体験できるのでやりがいだけではなく、楽しさも感じるようになってきた。

弘樹も中堅社員の仲間入りして、今年もまた新卒採用の季節がやってきた。ウイルスが猛威をふるっていた4年前までは感染防止のためにパソコンの画面越しに面接をして、極力インターンシップも簡素化して採用活動を行っていたが、最近は応募してきた大学生とリアルなコミュニケーションを取ることが主流になっている。企業の面接官と大学生が一緒に政治家にインタビューに行ったり、ボランティア活動をしたり、母校巡りをしたり人間力で採用を決める企業が増えてきた。結局誰だって繋がりの中で生きていて、未来、過去、現在それぞれの繋がりを求めている。

 

この世界を少しでも明るくするために、自分ができることを一歩ずつでもやってみよう、それが弘樹の人生の方針になっている。今日の午前中は県内高校で企業説明会を行った。説明会では弘樹が勤める会社の魅力、そして一緒に働く社員がどれだけ楽しそうに仕事をしているのかを熱く語った。別に自分の会社に就職してくれなくても構わない、とにかく大人になって働くことは素晴らしいことなんだ、それだけを伝えたかった。そして今日も暴走気味で40分の説明会を終えてバタバタと会社に戻る。午後は中途採用の面接が3件予定されているはずだ。弘樹が面接官となり一次面接を行う。面接は30分の時間設定なので、その限られた30分で応募者の魅力をどれだけ引き出せるか、それが面接官弘樹の業務上のこだわりになっている。応募者は応募者で準備してきた自己アピールをするが、それ以上の魅力を発見することがあるから面接は奥が深い。急いで昼食を済ませて、面接を行う会議室の椅子に座り、後輩が書類選考した3人分の応募書類を預かった。予定よりも会社に戻るのが遅れてしまい、やっと応募書類に目を通すことができた。急いで食べたので一息つこうと考えていたが、1人目の応募書類を見て背中に稲妻が走った。弘樹は目を疑った。ドアをノックされて反射的に「どうぞ」と答えてしまった。弘樹に今一番必要なのは考える時間だったが、すっとドアを開けて入ってきた。心の準備ができていない。

「さとうともみと申します。本日は面接のお時間いただきましてありがとうございます」

6年振りの変わらない声に、弘樹はまっすぐに相手の目を見て、椅子から立ち上がっていた。

 

以上